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9 一緒に

 翌日の昼休み、透葉は準備室の扉の前で立ち止まった。

 ここに来るまでの廊下がいつもより長く感じた。教室のざわめきは同じなのに、今日は音が鋭い。誰かの笑い声が廊下の角で跳ね返って、耳の奥に刺さる。


 透葉は扉の取っ手に手をかけるふりをして、指先を引っ込めた。

 鍵はない。開かない。開けるのは陽葵だ。昨日もそうだった。二人の場所だったから、鍵を陽葵が持つことに違和感はなかった。けれど昨日、柚羽が入った。その考えが透葉の中でまだ引っかかっている。ただ入ったのではなく、“逃げ込んだ”のかもしれない、と。


(来るのかな)

 透葉は自分に言い聞かせる。

 来たら来たでどうする。来なかったら来なかったで、どう感じる。透葉はそのどちらも怖い。自分の感情がもう自分の管理下にない気がする。

 廊下の向こうから足音がした。

 一定のリズム。迷いのない歩き方。陽葵の足音。

 角を曲がってきた陽葵は透葉を見つけると少しだけ笑った。

 今日もジャージではなく制服のまま。昼休みは走れない。目があるから。陽葵の“目”という言葉が透葉の胸に小さく残る。目に見えるものだけじゃなく、目に見えない期待やルールも含んでいるようで。


「待ってた?」

 陽葵が聞く。

 透葉はすぐに首を振った。

「……待ってない」

 陽葵が軽く肩を揺らして笑う。

「うん。じゃあ、奇遇だ」

「……そう」

 こういうやり取りがすでに“いつも”になりかけている。

 その事実が怖いのに、少しだけ安心する。笑い方を覚える。返事の仕方を覚える。人と一緒にいるときの呼吸を覚える。覚えてしまうと、戻れなくなる気がする。


 陽葵は鍵を取り出し、扉の前で立ち止まった。

 鍵穴に差し込む手が一瞬だけ止まる。昨日のことを思い出したのだろう。透葉はその止まり方を見て、胸の奥が少しだけ痛む。陽葵も“二人の場所”に何かが入ったことを覚えている。

 陽葵は鍵を回した。

 カチ、と音がして扉が開く。準備室の匂いが流れ出す。透葉はその匂いを吸い込んで、呼吸が少しだけ楽になる。

 扉を開けた瞬間、二人とも少しだけ固まった。

 準備室の中に柚羽がいた。

 昨日と同じ机の端。

 同じ姿勢。弁当箱を静かに広げている。けれど昨日よりも動きが速い。気配が小さい。誰にも気づかれないように、存在を薄くしている。

 透葉は胸の奥で何かが鳴った。

 “来た”。

 来てしまった、ではなく、来た。そう思った自分に驚く。否定できない。


 柚羽は扉が開く音にびくりと肩を震わせ、振り返った。

 透葉と陽葵を見ると一瞬だけ怯えた目になり——すぐに深く頭を下げた。

「……すみません。先生に、言いました。それで、使っていいって……」

 透葉は瞬きをした。

 言った? 相談した? 柚羽が?

 陽葵が先に反応した。

「……先生に?」

 柚羽は小さく頷き、ポケットから紙を出した。

 小さなメモ。先生の字で「昼休みのみ使用可」と書かれている。簡単な許可。柚羽の指が少し震えている。たぶん、勇気を出した証拠。

 陽葵はその紙を見て少しだけ表情を緩めた。

「そっか。……偉い」

 柚羽の肩がほんの少しだけ落ちた。

 それだけで透葉は気づく。柚羽は“偉い”と言われることに飢えている。飢えているという言い方は失礼かもしれない。でも、褒められることでしか息ができない人がいる。褒められないと、存在が許されないと感じる人がいる。


