表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/20

7 ふわふわが勝ち

 美術準備室の扉の前には陽葵が先に来ている日もあった。

 廊下の角に立って、誰かを待つみたいにぼんやりしている。来たのが自分だとわかると、陽葵は少しだけ表情を変える。笑う直前の顔になる。

「来た」

 陽葵が言う。

 透葉は返す言葉を探して、いつも同じところに落ち着く。

「……来た」

 同じ言葉なのに、陽葵が言う“来た”は温かい。

 透葉が言う“来た”はまだ硬い。でも陽葵は気にしない。それがありがたくて、また少し怖い。


 鍵の音がして、扉が開く。

 準備室の匂いが流れ出す。紙と木と、乾いた絵具の匂い。透葉はその匂いを吸い込むと、胸の内側が少しだけほどける。

 机に鞄を置く。パンの袋を出す。

 陽葵は弁当を取り出して、ふっと息を吐く。

 その息の吐き方が、家ではできない吐き方に見えた。

 透葉はそれを見てしまって、視線を落とす。見てしまうと胸が痛くなるから。

「今日、部活、休み?」

 透葉が聞くと、陽葵は首を振った。

「休みじゃない。昼は走れないだけ」

 いつも通りの答え。

 その“いつも通り”の背後に、いつも見えないものがある。目があるから。期待があるから。陽葵はそれを軽く言うけれど、軽い言い方ほど重い。

 透葉はパンを一口齧って、話題を変える。

「……昨日のクレーンゲーム――」

 陽葵がすぐに反応する。

「悔しかった! あれ、絶対取れると思った」

「思いだけで取れるなら、人生楽」

「透葉さん、またそういうこと言う」

「……事実」

 陽葵はむっとした顔をして、それから笑った。

 笑い方が少しだけ大きい。準備室の静けさの中で、その笑いがよく響く。でも嫌じゃない。


 陽葵は卵焼きを一口食べて、今度はちゃんと嬉しそうに頷いた。

「今日は甘くない。勝ち」

「勝ちって何」

「弁当にも勝ち負けはあるよ。透葉さんはないの?」

「……パンに勝ち負けはない」

「あるよ。ふわふわが勝ち」

 陽葵の言葉はたまに妙に子どもっぽい。

 その子どもっぽさが透葉を救う。陽葵が“清楚で完璧な子”じゃなくなる瞬間。透葉の前では少し崩れる瞬間。

 透葉は思ってしまう。

 この子は、本当はこうやって笑う子なんだ、と。


 午後の授業はいつも通りつまらなかった。

 けれど、透葉の中に“静かな場所”があるせいか、耐えられるようになっていた。耐える、という言い方が正しい。楽しんでいるわけじゃない。ただ、息ができる。息ができるから、溺れない。


 放課後になると、陽葵は校庭へ向かう。

 透葉は屋上へ行ったり、校庭の端で眺めたり、その日の気分で変えた。陽葵に合わせてしまう自分が怖いから、変える。変えることで、自分の意思を確かめる。確かめないと、流されてしまいそうだった。

 そして、放課後の終わりが近づくと、陽葵が透葉のところへ来る日が増えた。

 汗を拭きながら、呼吸を整えながら、当然みたいに言う。

「今日、寄ってく?」

 寄る。

 ショッピングセンター。カラオケ。ゲームセンター。カフェ。

 透葉が“惰性で通っていた場所”が、陽葵と一緒に通ると別の名前を持つ。

 透葉はいつも小さく頷く。

 頷きながら、胸の奥で何かが鳴る。これは恋じゃない、と透葉は思う。恋という言葉は軽い。軽いのに重い。言葉にした瞬間、全部が変質してしまいそうで怖い。


 これは、たぶん——

 崇拝に近い。

 走る背中が神々しいと思ってしまった日から、透葉の中で陽葵はずっと少しだけ“上”にいる。

 上にいるのに、透葉の隣に座ってパンを齧る。卵焼きの甘さに勝ち負けをつける。クレーンゲームで真剣に悔しがる。そんな落差が、透葉には眩しくて、痛い。


 夜、家に帰ると透葉の部屋はいつも静かだった。

 玄関の鍵を回しても、誰も「おかえり」と言わない。台所も暗い。母の靴はない。あるいは、朝帰りの気配だけが残っている。洗面所に落ちた化粧品の匂いが家の空気を薄く濁している。

 透葉は慣れているつもりだった。

 慣れていない方がみじめだから、慣れたと思い込むのが得意になった。

 けれど最近、その静けさが少しだけ違って聞こえる。

 準備室の静けさは“余白”だった。家の静けさは“空洞”だ。空洞の中にいると、自分の心の音が大きくなる。大きくなると、怖いものまで浮かび上がる。


(失いたくない)

 その言葉が、夜になると輪郭を持ってしまう。

 透葉は布団に潜ってイヤホンを耳に押し込んだ。音楽は流さない。流したら余計な感情が動く。動くのが怖い。


 翌日も、昼休みは準備室だった。

 扉の鍵の音は透葉の呼吸を整える合図になりつつあった。

「透葉さん、昨日さ」

 陽葵が弁当の箸を止めて言った。

「なに」

「透葉さん、早かった」

 透葉は一瞬、理解できずに瞬きをした。

「……何の話」

「ほら、つまずいたとき。すぐ掴んだでしょ。あれ、びっくりした」

 透葉の喉が詰まる。

 あの瞬間の近さが、また胸の奥で熱を持つ。持つと同時に冷える。

 つまずく。何もないところで。二回目。三回目。——数えたくない。


 透葉はなるべく平坦に返した。

「……反射」

「反射で手が出るって、優しいやつだ」

「違う。……倒れたら面倒」

 言ってしまってから、透葉は自分の言い方の雑さに呆れた。

 でも陽葵は笑った。救われる笑い方。

「透葉さん、ほんとそういう言い方する」

「……どうなの、それ」

「褒めてる。伝えるのが難しいだけ」

 難しいのは透葉も同じだ。

 透葉は褒められると返し方がわからない。すぐに返さないと距離が生まれる。少しでも距離が生まれると、相手は遠ざかっていく。遠くなるのは怖い。


 透葉は会話のテンポを戻すように言った。

「……陽葵も、褒め方下手」

 陽葵が目を丸くして、次の瞬間、声を殺して笑った。

「透葉さんに言われたくない!」

 そのやり取りの中で、透葉はふと感じた。

 陽葵の笑い声は準備室の空気を変える。匂いさえ変える気がする。絵具の匂いが少しだけ甘くなる。馬鹿みたいな感覚。けれど、馬鹿みたいな感覚を透葉は嫌いじゃなかった。


 そんな“当たり前”の昼休みが、ある日、少しだけ崩れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