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8 真壁柚羽(まかべゆう)

 昼休みのチャイムが鳴って、透葉は準備室の扉へ向かった。

 いつもなら陽葵が角を曲がってくる足音が聞こえる。今日は聞こえない。透葉は扉の前で立ち止まり、少しだけ待った。

 待つという行為が透葉にはまだ慣れない。

 待つと期待してしまう。期待すると裏切られたときに痛い。透葉はそれが嫌で、なるべく待たないで生きてきた。


 それでも今日は待った。

 五秒。十秒。廊下のざわめきが遠い。透葉は自分の呼吸の音が気になって咳払いをした。

 そのとき、準備室の扉の向こうからかすかな物音がした。

 透葉は息を止めた。

 鍵は閉まっているはずだ。陽葵が持っている。先生が持っている。——なのに、扉の向こうに気配がある。

 透葉は一歩だけ扉に近づき、耳を澄ませた。

 紙が擦れるような音。机の脚が小さく鳴る音。誰かが中にいる。誰かが、準備室にいる。


(……なんで)

 透葉の背中が冷たくなる。

 ここは透葉と陽葵の場所だった。誰も来ないはずの場所。来ないから息ができた場所。そこに誰かがいる。それだけで透葉の胸の奥がざわつく。


 透葉は扉の取っ手に手をかけた。

 鍵がかかっていない。ほんの少しだけ取っ手が動く。

「……え」

 声が漏れた。

 かかっていない。誰かが開けた。先生? それなら声がするはず。陽葵? 陽葵なら廊下に気配があるはず。

 透葉はゆっくり扉を開けた。

 準備室の中はいつもより暗く見えた。

 窓の光が薄いせいかもしれない。けれど、まず目に入ったのは——机の端に座っている、小さな影だった。


 制服姿の一年生。

 髪は黒く、肩より少し短い。姿勢が硬い。手元の弁当箱に視線を落としたまま、固まっている。まるで、自分がここにいてはいけないことを知っているみたいに。

 透葉と目が合った瞬間、その子はびくりと肩を震わせた。

 鹿みたいな目。怯えた目。逃げ場を探す目。

 透葉の喉が乾く。

 言葉が出ない。どうしてここにいるの。鍵は? 誰が開けたの。——問いが渦巻くのに、最初に口から出たのは全然違う言葉だった。

「……ここ、鍵……」

 途中で止まる。意味が通らない。


 一年生は小さく口を開いて、やっと声を出した。

「……す、すみません……」

 声が小さい。

 それでも、謝る速さだけは速い。謝るのに慣れている声。透葉はその声に胸の奥が少し痛んだ。

 そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。

 少し急いだ足音。いつもの足音。

「透葉さん!」

 陽葵の声がして透葉は反射で振り返りそうになった。

 でも振り返れない。準備室の中に見知らぬ一年生がいる。陽葵に見られたくない気持ちと、陽葵に頼りたい気持ちが同時に押し寄せて、透葉は身動きが取れない。

 陽葵が扉の前まで来て、透葉の隣で足を止めた。

 そして、部屋の中を見て目を丸くする。

「……え」

 透葉はやっと息を吐いた。

 崩れた当たり前の音が胸の奥で小さく鳴っている。

 それでも透葉は思った。

 まだ終わりじゃない。終わりにしたくない。ここから、また別の“日常”が始まるだけかもしれない。


 透葉は部屋の中の一年生を見た。

 怯えている。縮こまっている。けれど、どこかで必死に耐えている。

 透葉は小さく言った。

「……大丈夫。逃げないで」

 自分の声が思ったより柔らかくて、透葉自身が驚いた。

 陽葵も透葉の横で何か言おうとして息を吸う。

 準備室の空気が少しだけ変わる。

 いつもの鍵の音ではなく、誰かが入り込んだ気配の音。

 透葉はその変化を受け止めるしかなかった。

 絵具と紙の匂いは同じはずなのに、今日はそこに“人の体温”が混ざっている。誰かがここにいた時間の匂い。透葉はその匂いを吸い込んだ瞬間、胸の奥がざわついた。自分の居場所に他人がいるだけで、こんなに落ち着かなくなるのか、と。