 透葉は褒める言葉を持っていない。

 だから、事実だけを言う。

「……入る前に言えたなら、それでいい」

 言い方が硬い。

 でも柚羽は少しだけ目を丸くして、頷いた。

 陽葵が扉を閉め、鍵をかけた。

 その音が三人を同じ箱の中へ閉じ込める。閉じ込める、という言葉が浮かんでしまったことに、透葉は内心で顔をしかめた。閉じ込めるんじゃない。守るためだ。外の目から。


 陽葵はいつもの机に鞄を置きながら言った。

 「真壁さん、昨日……大丈夫だった?」

 柚羽は一瞬だけ箸を止めた。

 「大丈夫」という言葉に反応したのだろう。柚羽びとっての”大丈夫”は、たぶん大丈夫じゃない時に向けられる言葉だから。

 柚羽は小さく答えた。

「……大丈夫、です」

 透葉はその返答の速さに胸の奥が冷える。

 大丈夫と言うことで話を終わらせようとしている。誰にも触れられないようにしている。触れられると、崩れるから。

 陽葵もそれ以上踏み込まなかった。

 代わりに少しだけ明るい声を作る。

「じゃあ、食べよ。昼、短いし」

 柚羽が小さく頷く。

 透葉もパンの袋を開ける。


 三人で食べる準備室は二人のときと違って少しだけ音が増えた。

 紙が擦れる音、弁当箱のふたが当たる音、椅子がわずかに軋む音。増えた音は透葉を落ち着かなくさせる。けれど落ち着かないだけじゃない自分にも気づく。

 この小さな部屋に三つの呼吸がある。

 それが不思議で、少しだけ現実味があった。

 陽葵が箸を持ったまま言う。

 「真壁さん、お弁当、毎日作ってるの?」

 柚羽は箸を止め、少しだけ迷ってから頷いた。

「……姉が」

 姉。

 透葉の中でその言葉が引っかかった。柚羽の姉は生徒会役員で才色兼備——透葉は以前、真壁という名をどこかで聞いたような気がしていた。けれど今はそれを言葉にしない。柚羽の世界に踏み込みすぎるのが怖い。

 陽葵が「優しいお姉さんだね」と言うと、柚羽は小さく頷いた。

「……優しい、です。……でも、忙しいです」

 忙しい。

 忙しいという言葉は寂しさをごまかすときにも使われる。透葉はそれを知っている。母はいつも忙しい。忙しいから、透葉を見ない。忙しいから、透葉はひとりでいる。

 透葉はパンを齧りながら柚羽の手元を見た。

 今日も弁当の量は少ない。柚羽はそれを急いで食べている。食べ方が”隠す”みたいだ。誰にも見られたくない食べ方。

 陽葵は箸を止めて言った。

「真壁さん、無理して食べなくていいよ。……人と食べるの、苦手?」

 柚羽がびくりと肩を震わせた。

 透葉は内心で息を呑む。踏み込んだ。陽葵が踏み込んだ。でも、声は優しい。

 柚羽はしばらく黙って、やっと小さく言った。

「……人がいると、ちょっと、見られるのが……」

 透葉の胸の奥がきゅっと縮む。

 透葉も同じだ。教室で食べるのが苦手。噛む音、飲み込む動き、手の動き。全部が見られている気がする。誰も見ていないのに、見られている気がする。


 透葉は柚羽の言葉に反射で頷きそうになって、やめた。

 頷いたら“仲間”になってしまう。仲間になると、責任が生まれる。責任は怖い。——でも、見捨てるのも嫌だ。

 陽葵は「そっか」とだけ言った。

 そして、急に明るく話題を変える。

「じゃあさ、真壁さん。ここで食べるときは、誰も見ないことにしよ」

 透葉は思わず陽葵を見る。

 見ないことにする。そんな選択肢があるのか。透葉はいつも“見られるか見られないか”で怯えていただけで、“見ない”を相手に提案することを知らなかった。

 陽葵は続けた。

「見られるのが嫌なら、周りが見なければいい。……私、透葉さんのパン、じっと見たことないでしょ?」

 透葉は反射で突っ込んだ。

「いや、全然あるけど」

 陽葵が笑う。

「見てないって」

 透葉が小さく眉を寄せると、陽葵がさらに笑う。

 柚羽がそのやり取りを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑いそうになって、笑うのを我慢するみたいな顔。

