4 気が向いたら
翌日、透葉は目覚ましが鳴る前に起きた。
昨夜は眠れたはずなのに、起きた瞬間から身体が落ち着かない。胸の内側に小さな糸が張っているような感じがする。引っ張れば切れそうで、切れたら何かが終わってしまいそうで、触れないようにしているのに、ずっと気になる。
朝の支度はいつもより静かだった。
鏡の前で髪を整えながら、透葉は耳元を見た。ピアスの穴があるだけで、何かを主張しているみたいに見える。今日はつけない。つけないけれど、指先で軽く触れてしまう。
触れたところで、昨日の屋上の冷たい風がよみがえった。
(……今日、来るかな)
そんなことを考える自分に、透葉は内心で顔を覆いたくなった。
“気が向いたら”なんて言ったくせに。気が向いたらじゃない。向いている。向きっぱなしだ。
学校までの道は昨日と同じだった。
踏切の音も、コンビニの前の自転車の列も、駅のホームの広告も。昨日と同じなのに、透葉の足元だけがほんの少し浮ついている。浮ついているのに、心は沈んでいる。こんな感覚は初めてだった。
教室に入ると、朝の雑音が耳にぶつかった。
名前を呼ぶ声、笑い声、香水の匂い。透葉はそれらを薄い膜越しに受け取って、席につく。机の上を指先でなぞり、目の前の世界がちゃんと固いか確かめるみたいに触る。
授業中、黒板の文字が頭に入らなかった。
先生の声が遠い。ノートに書いた文字が自分のものじゃないみたいに歪んでいる。透葉は何度も深呼吸をして、落ち着こうとした。落ち着いてどうするの、と自分に突っ込みたくなる。
(何が起きるわけでもない)
そのはずなのに、心だけが勝手に忙しい。
昼休みのチャイムが鳴ったとき、透葉はほっとしてしまった。
授業が終わる安堵ではなく、“屋上へ行ける”という安堵。そんなことを思ってしまった自分が怖くて、透葉は慌てて鞄を開け、パンを取り出した。取り出しただけで、手が止まる。
教室で食べるのは苦手だ。
噛む音や飲み込む動きが、誰かに見られている気がする。誰も見ていないのに、自分だけが自分を監視している。
透葉は立ち上がって教室を出た。
廊下の空気は少し冷たくて、やっと息が入る。階段を上る足音が思ったより大きく響く。自分の存在が音になることが、怖い。
屋上の扉の前で立ち止まる。
鍵はかかっていない。昨日の陽葵はどうやって入ってきたのだろう。先生に言った? 生徒会? そんなはずはない。透葉は考えかけて、やめた。理由を知ったら、昨日の出来事が“特別”ではなくなってしまいそうで。
扉を押す。
風が吹き抜けて、髪が揺れた。
屋上には誰もいなかった。
その事実に透葉は一瞬だけ胸を撫で下ろし、次の瞬間に胸が沈んだ。
来ていない。それは当然だ。放課後ならともかく、昼休みにここへ来る理由がない。昨日は偶然だったかもしれない。透葉は自分にそう言い聞かせながら、フェンス際の影へ向かった。
膝を抱えて座る。
フェンスの網目の向こうに校庭が見える。トラックの上には生徒が数人いる。体育の片づけだ。笑い声がふわりと上がってくる。風に薄められて、ここでは綿みたいに軽い。
トラックの端に黒髪の影は——ない。
(昼は走ってないんだ)
それだけのことなのに、透葉は妙に安心した。
放課後だけでいい。放課後だけなら、見ていい理由がある気がする。理由を見つけようとしている自分が嫌で、透葉はイヤホンを耳に押し込んだ。
それでも風の音は入ってくる。
屋上の風はどこか海に似ていた。湿り気のない乾いた風なのに、耳の奥に波のような余韻を残す。透葉はふと、『アダンの海辺』の青を思い出した。
青はひとつじゃなかった。
緑みたいな青、黒みたいな青、光みたいな青。絵の前に立ったとき、自分の胸の奥が動いた。動いたのに、誰にも言えなかった。言ったら笑われる気がした。大したことじゃないと言われる気がした。
(陽葵は匂いがしたって言った)
海の匂い。
