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5 居てもいい

 翌日は朝から落ち着かなかった。

 教室の空気がいつもより濃い。笑い声が近くで弾むたびに透葉の胸の奥が小さく揺れる。揺れる理由は、たぶん別の場所にある。今ここではない場所——屋上。


 “明日、昼”。

 机の端に置いた紙の感触を思い出すだけで指先が熱くなる。でも、怖い。予定は約束の前触れで、約束は期待の形をしている。期待はやがて誰かを傷つける。

 透葉はそれを知っている。

 だから、なるべく何も持たないように生きてきた。持たなければ失くさない。失くさなければ痛まない。——そんな単純な理屈にしがみついて、ここまで来た。


 でも今はすでに持ってしまっている。

 陽葵の声。絵の話。屋上の風。ほんの短い時間なのに、胸の中に残り続ける。


 昼休みのチャイムが鳴った。

 瞬間、教室の空気がいっそう騒がしくなる。椅子が引かれ、机が鳴り、購買へ走る足音が連なる。その波に飲まれる前に、透葉は鞄を持って立ち上がった。

 いつもより早い。

 早いことが怖い。目立つことが怖い。けれど、立ち止まったら気持ちまで止まってしまいそうだった。


 廊下に出ると空気が少しだけ軽くなる。

 窓から入る冷たい風に頬を撫でられて、透葉は息を吸った。吸っただけで心臓が少し落ち着く。

 階段を上がる足音がいつもより大きく聞こえた。

 透葉は手すりに指を滑らせ、金属の冷たさで自分を現実へ繋ぎ止める。上へ行くほど誰かの声が遠くなる。屋上の扉が近づく。


 扉の前で一度、立ち止まった。

 取っ手に手をかけて、呼吸を整える。今日も陽葵が来なかったらどうしよう。来なかったら、何もなかったことにできる。——その考えが浮かんだ瞬間、透葉は自分に腹が立った。

 来なかったら胸が沈む。

 それがもう答えだ。


 透葉は扉を押した。

 軋んだ音のあと、風がすっと入り込む。屋上の空気は少し乾いていて、鼻の奥がひんやりした。

 そして、そこに——陽葵がいた。

 フェンス際ではなく、扉の少し先。

 透葉が来る方向を見て立っていた。まるで待っていたみたいに。いや、待っていたのだろう。透葉が約束を怖がっている間に、陽葵はもっと単純に“待つ”ことをしてしまう。


 陽葵は透葉を見ると、少しだけ目を細めた。

 笑い方は昨日と同じなのに、今日はどこか柔らかい。

「……来た」

 その言葉が透葉の胸の奥に落ちた。

 落ちて、熱になって広がる。透葉はすぐにそれを否定しようとする。否定しようとして、できない。できないから、目を逸らす。

「……うん」

「気が向いた?」

 陽葵がわざと軽く言う。

 透葉は小さく眉を寄せた。

「……向いた」

 言ってしまう。

 言ってしまって、少し恥ずかしくなる。陽葵はそれを聞いて嬉しそうに笑った。それが透葉には眩しい。でも、ずっと見ていたい。


 透葉はいつものフェンス際へ向かい、座った。

 陽葵もその少し離れた場所に腰を下ろす。距離は昨日と同じ。近すぎず、遠くもない。この距離がちょうどいいことを透葉は昨日覚えた。


 しばらく二人で風の音を聞いた。

 校庭の声はここまで届かない。遠くの街の車の音だけが、薄く続いている。屋上の静けさは透葉のものだった。けれど今は二人の間に静けさがある。

 陽葵が不意に言った。

「……昼って、こんなに静かなんだね」

 透葉は答える。

「……静かだよ。みんな、屋内にいるから」

「そうなんだ」

 陽葵はフェンスの網目を見つめ、指先で軽く触れた。

 金属が鳴る。小さな音。透葉の胸がその音に反応する。陽葵の手はきれいだ。爪は短く整っていて、まったく荒れていない。家で指先まで管理されているのかもしれない、と思った。