 扉の前で立ち尽くしている透葉の横に陽葵が並ぶ。

 陽葵は準備室の中の一年生を見て、驚きのまま固まっていた。

 一年生は机の端で縮こまり、弁当箱のふたを半分開けたまま、固まっている。箸も持てず、視線だけが宙をさまよっていた。

「……すみません」

 また謝る声。

 謝ることで先に自分の存在を小さくする声。透葉はその声にまた胸が痛んだ。

 陽葵がようやく息を吐き、声を落とした。

「大丈夫。怒ってないから」

 その言い方は丁寧で、いつもの“正しい子”の声だった。

 けれど透葉にはそこに少しだけ硬さが混じっているのがわかった。準備室は二人の場所だった。その当たり前が崩れた。陽葵だって動揺している。


 透葉は扉を開けたまま、ゆっくり部屋の中へ入った。

 一年生はさらに肩を縮めた。逃げる準備をするみたいに、膝に力が入る。透葉はそれを見て反射で言葉を選ぶ。

「……ほんとに、大丈夫。座ってて」

 自分の声が意外なくらい柔らかい。

 透葉は自分に驚く。普通こういうときの透葉は黙る。黙って距離を取る。距離を取って、相手が勝手に去るのを待つ。そうやって自分を守ってきたのに、今日は——違った。

 陽葵も部屋の中へ入ってきて、扉をそっと閉めた。

 外のざわめきが遮断される。準備室が小さな箱になる。その箱の中に今は三人いる。透葉はそれが少し息苦しいのに、息苦しいだけじゃないことにも気づく。

 一年生は透葉と陽葵を交互に見て、ようやく名乗った。

「……一年の、真壁まかべです。真壁……柚羽ゆう

 柚羽。

 透葉の中でその音が静かに落ちた。柔らかい音。しかし柚羽の声は硬い。噛みしめるみたいな硬さ。自分を守るために、声まで硬くしている。

 陽葵が頷いた。

「笹波です。二年の。……笹波陽葵」

 透葉も小さく言う。

「……彩瀬。二年」

 名乗るだけで空気が少しだけ落ち着く。

 名前があると人は急に“人”になる。透葉はそう思った。名前のないものは簡単に消される。名前があると消されにくくなる。柚羽の名前を聞いた瞬間、透葉は彼女を“消えかけた影”ではなく“生徒”として見てしまった。


 陽葵が丁寧に聞いた。

「真壁さん、どうしてここに?」

 柚羽は一瞬だけ口を開いて、閉じた。

 言葉が喉で引っかかる。言いたくないのに、言わないと追い出されるかもしれない。そんな葛藤が顔に出ている。

 透葉は柚羽の視線が扉の方へ何度も向くのを見た。

 逃げ道を気にしている。追われる側の目だ。

 柚羽は小さく言った。

「……屋上、いっぱいで……」

 いっぱい。

 昼休みの屋上は混むこともある。最近は特に。透葉はそれを知っている。けれど柚羽の言い方は、“混んでいたから別の場所に来た”という軽さではなかった。

 陽葵はさらに声を柔らかくする。

「準備室、鍵が必要だよね。どうやって入ったの?」

 柚羽の肩がびくっと揺れた。

 その反応だけで透葉は何かを察してしまう。誰かが開けた。あるいは、開けっぱなしだった。あるいは——柚羽は鍵をどこかで。


 柚羽は視線を床に落とし、声を絞り出す。

「……さっき、美術室の前で、先生が出ていって……」

 透葉はすぐに理解した。

 先生が鍵をかけ忘れた。あるいは、準備室の扉がきちんと閉まっていなかった。昨日鍵を返したとき、先生は「ご苦労様」と言った。“また使うなら言ってね”の軽さ。そういう軽さは時々こういう穴になる。

 柚羽は続けた。

「……開いてたから。ほんとに、入るつもりじゃなくて……」

 言葉が途切れる。

 そこで終わらせたかったのだろう。柚羽の目がまた扉の方へ逃げた。透葉はその目を見て、胸の奥が痛くなる。そこにいるのは“過去の透葉”だ。居場所を失いかけて、逃げる場所を探していたときの自分。