それを“変じゃない”と言えた自分が少しだけ誇らしかった。誇らしいなんて思ってはいけないのに、思ってしまった。
昼休みが終わるチャイムが鳴る。
透葉はゆっくり立ち上がり、屋上を降りた。階段を下りる足音がさっきより軽い。その軽さが今は怖い。軽くて舞い上がった分、落ちたときに余計に痛くなる。
午後の授業はさらに長く感じた。
透葉は時計を見るのをやめた。見れば見るほど遅い。黒板の文字を追いながら、心の奥で放課後の光景を反芻してしまう。屋上の風。陽葵の声。絵の話。
そして放課後。
掃除当番を終え、透葉は昨日より早く教室を出てしまった。
早く出たことに気づいて、廊下で立ち止まる。早く出たら目立つ。目立てば、声をかけられるかもしれない。声をかけられたら、昨日の“光”が汚れてしまう気がした。
透葉はわざと歩幅を小さくした。
階段の踊り場に着くと、自然に足が止まった。校庭が見える。夕陽がまだ高い。トラックに生徒がいる。部活が始まる時間だ。
そして——いた。
黒髪の影が走っていた。
透葉は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
嬉しい、ではない。安堵でもない。近いのは“納得”だ。自分が見たものは幻じゃなかった、という確認に基づく納得。
陽葵は確かに存在していて、確かに走っている。そのことが、透葉を少しだけ救ってしまう。
(見られてたんだよね、昨日)
透葉は踊り場の陰に身を寄せた。
昨日みたいに堂々と見ない。見たら、また声をかけられるかもしれない。かけられたら——逃げたい。逃げたくない。どっちなのかわからない。
校庭からの風が廊下に入り込む。
砂の匂いがする。透葉はそれを吸い込んで、喉の奥が少しだけ痛くなるのを感じた。
陽葵は一定のペースで走っていた。
腕の振り、足の運び、呼吸のリズム。完璧に見える。けれど、透葉は昨日、あの指先の震えを見た。見てしまった。見たくなかったのに。
そのとき、陽葵が周回の途中でほんの少しだけよろけた。
一歩、踏み出す角度がずれた。転ぶほどではない。誰も気づかない。気づいたとしても、疲れているだけだと思う。透葉もそう思おうとした。
でも、透葉の手のひらは冷たくなった。
胸の奥がひやりとする。
(……なんで、気になるんだろ)
透葉は自分に問いかけて、答えを探すのをやめた。
答えを探すと理由が生まれてしまう。理由が生まれると、関わりが生まれてしまう。関わりが生まれると、いずれ失う。
透葉は人との関わりを“失う前提”で捉えて生きてきた。
だから、最初から手を伸ばさない。
なのに——
校庭の端で陽葵がペースを落とし、ふっと顔を上げた。
視線がこちらへ向く。透葉は反射で隠れようとして、遅れた。遅れた一瞬で視線がかち合う。
透葉の心臓が跳ねた。
陽葵は止まらずに走りながら、ほんの少しだけ口元を動かした。
声は届かない。でも、口の形だけでわかる。
——“またね”。
透葉はその場で固まった。
胸の奥が熱い。
熱いのに、痛い。嬉しいのに、怖い。透葉は唇を噛み、目を伏せた。伏せたのに、口元が勝手に緩むのを止められなかった。
(……またね、って)
あの子はまた会う前提で言った。
透葉の返事なんて待たずに言った。逃げ道を残してくれたわけでもない。追い詰めたわけでもない。まるで、当たり前の挨拶みたいに言った。
透葉は階段を上がった。
屋上へ行く足取りが、自分でも驚くほど自然だった。
扉を押す。
風が吹き抜ける。夕陽が屋上のコンクリートを染める。そこに——陽葵はいない。まだ部活中だ。来るのはもう少し後。透葉はフェンス際に座り、膝を抱えた。
待っている。
透葉は気づいた。自分は今、待っている。
その事実が怖かった。
でも、少しだけ——救いみたいにも思えた。
屋上の風は夕方になるほど硬くなる。
透葉はフェンス際の影に座ったまま、膝を抱えて空を見上げた。雲は薄く、光を吸い込んだみたいに淡い。夕陽が沈むまでの時間はいつもより短く感じる。短いのに、待つ時間は長い。