 陽葵は網目に指を滑らせたまま言う。

「透葉さん、昼って、いつもひとり?」

 透葉は一瞬言葉が詰まった。

 陽葵の問いは刺すためのものじゃない。ただ確かめるみたいな問い。だから余計に答えにくい。

「……ひとりが多い」

「そっか」

 陽葵はそれ以上深掘りしない。

 その距離が透葉にはちょうどいい。ちょうどいいはずなのに少しだけ寂しい。こんな寂しさを感じる自分に、透葉は戸惑った。


 陽葵は少しだけ身体を伸ばした。

 ジャージの袖がずり落ち、白いシャツの袖口が見える。透葉はその動きに昨日の“肩の硬さ”を思い出した。けれど、今日はもうそこを見ないようにした。見てしまうと、言葉にしてしまいそうだから。

 言葉にしたら壊れる気がする。

「ねえ、透葉さん」

 陽葵の声が柔らかく落ちる。

 透葉は顔を上げた。

「美術館の絵、どんなだった? ……もっと聞きたい」

 透葉の胸がまた熱くなる。

 自分の感動を人に“もっと”と言われる経験がなかった。透葉は嬉しいを言葉にできない。嬉しいと言えば、相手に期待してしまうから。期待したら、裏切られたときに苦しいから。

 でも——話したい。

 話してみたい。

 透葉は目を閉じ、記憶の中の青を掬い上げる。

「……葉っぱみたいな形の木が描いてあって」

「葉っぱみたいな木?」

 陽葵が身を乗り出すように言う。

 透葉は少しだけ頷いた。

「アダンっていう木。海の近くに生えてるやつ。……私は本物見たことないけど」

「へえ」

 陽葵は子どもみたいに素直な声を出した。

 その声に透葉の言葉が少しだけ滑らかになる。自然と腕が伸びる。

「海が……すごくきれいで。きれいなのに、怖い。波が動いてるみたいで。でも静かで……息が、止まった」

 陽葵がゆっくり頷く。

「透葉さん、伝えるの上手いね」

 透葉は咄嗟に否定したくなって、口を開いた。

 でも陽葵の目がまっすぐで、すぐに言葉が引っ込んだ。否定されたら、陽葵はたぶん悲しそうにする。

 誰かに悲しそうにされるのが透葉はいちばん苦手だ。

 透葉は代わりに、少しだけ本音を出す。

「……上手いんじゃなくて、覚えてるだけ」

「覚えてるの、すごいよ」

 また“すごい”。

 昨日も言われた。透葉はその言葉に慣れていない。でも嫌じゃない。そう感じることが怖い。


 透葉はふと陽葵の横顔を見た。

 陽葵は屋上の空を見上げている。まつげが長い。頬のあたりに、汗が乾いた跡がうっすら残っている。

 育ちがいい、と透葉は思ってしまう。言葉の選び方、声の出し方、姿勢。全部が整っている。

 ——整えすぎて、苦しそうでもある。

 透葉はそれを口にしない。

 代わりに、軽い言葉を探す。会話でテンポを戻すための言葉。

「……陽葵、昼、何食べてるの」

 陽葵はきょとんとした。

 それから少し笑う。

「え、急に食べ物の話?」

「……うん。急に」

 透葉は自分でもおかしくなって、視線を逸らした。

 陽葵は肩を揺らして笑った。笑い方が明るくて、屋上の空気が少しだけ軽くなる。

「昼はだいたい……決まってる。お母さんが作ったやつ」

「決まってる?」

「うん。曜日ごとに。……今日は、卵焼きと、ほうれん草と……」

 言いながら、陽葵は少しだけ顔を曇らせた。

 透葉はその曇りを見てすぐに話題を変えたくなる。でも、変えたら陽葵が”そういう目”で見られていると思うかもしれない。透葉は陽葵を見たい。でも、見すぎて不快にさせたくもない。


