7 ふわふわが勝ち
美術準備室の扉の前には陽葵が先に来ている日もあった。
廊下の角に立って、誰かを待つみたいにぼんやりしている。来たのが自分だとわかると、陽葵は少しだけ表情を変える。笑う直前の顔になる。
「来た」
陽葵が言う。
透葉は返す言葉を探して、いつも同じところに落ち着く。
「……来た」
同じ言葉なのに、陽葵が言う“来た”は温かい。
透葉が言う“来た”はまだ硬い。でも陽葵は気にしない。それがありがたくて、また少し怖い。
鍵の音がして、扉が開く。
準備室の匂いが流れ出す。紙と木と、乾いた絵具の匂い。透葉はその匂いを吸い込むと、胸の内側が少しだけほどける。
机に鞄を置く。パンの袋を出す。
陽葵は弁当を取り出して、ふっと息を吐く。
その息の吐き方が、家ではできない吐き方に見えた。
透葉はそれを見てしまって、視線を落とす。見てしまうと胸が痛くなるから。
「今日、部活、休み?」
透葉が聞くと、陽葵は首を振った。
「休みじゃない。昼は走れないだけ」
いつも通りの答え。
その“いつも通り”の背後に、いつも見えないものがある。目があるから。期待があるから。陽葵はそれを軽く言うけれど、軽い言い方ほど重い。
透葉はパンを一口齧って、話題を変える。
「……昨日のクレーンゲーム――」
陽葵がすぐに反応する。
「悔しかった! あれ、絶対取れると思った」
「思いだけで取れるなら、人生楽」
「透葉さん、またそういうこと言う」
「……事実」
陽葵はむっとした顔をして、それから笑った。
笑い方が少しだけ大きい。準備室の静けさの中で、その笑いがよく響く。でも嫌じゃない。
陽葵は卵焼きを一口食べて、今度はちゃんと嬉しそうに頷いた。
「今日は甘くない。勝ち」
「勝ちって何」
「弁当にも勝ち負けはあるよ。透葉さんはないの?」
「……パンに勝ち負けはない」
「あるよ。ふわふわが勝ち」
陽葵の言葉はたまに妙に子どもっぽい。
その子どもっぽさが透葉を救う。陽葵が“清楚で完璧な子”じゃなくなる瞬間。透葉の前では少し崩れる瞬間。
透葉は思ってしまう。
この子は、本当はこうやって笑う子なんだ、と。
午後の授業はいつも通りつまらなかった。
けれど、透葉の中に“静かな場所”があるせいか、耐えられるようになっていた。耐える、という言い方が正しい。楽しんでいるわけじゃない。ただ、息ができる。息ができるから、溺れない。
放課後になると、陽葵は校庭へ向かう。
透葉は屋上へ行ったり、校庭の端で眺めたり、その日の気分で変えた。陽葵に合わせてしまう自分が怖いから、変える。変えることで、自分の意思を確かめる。確かめないと、流されてしまいそうだった。
そして、放課後の終わりが近づくと、陽葵が透葉のところへ来る日が増えた。
汗を拭きながら、呼吸を整えながら、当然みたいに言う。
「今日、寄ってく?」
寄る。
ショッピングセンター。カラオケ。ゲームセンター。カフェ。
透葉が“惰性で通っていた場所”が、陽葵と一緒に通ると別の名前を持つ。
透葉はいつも小さく頷く。
頷きながら、胸の奥で何かが鳴る。これは恋じゃない、と透葉は思う。恋という言葉は軽い。軽いのに重い。言葉にした瞬間、全部が変質してしまいそうで怖い。
これは、たぶん——
崇拝に近い。
走る背中が神々しいと思ってしまった日から、透葉の中で陽葵はずっと少しだけ“上”にいる。
上にいるのに、透葉の隣に座ってパンを齧る。卵焼きの甘さに勝ち負けをつける。クレーンゲームで真剣に悔しがる。そんな落差が、透葉には眩しくて、痛い。
夜、家に帰ると透葉の部屋はいつも静かだった。
玄関の鍵を回しても、誰も「おかえり」と言わない。台所も暗い。母の靴はない。あるいは、朝帰りの気配だけが残っている。洗面所に落ちた化粧品の匂いが家の空気を薄く濁している。
透葉は慣れているつもりだった。
慣れていない方がみじめだから、慣れたと思い込むのが得意になった。
けれど最近、その静けさが少しだけ違って聞こえる。
準備室の静けさは“余白”だった。家の静けさは“空洞”だ。空洞の中にいると、自分の心の音が大きくなる。大きくなると、怖いものまで浮かび上がる。
(失いたくない)
その言葉が、夜になると輪郭を持ってしまう。
透葉は布団に潜ってイヤホンを耳に押し込んだ。音楽は流さない。流したら余計な感情が動く。動くのが怖い。
翌日も、昼休みは準備室だった。
扉の鍵の音は透葉の呼吸を整える合図になりつつあった。
「透葉さん、昨日さ」
陽葵が弁当の箸を止めて言った。
「なに」
「透葉さん、早かった」
透葉は一瞬、理解できずに瞬きをした。
「……何の話」
「ほら、つまずいたとき。すぐ掴んだでしょ。あれ、びっくりした」
透葉の喉が詰まる。
あの瞬間の近さが、また胸の奥で熱を持つ。持つと同時に冷える。
つまずく。何もないところで。二回目。三回目。——数えたくない。
透葉はなるべく平坦に返した。
「……反射」
「反射で手が出るって、優しいやつだ」
「違う。……倒れたら面倒」
言ってしまってから、透葉は自分の言い方の雑さに呆れた。
でも陽葵は笑った。救われる笑い方。
「透葉さん、ほんとそういう言い方する」
「……どうなの、それ」
「褒めてる。伝えるのが難しいだけ」
難しいのは透葉も同じだ。
透葉は褒められると返し方がわからない。すぐに返さないと距離が生まれる。少しでも距離が生まれると、相手は遠ざかっていく。遠くなるのは怖い。
透葉は会話のテンポを戻すように言った。
「……陽葵も、褒め方下手」
陽葵が目を丸くして、次の瞬間、声を殺して笑った。
「透葉さんに言われたくない!」
そのやり取りの中で、透葉はふと感じた。
陽葵の笑い声は準備室の空気を変える。匂いさえ変える気がする。絵具の匂いが少しだけ甘くなる。馬鹿みたいな感覚。けれど、馬鹿みたいな感覚を透葉は嫌いじゃなかった。
そんな“当たり前”の昼休みが、ある日、少しだけ崩れた。