待っている——その事実がまだ胸の奥で馴染まない。
昨日まで、放課後は“終わる時間”だった。教室の空気から離れて、誰にも邪魔されずに家へ戻るための時間。なのに今日は放課後が始まりの匂いを持っている。自分の中の何かが、勝手に“次”を想定してしまう。
フェンスの向こう、校庭では部活の声が跳ねていた。
笛の短い音、掛け声、土を踏む音。透葉は耳を澄ませた。澄ませるほど、胸が落ち着かなくなる。鼓動が、他人の足音に釣られてしまう。
やがて、階段の方から足音が聞こえた。
コンクリートを踏む靴音が一定のリズムで近づいてくる。ためらいのない足音。昨日と同じ——いや、昨日より少し速い。
透葉は反射で立ち上がりかけて、やめた。
立ち上がったら逃げるみたいになる。逃げたい気持ちはある。でも、逃げたくない。身体の中で二つの矛盾が絡まって、動きが中途半端になる。
扉が軋み、冷たい風が一瞬だけ強く吹き込んだ。
笹波陽葵が屋上に入ってきた。
紺のジャージを羽織っている。髪はひとつに結んだまま、走っていたときの名残がそのまま残っている。頬はまだ少し赤く、息が浅い。汗が乾ききっていないせいか、体温がこちらに伝わってくる気がした。
陽葵は扉を閉め、透葉を見つけると少しだけ目を細めた。
笑う直前の顔。昨日と同じなのに、今日はそこに“当然”が混ざっている。
「……いた」
陽葵が言って、透葉は一瞬だけ言葉を失った。
“いた”。まるで探していたみたいに。探されるような人間ではないのに、探された気がする。
透葉は視線を逸らし、フェンスの金網に指先を当てた。
冷たさが戻ってくる。熱が冷めると、その分だけ息ができる。
「……うん」
返事は短い。短いのに、陽葵は気にしない。
陽葵は透葉の隣に来るでもなく、少し離れた位置で立ち止まった。距離感が昨日と同じで、透葉はそれに救われた。いきなり近づかれたら、透葉は崩れてしまう。
「今日、見えた。階段のところ」
陽葵がさらりと言う。
透葉の喉が小さく鳴った。
「……見えた、って」
「うん。透葉さん、いたよね」
その言い方があまりにも自然で、透葉は返す言葉を失った。
“いた”、“見えた”と言う。透葉は自分が“見えない側”だと思っていたから。見えることが当たり前の人の言い方に、少しだけ胸がちくりとした。
陽葵はジャージの袖口を軽く引っ張り、息を整えるように深く吸った。
それから照れくさそうに言った。
「……昨日、変な感じで終わったから。ちゃんと、挨拶しよって」
挨拶。
透葉は心の中でその言葉を転がした。挨拶なんて、いつもしている。教室では、「おはよう」と言われたら、口だけ動かす。廊下では会釈をする。けれど、それは“存在しないこと”を許されるための挨拶で、今のこれは違う。
「……挨拶」
透葉が小さく復唱すると、陽葵は頷いた。
「うん。……今日も、来たんだね」
言い方が優しい。責めるでも、詰め寄るでもない。
透葉は口を開いて、閉じた。来た理由は一つじゃない。陽葵に会いたかった、と言ってしまったら終わる。終わる、という言葉が何を意味するのか、自分でもよくわからないのに、とにかく怖い。
透葉は結局、逃げ道のある言葉を選んだ。
「……ここ、静かだから」
陽葵は「そうだね」と言って、フェンスの向こうを見た。
校庭の色はもう薄くなり始めている。部活の声が遠くなり、空が夜の準備をしている。
しばらく二人とも黙っていた。
沈黙は透葉にとって本来は怖いものだった。沈黙の中では自分の心の音が大きくなる。でも、今の沈黙は違う。陽葵も黙っているから、沈黙が“許されている”気がする。
陽葵が不意に言った。
「……透葉さんって、絵、今も描く?」
透葉は肩が少し強ばるのを感じた。
今も。描く。——答えは簡単だ。描いていない。描けていない。描くと胸が動く。胸が動くと、壊れそうになる。