 透葉は静かに言った。

「……ちゃんとしてるんだね」

 陽葵は笑ってみせた。

 でも、その笑いは目まで届いていない。

「ちゃんとしてないと……怒られるから」

 怒られる。

 透葉はその言葉に胸が少しだけ固くなる。家で怒られることはあまりなかった。怒られるほど関心を持たれなかった。陽葵は逆だ。怒られるほど見られている。見られすぎて、息ができない。

 透葉は口の中に残った言葉を飲み込んだ。

 代わりに、もう一度テンポを戻す。

「……私は、パン」

 陽葵が透葉を見る。

「え、パンだけ?」

「……うん。パンだけ」

「それ、足りなくない?」

「……足りてる。たぶん」

 陽葵は眉を寄せた。

 その眉の寄せ方が真剣で、透葉は少しだけ笑ってしまった。陽葵はそれを見て、また笑う。会話のテンポが呼吸の速さを整える。透葉の胸の奥が少しだけ楽になる。


 そのとき、屋上の扉が開く音がした。

 二人とも反射でそちらを見る。

 制服の女子が一人、顔を出した。

 屋上に誰かがいると思わなかったのか、女子は目を丸くして立ち尽くす。透葉は瞬時に息を止めた。見つかった。居場所が見つかった。ここは透葉の“ひとりの場所”だったのに。

 女子は「ごめん」とだけ言って、すぐに扉を閉めた。

 足音が遠ざかる。屋上にはまた静けさが戻る。

 透葉の胸はまだ早鐘みたいだった。

 陽葵は透葉の横顔をちらりと見て言った。

「……やっぱり、ここも人来るんだ」

 透葉は小さく頷く。

「……たまに」

「たまにでも、やだね」

 陽葵が言う。

 透葉はその言葉に小さな違和感を覚える。陽葵は普段たくさんの“目”に囲まれているはずなのに。屋上に一人来ただけで“やだ”と言う。——つまり陽葵もここでは目を避けたいのだ。


 透葉はゆっくり息を吐いた。

「……別の場所、探す?」

 自分でも驚く言葉だった。

 新たな居場所を“探す”なんてことは、いつも避けてきた。探すと、誰かに見つかる必要が出る。見つかると、失う恐怖がついてくる。

 でも今は陽葵がいる。

 陽葵となら探してもいい気がした。

 陽葵は目を瞬かせて、それから少しだけ笑った。

「うん。探したい。……透葉さんと」

 最後の一言が透葉の胸に静かに落ちる。

 “と”。その小さな助詞が透葉には危うい。近づきすぎる。けれど、嫌じゃない。

 透葉は廊下の向こうを思い浮かべた。

 美術室。美術準備室。あそこはいつも鍵がかかっている。でも、近くに先生がいれば開くかもしれない。——いや、鍵が開くかどうかより、あそこには“匂い”がある。絵の匂い。紙の匂い。自分の過去の匂い。