 透葉はその瞬間、胸の奥が温かくなった。

 柚羽も笑える。笑えるのに、笑えない状況の中にいる。


 陽葵は柚羽の口元の緩みを見逃さなかった。

 嬉しそうに言う。

「今、笑いそうだったね」

 柚羽は慌てて首を振る。

「……笑ってません」

「笑ってた」

「……笑ってないです」

 透葉はまた反射で雑な一言を入れてしまう。

「……笑えばいいのに」

 言ってから、透葉は内心で固まった。

 自分がそんなことを言うなんて。笑えばいいのに、という言葉は簡単だ。言う側は簡単なのに、言われる側は苦しい。透葉はそれを知っている。なのに、言ってしまった。

 柚羽は透葉を見て目を瞬かせた。

 それからほんの少しだけ息を吐いた。

「……笑っていいんですか」

 声が小さい。

 透葉にはその小ささが怖かった。許可を求めている声。笑うことさえ許可がいる世界。柚羽が生きている場所は、そんな場所なのかもしれない。


 陽葵が即答した。

「いいよ。ここでは、いい」

 “ここでは”。

 その言葉が透葉の胸に落ちた。準備室は外とは違うルールで生きていい場所になる。透葉と陽葵の居場所だった場所が、柚羽の居場所にもなる。居場所が増えることは悪いことじゃない。——頭ではわかる。わかるのに、胸の奥で小さな嫉妬みたいなものが動く。

(私の場所だったのに)

 そんな幼い感情が透葉の中で顔を出す。

 透葉はそれをすぐに押し込めた。そんな感情は汚い。汚いから、見たくない。見せたくない。でも、思うように消えない。


 透葉はパンの袋を握りしめ、会話のテンポを戻すように言った。

「じゃあ、笑う練習でもする?」

 陽葵が目を丸くして、次に吹き出した。

「透葉さんが言うと、なんか怖い」

 透葉は無表情で返す。

「……怖くないし」

「怖いよ」

 柚羽が堪えきれずに小さく笑った。

 ほんの小さな笑い声。すぐに口を押さえて隠す。でも、確かに笑った。

 透葉の胸の奥がふっとほどける。

 外の世界ではきっと笑えない。ここでは笑えた。それだけで、透葉は“ここを守りたい”と思ってしまう。守る。守るという言葉を透葉は久しぶりに思い浮かべた。


 昼休みの終わりが近づく。

 三人はそれぞれ弁当やゴミを片付ける。柚羽は頻りに手を動かして机を丁寧に拭いた。拭かなくてもいいのに、拭いてしまう。居場所を汚したくない、という思いが乗った手つき。

 陽葵が鍵を取り出しながら言った。

「真壁さん。明日も来るなら、また先生に言おうね。……一緒に」

 柚羽の動きが止まる。

 “一緒に”。その言葉に反応したのだろう。柚羽はしばらく黙って、それから小さく頷いた。

「……はい」


 扉を開けると、廊下の音が押し寄せてくる。

 準備室の中で呼吸できた分、廊下の音が重い。透葉はその重さを背中で受けながら、柚羽が自然に二人の後ろを歩き始めたことに気づいた。

 昨日より少しだけ距離が近い。

 近いが、まだ遠い。でもちょっとだけ前へ進んでいる。


 透葉は思った。

 波が少しだけ動いた。海の表面がほんのわずかに揺れた。

 その揺れが、これから大きな波になるのか、それとも小さなさざ波で終わるのかはわからない。


 でも、透葉は知ってしまった。

 自分の世界は誰かが入ってくることで変わる。

 変わることは怖い。


 怖いのに——嫌なことばかりじゃない。


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