 陽葵は責めない。

 ただ、少しだけ困った顔をして、透葉を見る。視線で相談している。“どうする?”という問い。

 透葉は答えを急がなかった。

 急ぐと間違える。間違えると誰かが傷つく。透葉はその怖さを知っている。でも——ここで何もしないのも、きっと傷になる。

 透葉は机の端に置かれた柚羽の弁当箱を見た。

 ふたが半分開いている。中身はほとんど手がついていない。箸も握っていない。昼休みの途中でここに入って、食べようとした。でも、食べられなかった。

 透葉は小さく言った。

「……食べて」

 柚羽が目を上げる。

 その目が怯えている。怒られると思っている。追い出されると思っている。

 透葉は言葉を継いだ。

「……昼休み、短い。食べないと、午後がしんどい」

 それは透葉自身への言い訳でもあった。

 優しさをそのまま出すと照れてしまう。だから、事実として言う。事実なら言える。

 陽葵も頷いた。

「ここ、静かだから。……食べていいよ」


 柚羽は数秒、固まったまま動かなかった。

 それから、ようやく小さく頷き、箸を握った。握った箸が少し震えている。柚羽はそれを隠そうとする。透葉は見ないふりをした。見ないふりは時々優しさになる。


 三人で静かに昼食を始めた。

 透葉はパンの袋を開け、陽葵は弁当を広げる。柚羽は弁当箱の中身を少しずつ口に運ぶ。咀嚼の音は小さい。準備室の時計の針の音がやけに大きい。

 透葉は柚羽の手元を見てしまう。

 弁当はきちんとしている。彩りも整っている。けれど量が少ない。少ないのが気になる。透葉は口にしかけてやめた。余計なことを言うと柚羽がまた縮こまる。

 陽葵が不意に言った。

「真壁さんは屋上、苦手?」

 柚羽は箸を止め、しばらく黙った。

 そして、ほんの少しだけ頷いた。

「……人が、多いから」

 陽葵は「そっか」と言った。

 それ以上は聞かない。聞けば聞くほど、柚羽の傷に触れる気がする。陽葵は“正しい距離”の取り方を知っている。だから、透葉は少し安心する。


 でも逆に怖くもなる。

 正しい距離は時々冷たい。柚羽が本当に欲しいのは、正しい距離じゃないかもしれない。でも透葉は無闇に近づくことを恐れている。


 沈黙が落ちる。

 透葉は沈黙の中で柚羽の制服の袖口が少しだけ擦れているのを見た。汚れじゃない。擦れた跡。何度も、同じ場所を掴まれたみたいな跡。

 透葉の胸の奥が冷たくなる。

 そのとき、廊下の方から足音が聞こえた。

 準備室の近くを通り過ぎる足音。笑い声。二、三人。

 柚羽の箸が止まった。肩が硬くなる。呼吸が浅くなる。目がまた扉を見る。

 透葉は反射で立ち上がりそうになって、堪えた。

 立ち上がったら、柚羽は余計に怯える。透葉は座ったまま、できるだけ平坦に言った。

「……大丈夫。ここ、いつも閉まってるから」

 柚羽がこちらを見る。

 その目はまだ怯えている。けれど、透葉の言葉を受け取ろうとしている。

 陽葵が扉の鍵を確認するようにポケットを軽く叩いた。

 その仕草だけで柚羽の肩が少し落ちる。落ちた肩が少しだけ幼く見えた。


 昼休みの終わりのチャイムが鳴った。

 三人とも、箸を止める。時間が急に現実になる。準備室の外へ戻らなければいけない時間。

 陽葵が言った。

「真壁さん、午後の授業、頑張れそう?」

 柚羽は小さく頷く。

 頷いたけれど、目はまだ揺れている。頑張るという言葉が柚羽には重いのかもしれない。

 透葉は机の上のパンの袋を軽くたたみながら言った。

「……明日も、ここ来るの?」

 言ってから、透葉は自分に驚いた。

 明日という言葉を自分から出すなんて。予定を自分から提示するなんて。言ってしまった。でも、言ってしまった理由はわかっている。

 柚羽を放っておけなかった。

 それだけだ。たぶん。――たぶん、という逃げ道を残しながら、透葉は自分の言葉にすがる。

 柚羽は目を見開き、すぐに視線を落とした。

「……わかりません」

 答えは曖昧。

 でも曖昧なままでも、“拒否”はしなかった。拒否できないだけかもしれない。透葉はそこが怖かった。拒否できない人に近づくのは危険だ。やがて依存になる。自分も相手も壊れる。