 透葉は小さく言った。

「……美術準備室なら、誰も来ないかも」

 陽葵が首を傾げる。

「美術準備室?」

「……美術室の隣。先生が鍵持ってる」

「鍵……いるんだ」

「……うん」

 陽葵は少し考えて、それから頷いた。

「行ってみたい」

 透葉はその言葉に少しだけ息を止めた。

 行ってみたい。——透葉の過去の絵が飾られていた場所に、陽葵が入りたいと言っている。嬉しいのに怖い。けれど、断りたくない。

 透葉は立ち上がった。

 陽葵も立ち上がる。ジャージの袖が風に揺れた。

 その瞬間、陽葵の足元がほんの少しだけもつれた。

 転ぶほどではない。

 ただ、立ち上がったときに足の向きが一瞬ずれて、身体が揺れた。透葉は反射で腕を伸ばした。陽葵の肘を掴む。布越しに伝わる体温が熱い。軽い。

 陽葵が驚いた顔で透葉を見る。

「……ごめん。平気」

 透葉は掴んだまま数秒、離せなかった。

 心臓がうるさい。自分の鼓動なのか、陽葵の鼓動なのかわからない。透葉は慌てて手を離し、目を逸らした。

「……うん。ならいい」

 陽葵は笑った。

 けれど、笑いの奥にほんの少しだけ影がある。透葉はその影を見ない。見ないまま、前を向く。


 廊下へ出ると、屋上より空気が重かった。

 昼休みの残り時間は少ない。透葉は歩幅を少しだけ速めた。陽葵の足音が後ろについてくる。二人分の足音が重なると、不思議と怖さが薄れる。

 美術室の前まで来ると、扉の向こうから話し声が聞こえた。

 先生の声。生徒の声。何かを片付けている音。透葉は扉の前で立ち止まり、呼吸を整えた。

(先生に、鍵……)

 理由をどう説明するか。

 “昼休みに静かな場所がほしい”。そんな理由を口にするのは、透葉にはまだ難しい。けれど陽葵が横にいると言える気がする。言えないなら、陽葵が言うかもしれない。——それも怖い。でも、逃げたくもない。

 陽葵が小さく言った。

「透葉さん、こういうの苦手?」

 透葉は一瞬固まり、正直に頷いてしまった。

「……苦手」

 陽葵は「そっか」と言って、少しだけ微笑んだ。

「じゃあ、私が言う。……でも、透葉さんも横にいて」

 透葉の胸の奥が熱くなる。

 “横にいて”。それは、透葉の存在を必要とする言葉だ。透葉は必要とされることに慣れていない。だから、拒めない。


 陽葵が扉をノックする。

 透葉は息を吸った。扉の向こうから光がこぼれる気がした。

 ノックの音は思ったより軽かった。

 それでも透葉の胸はその小さな音に合わせて硬くなる。扉の向こうにいるのは先生で、生徒で、いつもの学校で、いつもの“正しさ”の世界だ。そこに踏み込むだけで、透葉は自分の輪郭が削られていく気がする。

「はーい」

 美術室の中から返事があって、扉が少しだけ開く。

 顔を覗かせたのは美術の教師だった。年齢ははっきりしない。絵具の匂いが染みついたような人で、手には布切れと筆。教室の中は机が少し散らかり、キャンバスが壁際に立てかけられている。昼休みのざわめきがここだけ薄い。

