6 照明のせい
翌日から、昼休みは静かに形を変えた。
今までの透葉にとって昼休みは、“やり過ごす時間”だった。教室の空気に馴染めない自分が、誰にも見つからないように呼吸を浅くして、ただ時間が過ぎるのを待つだけの時間。けれど今は、“居場所に向かう時間”になった。
居場所があるだけで、人は少しだけ立っていられる。
透葉はそれを身体で知り始めていた。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、透葉は鞄を持って席を立つ。
目立たないように、急がないように。急がないと決めているのに、足取りは自然と早くなる。廊下に出るだけで息がしやすくなるのは相変わらずだった。
美術室の前を通り、準備室の扉へ。
鍵は陽葵が持っている。透葉は鍵を持たないまま扉の前に立つ。鍵を持たないのに、入れる。入れてもらえる。その感覚がまだ少しだけ不思議だった。
陽葵はだいたい同じタイミングでやってくる。
廊下の向こうから足音が聞こえると、透葉の胸の奥がわずかに緩む。足音が近づき、陽葵が角を曲がって現れる。笑っている日も、眠そうな日も、何か考え込んでいる日もある。それでも、透葉の目は陽葵を見つけるたびに安心してしまう。
「おまたせ」
陽葵が言う。
透葉は首を振って、いつもの返事をする。
「……待ってない」
嘘だ。
でも、嘘の形が少しずつ変わっていく。以前の透葉の嘘は防御だった。でも今の透葉の嘘は照れに近い。照れてしまう自分が恥ずかしくて、透葉は目を逸らす。
陽葵は鍵を差し込み、扉を開ける。
カチ、と音がして扉が緩む。準備室の匂いがふわりと流れてくる。その匂いを吸い込むと、透葉の身体の奥が少しだけ落ち着く。
準備室の中は日によって光の入り方が違う。
曇りの日は窓の外の白さがそのまま薄い明るさになる。晴れの日は棚の角に細い光が落ちて、埃が漂うのが見える。透葉はその埃の動きが好きだった。誰にも気づかれずに、ただそこにあるもの。自分もそうでいたいとずっと思ってきた。
陽葵は机に鞄を置き、弁当を取り出す。
包みはきちんとしている。布の柄も、控えめで清楚だ。透葉はパンを机に置き、袋を開ける。
最初の頃はほとんど喋らなかった。
透葉は沈黙が怖い。けれど陽葵の沈黙は透葉を追い詰めない。だから黙っていられた。黙って食べて、黙って風の音の代わりに時計の針の音を聞いた。
それでも、何度か繰り返すうちに、言葉が自然に落ちるようになった。
言葉は多くない。けれど、少しずつ“日常”の形をしてくる。
「今日、購買のパン、売り切れてた」
透葉がぽつりと言うと、陽葵が驚いた顔をする。
「え、購買行ってるんだ」
「……たまに」
「すごい。人多いのに」
また“すごい”だ。
透葉は口元を少しだけ歪めて、突っ込んだ。
「すごくない」
「いや、すごいって。私、あの列、無理」
陽葵が言って、透葉は少しだけ笑う。
笑うと、準備室の空気が柔らかくなる。準備室は元々静かだ。でも、二人で笑うと静けさが“寂しさ”ではなく“余白”になる。透葉はその違いをやっと知った。
陽葵は卵焼きを一口食べて、眉をひそめた。
「……今日、甘い」
「甘いの、嫌い?」
「嫌いじゃない。でも……今日は甘すぎる」
透葉はパンの袋を握りしめた。
陽葵の家はきっと味まで決まっている。曜日ごとに弁当の中身が決まっている。味付けも決まっている。決まっているから安心できる人もいる。けれど、陽葵はそれで安心できないのかもしれない。決まっていることで息ができなくなるタイプの人かもしれない。
透葉は軽く言った。
「……じゃあ、私のパンと交換する?」
陽葵が目を丸くする。
それから笑った。
「透葉さん、それ優しいの? 雑なの?」
「……どっちでもいい」
「なんかそれ、すごく透葉さんっぽい」
陽葵が言って、透葉は少しだけ眉を寄せた。
“透葉さんっぽい”。その言葉が妙にくすぐったい。自分に“っぽい”があるなんて思っていなかった。透葉はいつも周りに合わせて、自分を薄くしてきたから。
陽葵は弁当をしまいながら言う。
「ここ、ほんと落ち着くね」
透葉は頷く。
「……うん。落ち着く」
言いながら、透葉は思う。
落ち着くのはこの場所だけじゃない。陽葵がいるからだ。でも言葉にしたら壊れる気がして、透葉は胸の奥に押し込める。