「……描かない」
「そっか」
陽葵はそれ以上追い込まなかった。
それがいまの透葉には逆に痛い。普通なら、「なんで?」と聞かれる。励まされる。褒められる。透葉はそれらが苦手だ。なのに、いまだけは——聞かれないことが、少し寂しい。
透葉は思わず言ってしまった。
「……描いてたの、ほんの少しだけ」
陽葵がこちらを見た。
まっすぐな目。見られるのは怖いのに、目を逸らせない。
「うん。……知ってる。あの絵、ほんとに……」
言いかけて、陽葵はまた言葉を探した。
その探し方は昨日より少しだけ上手になっている。でもまだ不器用で、透葉はそこで呼吸ができる。
陽葵は言った。
「……怖かった」
透葉は理解できずに瞬きをした。
「……怖い?」
「うん。海って、きれいなのに……なんか、吸い込まれるみたいで」
透葉の胸の奥がじくりと鳴った。
吸い込まれる。わかる。わかってしまう。『アダンの海辺』の前で、透葉も息ができなくなった。きれいなものの前で、人はどうして苦しくなるんだろう。
陽葵は続けた。
「でも、嫌じゃなかった。……嫌じゃない怖さ」
透葉は言葉にできないまま、ただ頷いた。
自分の感情の輪郭が陽葵の言葉で少しだけ浮かび上がる。透葉はそれが嬉しくて、怖い。
陽葵は視線を校庭の方へ戻し、ぽつりと言った。
「透葉さん、あの絵の海、どこで見たの?」
透葉は息を止めた。
見たのは本物の海ではない。美術館で見た絵の海だ。けれど、その話をするのは透葉にとって“心臓を見せる”みたいなことだった。
でも、陽葵は答えを急かさない。
風が二人の間を通り抜ける。フェンスが小さく鳴る。透葉はその音に背中を押されるように、口を開いた。
「……美術館」
陽葵が少しだけ目を見開いた。
「美術館、行くんだ」
その言い方は驚きというより、憧れに近かった。
透葉は自分の過去を思い出す。学校をサボって、ひとりでふらっと入った美術館。あの日の自分は、今より少しだけ自由だった。
「……行ったことがあるだけ」
「それでも、すごい」
陽葵はそう言ってすぐに「あ、ごめん」と付け足した。
褒め方が下手だ。下手なのに、まっすぐだ。透葉は笑いそうになって、堪えた。
「……何がすごいの」
透葉が聞くと、陽葵は少しだけ困った顔をした。
困った顔が年相応で、透葉の胸がゆるむ。
「だって……私、行ったことないから」
「……ないんだ」
「うん。行きたいって言ったこともない。言ったら、時間の無駄って言われそうで」
陽葵の声は軽い。軽いのに、透葉はその軽さの下にある妙な硬さに気づく。
“時間の無駄”。その言葉を陽葵は何度も聞いてきたのだろう。聞いてきたから、自制の言葉として先に自分で言ってしまう。
透葉は屋上のコンクリートを指先でなぞった。
ざらつきが皮膚に引っかかる。ざらつく感触は確かな現実だ。現実に触れていると、言葉が少しだけ出しやすい。
「……田中一村って、知ってる?」
陽葵がゆっくり首を振った。
「名前は何となく聞いたことある。……たぶん。教科書?」
透葉は小さく頷いた。
透葉が『アダンの海辺』の話をすると、陽葵は黙って聞いた。途中で相槌を挟むでもなく、遮りもしない。ただ、目をそらさないで聞いている。透葉は途中で息が詰まりそうになった。こんなふうに話したことがなかったから。誰かに自分の感動を預けたことがなかったから。
「……その絵を見たとき、息できなくなった」
透葉が言うと、陽葵は小さく笑った。
「わかる。……私も走ってるとき、たまにそうなる」
透葉は陽葵を見た。
「走ってるときに?」
「うん。ほんの一瞬ね。息を忘れるくらい気持ちいいときがある。……怖いくらい」
怖いくらい気持ちいい。
透葉はその表現に妙に納得した。美しいものは、気持ちいいだけじゃなく怖い。触れたら戻れなくなる気がする。
陽葵はふっと表情を変えた。
笑いが消え、口元が少し硬くなる。
「でも、最近……それが減ってる」