 先生は透葉を見ると目を瞬かせた。

 透葉の名前を呼ぶでもなく、かといって無視するでもない。透葉のような生徒に対して、先生がどう振る舞えばいいのか迷う、その間が見えた。

 その間を陽葵がさらりと埋めた。

「先生、すみません。美術準備室、昼休みだけ使わせてもらえませんか」

 言い方が丁寧で、でも堂々としている。

 透葉はその堂々とした声に少しだけ驚いた。陽葵はいつも“正しい子”に見える。正しい子の言い方を知っている。

 先生は眉を上げた。

「準備室? どうして?」

 理由。

 透葉の喉が詰まる。理由を言うのが怖い。理由を言うと自分の弱さが輪郭を持ってしまう。

 陽葵がほんの一瞬だけ透葉を見た。

 “横にいて”と言った通り、透葉を置いていかない視線。透葉はその視線に背中を押されて、息を吸った。

「……屋上、最近、人が来ることがあって」

 透葉はできるだけ事実だけを言った。

 事実だけなら、誰も傷つかない。たぶん。透葉の声は小さかったけれど、陽葵が隣にいるせいか、途中で消えずに届いた。

 先生は透葉を見て、次に陽葵を見た。

 そして、少しだけ困った顔をして笑った。

「屋上が静かっていうの、わかるけどねえ。準備室は鍵が必要だし、一応危ないものもあるから……」

 断られる。

 透葉の胸がすっと冷える。最初からそうだと思っていた。自分の居場所なんて、簡単には許されない。許されないことに慣れている。慣れているはずなのに、今日だけは痛い。


 陽葵は引かなかった。

 その姿勢が透葉を驚かせる。

「先生、危ないものってどのへんですか。触らないようにします。先生が近くにいるときだけでも、どうですか」

 先生は少し笑って、腕を組んだ。

 陽葵の真面目さが先生には可愛く見えるのかもしれない。透葉にはそれが少し羨ましい。真面目が“武器”になる世界。透葉の真面目は、ただ自分を縛るだけのものだった。

 先生はため息みたいに息を吐いた。

「……笹波さんだっけ。陸上部の。あなた、こんなところで油を売ってていいの?」

 陽葵はすぐに首を振った。

「昼は走れないんです。……目があるから」

 言い方が少しだけ固い。

 “目”という言葉の端が硬い。先生はその硬さに気づいたのか、少しだけ表情を変えた。

 透葉は言葉を継ぎ足してしまう。

「……昼休みだけ、です」

 自分からお願いするのは苦手なのに。

 でも、陽葵がいると自分も言葉が出る。出てしまう。怖いのに、止められない。

 先生は数秒だけ考えて、それから言った。

「じゃあ、条件つき。昼休みだけ。必ず二人で使うこと。火元や溶剤には触らない。鍵は貸すけど、返すのも忘れないこと」


 透葉は一瞬、理解が遅れた。

 許された? 今、許された?