放課後は相変わらず校庭だった。
透葉は屋上からではなく、たまに校庭の端から陽葵を眺めるようになった。屋上は人が来るから。準備室ができたから。言い訳はいくらでもある。透葉は自分に言い訳をして、陽葵を見に行く。
陽葵は走っている。
走るたびに黒髪が揺れる。夕陽が当たると、髪が少しだけ赤く見える。透葉はその赤に絵の中の色を重ねてしまう。
ある日、透葉は放課後の校庭で陽葵に声をかけられた。
トラックから外れた陽葵が、ジャージの袖で汗を拭きながら近づいてくる。呼吸が浅い。汗の匂いがする。走ったあとの体温が空気を少しだけ温める。
「透葉さん、帰る?」
「……うん」
「一緒に帰ろ」
“いっしょ”。
透葉の胸の奥がまた危うい音を立てる。
透葉はすぐに頷けなかった。
人目がある。校庭には部活の子がいる。陽葵は有名だ。陸上部で、成績もいい。清楚で正しい子。——そんな子と自分が並んで歩いたら、どう見えるだろう。
でも陽葵は透葉の躊躇を見ても、表情を変えなかった。
ただ、当然のように言う。
「大丈夫。……私が一緒にいたいから」
透葉はその言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなって、苦しくなった。
“私が一緒にいたい”。それは理由のない選択だ。透葉がいちばん欲しかったものの形をしている。
透葉はやっと小さく頷いた。
「……うん」
陽葵は満足そうに笑って、透葉の歩幅に合わせた。
透葉が速く歩けば速く、陽葵も速くなる。透葉が遅く歩けば遅くなる。透葉が決める。陽葵はそれに合わせる。それが、透葉には信じられないくらいの優しさだった。
校門を出ると、街の音が押し寄せた。
車の音、人の声、コンビニの自動ドアの音。陽葵はその中を歩きながら、時々小さく周囲を気にする。
目があるから、走れない。目があるから、笑い方も整える。透葉はそういう陽葵の“整え方”を、見てしまう。
でも、歩きながらの陽葵は少しだけ整え方が甘い。
「ねえ、透葉さん、あそこ」
陽葵が指差す先にショッピングセンターの看板が見える。
透葉が惰性で通っている場所。ひとりで入って、ひとりで出る。誰にも会わないための場所。
「寄っていい?」
陽葵の声が子どもみたいに弾んだ。
透葉はその弾み方に少しだけ驚く。陽葵は快活だ。なのに、普段はそれを隠している。
「……いいよ」
透葉が言うと、陽葵は小さく「やった」と言った。
その“やった”が、透葉の胸をくすぐる。こんな小さな言葉ひとつで、心が動いてしまうのが怖い。
ショッピングセンターの中は放課後の学生で混んでいた。
制服が擦れ、香水が混じり、ゲームセンターから電子音が漏れてくる。透葉は一瞬だけ身構えた。人の密度が高い場所は苦手だ。自分の輪郭が溶ける。
でも、陽葵が横にいる。
陽葵は透葉の前を歩かない。透葉の半歩横にいる。視線で「大丈夫?」と聞いてくるようなこともしない。黙って、ただ同じ速度で歩く。透葉はその距離感に救われる。
ゲームセンターの前で陽葵が立ち止まった。
「これ、やってみたい」
クレーンゲームだった。
ぬいぐるみが整然と並んでいる。透葉はそれを見て、陽葵の生活を思い浮かべる。習い事と勉強と練習の毎日。遊びを知らない、と言っていた。たぶん本当だ。
「……やれば」
透葉が言うと、陽葵は少しだけ困った顔をした。
「やり方、わかんない」
透葉は一瞬、笑いそうになった。
走るのも勉強もできるのに、クレーンゲームのやり方はわからない。そういう陽葵の不器用さ。
「……コイン入れて、動かして、落とす」
「説明がざっくり」
陽葵が言って、透葉は小さく肩をすくめた。
会話のテンポが軽くなる。透葉の胸が少し楽になる。
陽葵がコインを入れ、アームを動かす。
狙いは外れる。ぬいぐるみは少し動いただけで、落ちない。陽葵は真剣な顔になる。真剣になりすぎて、頬が少し膨らむ。
「……むずかしい」
「……向いてないかも」
透葉が言うと、陽葵がむっとする。
「透葉さん、そういうこと言う」
「……事実」
「事実でも言わないで」
陽葵が言って、透葉は思わず笑ってしまった。
陽葵も笑う。笑いが重なると、透葉の胸の奥が温かくなる。ほんの少しだけ怖い。でも、今は逃げない。