 それでも、陽葵が静かに言った。

「もし来るなら、ちゃんと鍵を借りる。勝手に入っちゃだめ。先生に言おう」

 柚羽は小さく頷いた。

 頷く速度が速い。叱られることに慣れている頷き方。透葉は胸の奥が痛む。


 扉を開け三人で廊下へ出る。

 廊下の明るさが目に刺さる。準備室の静けさが嘘みたいだ。透葉はその落差に少し眩暈がした。日常はうるさい。

 柚羽は二人の少し後ろを歩いた。

 一定の距離を保つ。近づきすぎない。触れない。触れられない。透葉はその距離に柚羽の“生き方”を見た気がした。


 美術室で鍵を返すとき、先生は少し驚いた。

「今日は三人?」

 陽葵がすぐに答えた。

「はい。……準備室、開いてたみたいで」

 先生の眉が上がる。

 叱責が来るかと思った瞬間、先生は小さくため息をついた。

「ごめん。鍵、かけ忘れたかも。でも、勝手に入っちゃだめだよ」

 柚羽は深く頭を下げた。

「すみません」

 その謝り方が痛々しい。透葉は見ていられなくて、視線を逸らした。

 先生は続けた。

「……居場所がないなら、ちゃんと相談しなさい。準備室は危ないものもあるからね。使うなら、許可を取って」

 柚羽は頷く。

 頷くけれど、相談という言葉は柚羽には遠いのだろう。相談できるような人は、たいてい最初から居場所を失っていない。


 教室へ戻る途中、陽葵が透葉の横で小さく囁いた。

「透葉さん、優しいね」

 透葉は反射で否定したくなって、口を開いてから、やめた。

 否定すると今日の行動全部が嘘になる気がした。

 透葉は代わりに雑に言った。

「……勝手に入られたの、嫌だっただけ」

 陽葵が少し笑って言う。

「そうやって卑下するところ、優しい人の言い方じゃない?」

 透葉は眉を寄せた。

「……知らない」

 陽葵は笑って、それ以上は言わなかった。

 言わないことで、透葉の照れを守ってくれる。陽葵はそういうところがずるい。


 放課後、透葉は校庭で陽葵の練習を眺めた。

 陽葵は走っている。けれど、今日はいつもよりペースが乱れているように見えた。透葉はそれを“気のせい”にしたかった。昨日のつまずき。今日の練習の乱れ。繋げたくない。繋げると、現実が輪郭を持つから。

 練習が終わり、陽葵が透葉のところへ来た。

 汗を拭きながら、少しだけ笑う。

「ちょっと、疲れた」

 透葉は言う。

「……そりゃ疲れる」

 陽葵が「透葉さんも」と言って、透葉は小さく首を振った。

「私は、何もしてない」

「してたよ。……真壁さんのこと」

 透葉は返せなかった。

 その代わり、ショッピングセンターへ寄る話をした。カフェに行く話をした。テンポの軽い話をして、胸の奥のざわつきを誤魔化した。


 帰り道、透葉はふと振り返った。

 校門の向こうに柚羽の背中が見えた。ひとりで歩いている。小さく見える。背中が固い。誰にも触れられない背中。

 透葉は思った。

 あの子は明日も準備室に来るかもしれない。来ないかもしれない。どっちでもいい、と言えたら楽だ。けれど、透葉はもう、そう言い切れない気がした。

 透葉は胸の奥の小さな痛みを抱えたまま、陽葵と並んで歩いた。


 夕方の風が二人の間を通り抜ける。風の匂いは乾いている。けれど、透葉の胸の奥には海の匂いが残っていた。

 いつか行く海の匂い。

 まだ知らないはずの未来の匂い。

 その匂いが少しだけ怖くて——


 ほんの少しだけ、嬉しかった。


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