 陽葵が先に明るく言った。

「ありがとうございます。絶対守ります」

 先生は「はいはい」と言いながら、鍵束を取り出した。

 金属が触れ合う音が、なぜかやけに安心できる音に聞こえる。先生は小さな鍵をひとつ選び、陽葵の手に乗せた。

「これ。準備室。ちゃんと閉めて返すこと」

 陽葵は鍵を受け取り、透葉にちらりと見せた。

 その仕草が、まるで秘密を共有する合図みたいで、透葉の胸の奥が熱くなる。


 廊下へ出ると、空気が少しだけ変わった。

 鍵を持っているだけで、世界が少しだけ違う場所へ傾く。許可された場所。入っていい場所。透葉にとってそれは、ずっと遠いものだった。

 美術準備室は美術室の隣の小さな扉の向こうにある。

 扉の前に立つと、透葉は昨日ここで足が止まったことを思い出した。扉の向こうの匂い。自分の過去の気配。鍵が閉まっているから触れられなかった場所が、今は——開く。


 陽葵が鍵穴に鍵を差し込む。

 小さな金属音。回す。カチ、と音がして、扉がわずかに緩む。

 透葉はその音だけで息が止まりそうになった。

 自分の中で何かが“許された”音がした。

 扉が開く。

 準備室の空気は外より少しだけ重かった。

 紙の匂い。木の匂い。乾いた絵具の匂い。ほんの少しだけ、油の匂い。窓は小さく、光は柔らかい。昼の明るさがそのまま入ってこない分、ここは時間が遅い。

 透葉の胸がふっと緩んだ。

 誰もいない部屋は透葉の呼吸を邪魔しない。

 机がいくつかと、棚。棚には画材のケースや、紙の束。壁にはポスターが貼ってあって、色が少し褪せている。


 陽葵が扉を閉めた。

 閉める音が外の世界を断ち切ったように響く。

「……すごい」

 陽葵が小さく言った。

 透葉は反射で言い返す。

「……別に、すごくない」

「すごいよ。匂いがする。美術室より、匂いが近い」

 近い。

 その言葉に、透葉は少しだけ笑いそうになった。匂いが近い。確かにそうだ。ここは絵の匂いがする。

 でも絵の匂いは透葉がいちばん遠ざけたかった匂いでもある。


 陽葵は棚の前に立ち、手を伸ばしかけて、止めた。

 触らない。約束を守ろうとしている。その真面目さが透葉には少し眩しい。

 透葉は机の端に腰を下ろした。

 椅子の脚が床を擦る音が小さく鳴る。陽葵も反対側の机に腰を下ろした。距離は屋上と同じくらい。近すぎない。けれど、部屋が狭い分、体温が少し近い。

 陽葵は部屋を見回してから言った。

「ここ、誰も来ない?」

 透葉は頷く。

「……来ないと思う。鍵、いるし」

 陽葵が鍵束をポケットにしまい、少しだけ安心したように息を吐いた。

 その吐き方は走ったあとのものとは違う。緊張がほどけるときの吐き方。陽葵もまた、緊張していたのだと透葉は気づく。自分だけじゃない。自分だけが弱いわけじゃない。——そのことが、透葉を少しだけ救う。


 沈黙が落ちる。

 外のざわめきは聞こえない。聞こえるのは、時計の針の音と、二人の呼吸だけ。

 透葉は言葉を探した。

 この空間は静かすぎて、言葉がないと心の音が大きくなる。でも、言葉を出しすぎると、空間が壊れる。壊したくない。せっかくできた居場所を、壊したくない。

 陽葵が先に口を開いた。

「……透葉さん、ここにさ。『南の海』あった?」

 透葉の喉がきゅっと縮む。

 この部屋は、透葉の絵が置かれていた場所。陽葵がそれを見つけた場所。透葉は視線を床に落とした。

「……あった」

「やっぱり」

 陽葵の声が少しだけ柔らかくなる。

 それが少し怖い。優しいと、透葉はそこに甘えてしまう。甘えてしまうと、いつか依存になる。依存は、壊れる合図。


 透葉は言った。

「……見つけたとき、どう思ったの」

 陽葵は少し考えて、笑った。

「最初、怖かったって言ったでしょ」

「……うん」

「でも、すぐ……なんか、ずるいって思った」

 透葉は顔を上げた。

「ずるい?」

 陽葵は頷き少しだけ唇を尖らせた。

 その表情が年相応に幼い。

「だって、私が知らない海を描いてて、なんかずるい」

 透葉は思わず小さく笑ってしまった。

 陽葵はそれを見て、少しだけ不満そうな顔をする。

「笑った」

「……笑うでしょ、それ」

「ほんとにずるいんだって」

 会話のテンポが軽くなる。

 透葉の胸の奥の緊張が少しほどける。淡白にならないように、でも重くしすぎないように。——こういう会話が呼吸を整えてくれる。

 透葉は言った。

「……本物の海、見たことある?」

 陽葵は首を振った。

「ちゃんとはない。旅行も……あんまり。行っても、親と一緒だし」

「……自由じゃないんだ」

 透葉がぽつりと言うと、陽葵は一瞬だけ笑って、すぐに目を伏せた。

 笑いが目に届かないやつ。透葉はその笑いが、さっき屋上で見た“影”と同じだと気づく。

 陽葵は軽い声を作って言った。

「自由って、何?」

 その問いは冗談みたいなのに、冗談じゃない。

 透葉は返せなかった。自由なんて透葉にもわからない。透葉は自由そうに見えるだけだ。ひとりでいるのは自由じゃない。ひとりで居ざるを得ないのは、ただの孤立だ。


 透葉は代わりに別の言葉を選んだ。

 静けさを壊さずに、でも話を続けるための言葉。

「……陽葵は走ってるとき、何考えてるの」

 陽葵は少し驚いた顔をして、それから肩をすくめた。

「考えてない。……考えたら、遅くなる」

「……そうなんだ」

「でも……最近は考えちゃう」

 陽葵の声がまた少しだけ硬くなる。

 透葉の指先が机の縁を握る。硬さの理由を知りたい。知りたいのに、聞くのが怖い。聞いたら、陽葵の硬さを“言葉”にしてしまう。言葉にしたら、現実になる。

 陽葵は机の上を見つめたまま言った。

「透葉さん」

「……なに」

「明日も、ここ……来てもいい?」

 透葉の胸がまた熱くなる。

 “来てもいい”。許可を求める言い方。それは陽葵が“正しく”生きてきた癖の形なのだと、透葉は思った。許可がないと動けない。勝手に動いたら怒られる。怒られると”世界”が壊れる。