陽葵が「もう一回」と言ってコインを入れた瞬間、陽葵の足がほんのわずかに引っかかった。
床は平らだ。段差もない。
なのに、陽葵のつま先が何かに触れたみたいに止まり、身体が横に傾いた。
透葉は考えるより先に動いていた。
陽葵の腕を掴む。
掴んで引き寄せる。勢いで陽葵の体温が透葉の方へ流れ込んだ。ジャージ越しに伝わる熱。走ったあとの熱ではなく、今この瞬間の、近さの熱。
陽葵の身体が透葉の胸の前で止まる。
距離が急にゼロに近くなる。透葉は息を止めた。心臓が跳ねる。視界が白くなる。
陽葵は透葉の手の中で固まっていた。
それから、ゆっくり顔を上げる。
目が合った。
透葉は動けなかった。
逃げたくなる。でも、逃げたら陽葵が倒れるかもしれない。それが怖い。でもそれ以上に、離すのが怖い。
陽葵が小さく言った。
「……ありがとう」
声が少しだけ震えていた。
透葉は自分の手が陽葵の腕を掴んでいることに気づいて、慌てて手を離そうとして——離せなかった。
陽葵の腕は細い。
細いのに、筋肉の硬さがある。走る人の腕だ。それでも、どこか儚い。透葉はそれに触れてしまったことを今さら実感してしまう。
透葉はやっと手を離した。
離した瞬間、空気が冷たくなる。冷たくなって、呼吸が戻る。胸が痛い。でも、温かい。
陽葵は笑ってみせた。
「今の、危なかったね」
透葉は目を逸らし、できるだけ平坦に言った。
「……危なかった」
陽葵が少しだけ眉を寄せた。
「透葉さん、顔赤い」
透葉の胸が跳ねる。
赤い。バレた。透葉は即座に否定する。
「赤くない」
「赤いよ?」
「……照明のせい」
陽葵が吹き出す。
「照明のせいって」
透葉は自分で自分の言い訳に呆れて、小さく息を吐いた。
陽葵はまだ笑っている。笑い声が電子音に混じって、消えそうで消えない。
透葉は陽葵が笑っている横顔を見た。
陽葵は快活だ。こういうとき、ちゃんと楽しめる。
でも走るときは追い詰められた顔をする。透葉はその矛盾に、胸がざわつく。
そして、気づく。
さっきつまずいた瞬間、陽葵の足がほんの少しだけ震えたことに。倒れる直前、身体が“自分のものじゃない”みたいに揺れたことに。
透葉はその記憶を胸の奥に押し込めた。
今ここで言うべきことじゃない。言ったら、陽葵の笑いが壊れる。壊したくない。壊したら、もう戻れない。
だから透葉は会話のテンポを戻す。
「……で、クレーンゲーム、続けるの?」
陽葵が「やる」と即答した。
その即答が少しだけ可笑しくて、透葉はまた笑ってしまった。
陽葵がコインを入れ、今度は狙いを慎重に定める。
アームが降りて、ぬいぐるみの胴を掴む。少し持ち上がり、落ちる。惜しい。陽葵が悔しそうに唇を噛む。
「……もう一回」
透葉は肩をすくめて言った。
「……学習しないね」
「してる。次こそは取る」
「そう言う人、だいたい取れない」
「透葉さん、またそういうこと言う」
言い合いみたいな会話が続く。
テンポが戻る。胸が落ち着く。けれど、さっきの熱は消えない。
結局、ぬいぐるみは取れなかった。
陽葵は悔しそうにしながら、それでもどこか満足そうだった。負けても楽しそうにしている。透葉はその顔を見て、胸がちくりとした。
(こういうの、知らなかったんだ)
陽葵は息を吐いて言った。
「……楽しいね。こういうの」
透葉は小さく頷いた。
「……うん」
その返事は透葉が言える精一杯の肯定だった。
帰り道、夕方の風が二人の間を通り抜ける。
陽葵は少しだけ鼻歌を口ずさんでいた。透葉はその音を聞きながら、胸の奥が温かいのに、どこかで不安が膨らむのを感じていた。
今日のつまずき。
今日の体温。
今日の笑い声。
全部が透葉の中に積み上がっていく。
積み上がるほど、失う怖さも大きくなる。
それでも、透葉は思ってしまった。
明日もこの日常が続けばいい。
続いてほしい、と。
準備室が“当たり前”になっていくのが、透葉は少し怖かった。
当たり前は、崩れるときに音が大きい。崩れた音はしばらく耳の奥に残る。残ってしまうと、次に何かを当たり前にするのがもっと怖くなる。
それでも、昼休みのチャイムが鳴ると透葉の足は自然に廊下へ向かった。
人の声を避けるように壁際を歩く。視線を避けるように窓の外を見る。
そうやって歩いている間だけ、胸の中の不安が薄くなる。
目的地があるからだ。