 透葉は静かに言った。

「……いいよ」

 その言葉を言えた自分に透葉は驚いた。

 言えるんだ。許可を出せるんだ。自分の居場所を誰かに渡せるんだ。

 陽葵は少しだけ目を細めた。

 安心した顔。たぶん、透葉が初めて見る種類の安心。


 外でチャイムが鳴った。

 昼休みの終わり。準備室の中の空気が少しだけ揺れる。

 陽葵が立ち上がった。

 その動きは自然だった。自然なのに——足元がほんの少しだけ、また揺れた。

 透葉は反射で立ち上がり、陽葵の腕を支えた。

 今度は掴むというより、添える。手のひらが陽葵の袖に触れる。布越しの体温が、昨日よりはっきりわかる。

 陽葵が小さく笑って言った。

「……ごめん。今日、なんか変」

 透葉は胸の奥が冷えるのを感じた。

 変。——その言葉に透葉は反応してしまう。陽葵が自分で“変”と言った。つまり、陽葵自身も気づいている。気づいているのに、どうしようもない、という匂いがする。

 透葉は言葉を選んで言った。

「……疲れてるだけじゃない?」

 陽葵は頷いた。

 けれど、頷き方が少しだけ遅い。透葉はそれ以上言わなかった。言ったら壊れる気がするから。壊したくないから。


 陽葵は鍵を取り出し、扉を開ける。

 透葉はその背中を見て思った。陽葵の背中はまっすぐなのに、どこか張り詰めている。まっすぐだからこそ、折れやすい。

 廊下へ出ると、学校の音が戻ってきた。

 生徒の声、足音、遠くの笑い声。準備室の静けさは扉の向こうへ消える。でも、透葉の胸の中にはまだ静けさが残っている。陽葵と共有した静けさ。

 美術室へ鍵を返しに行く。

 先生は「はいはい」と言いながら受け取り、「また使うなら言ってね」と軽く言った。その軽さが、透葉には救いだった。重くされると抱えきれないから。

 教室へ戻る途中、陽葵が透葉の横を歩いた。

 同じ廊下を並んで歩く。それだけで透葉は落ち着かなくなる。誰かに見られたらどうする。噂になったらどうする。——そう思うのに、陽葵の横にいると、少しだけ背筋が伸びる。


 教室の前で陽葵が立ち止まった。

「透葉さん」

「……なに」

 陽葵は少しだけ笑って言った。

「今日、楽しかった」

 透葉の胸がきゅっと鳴った。

 “楽しかった”。そんな言葉を自分に向けられると思っていなかった。

 透葉はすぐに返せなかった。

 返したら嘘になる気がした。でも返さなかったら陽葵が悲しそうにする気がした。透葉はそのどちらも嫌で、結局、少しだけ目を逸らして言った。

「……うん」

 陽葵はそれで十分だというように頷き、廊下の向こうへ歩いていった。

 透葉はその背中を見送りながら、自分の胸の奥の熱を持て余した。


 楽しい。

 その言葉を、自分はいつから言っていないのだろう。

 透葉は教室の扉を開け、騒がしい空気の中へ戻った。

 けれど、さっきまでの自分とは少しだけ違う。胸の中に鍵の重みが残っている。小さな鍵ひとつで、世界は少しだけ変わるのだと知ってしまった。


 午後の授業中、透葉はふと窓の外を見た。

 空は青い。淡い青。その青の中に、言葉にできない色が混じっている。

(いつか、海に行けるのかな)

 そんなことを考えてしまう。

 考えるだけで、胸が温かい。温かいのに、痛い。痛いのに、嫌じゃない。

 透葉はノートに文字を書きながら、心の中で決めた。


 明日も、準備室へ行く。

 気が向いたらじゃない。向く。たぶん、ずっと。


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