透葉の指先が止まる。
減ってる。何が。気持ちよさが。息が止まる瞬間が。——それを言う陽葵の声は淡々としていた。淡々としているのは、たぶん自分の中で“言い慣れ”ているからだ。
透葉は咄嗟に聞く言葉を選べなかった。
「……減るの、嫌?」
陽葵は一瞬だけ迷って、頷いた。
「うん。……嫌。だって、結果が出ないと……」
そこまで言って、陽葵は言葉を止めた。
止め方が昨日より苦し紛れだ。透葉はその苦しさを見てしまう。だけど、踏み込む勇気がない。踏み込んだら、自分が責任を負うことになる。責任なんて、透葉には重すぎる。
透葉は代わりに違う言葉を出した。
空気を戻すための言葉。会話のテンポを呼吸に戻すための言葉。
「……ねえ、陽葵」
陽葵が顔を上げる。
「どうして私に声かけたの。絵が好きだっただけ?」
透葉はなるべく軽く言ったつもりだった。
でも声が震えた。軽い言い方にできなかった。透葉は自分の無器用さに心の中で舌打ちした。
陽葵は少しだけ目を伏せた。
そして、ぽつりと言った。
「絵が好きだったのは、ほんと」
「……うん」
「でもね、透葉さん……いつも、ひとりだった」
透葉は呼吸を忘れた。
見られていた。気づかれていた。透葉がいちばん隠したかった部分を、陽葵は“指摘”ではなく“事実”として言った。
陽葵は続ける。
「ひとりでいるのに、ひとりに見えないときがあって。……それが、変で」
変。
透葉は笑えなかった。変なのは確かだ。透葉は誰かの輪にいたことがある。輪の中でも孤独だった。それを陽葵は見抜いていた。
陽葵は喉の奥で小さく息を整えた。
「私、ひとりに見えないようにするの、得意だから。……透葉さんの“ひとり”が、なんか……放っておけなかった」
その言葉が透葉の胸にまっすぐ刺さった。
同情じゃない。慰めじゃない。“放っておけない”。そんな感情を向けられることが、透葉には新しすぎた。
透葉は目を逸らして言った。
「……放っておいてよ」
言ってしまった。
言ってから、自分の言葉があまりにも子どもで、残酷で、恥ずかしくなった。否定したいのに、喉が動かない。
陽葵は驚かなかった。
怒りもしなかった。少しだけ笑って、言った。
「うん。放っておく」
透葉は思わず陽葵を見る。
放っておくと言われた瞬間、胸の奥が冷える。冷えたことに自分で驚く。
陽葵はすぐに続けた。
「……でも、放っておかない日もある。私の気が向いたら」
透葉は息を吐いてしまった。
声にならない笑いが、喉の奥から漏れる。悔しい。救われてしまった。昨日、自分が言った言葉を、陽葵はそのまま返してきた。逃げ道を残しながら、ちゃんと繋ぐ言い方で。
透葉は小さく言った。
「……ずるい」
陽葵は肩をすくめる。
その動きがどこかぎこちない。ほんの一瞬、肩の筋肉が引きつるように見えた。透葉の目がそこに吸い寄せられる。でも、見なかったことにする。今日もまた、見なかったことに。
陽葵は時計を見て、顔をしかめた。
「やば。門限……じゃないけど、時間決まってる」
「……門限みたいなものじゃん」
透葉が言うと、陽葵は少しだけ笑った。
「うん。そう。……笑えるよね」
笑えると言いながら、笑えていない。
透葉はそれを言葉にしないまま胸にしまった。
陽葵は扉の方へ歩き出し、途中で振り返った。
「透葉さん」
「……なに」
陽葵は少しだけ言いにくそうに眉を寄せた。
「明日さ……昼、ここ来る?」
透葉の心臓が跳ねる。
昼。屋上。来る? ——昼はさっき来た。来たけど、ひとりだった。そこに陽葵が来るということは、透葉の“ひとりの場所”が“二人の場所”になるということだ。
怖い。
でも、胸の奥が熱い。
透葉は答える代わりに問い返した。
「……昼、走らないの?」
陽葵は一瞬だけ笑って、すぐに目を伏せた。
「昼は……走れない。目があるから」
“目があるから”。
透葉はその言い方の重さに息が詰まる。陽葵もまた、見られている。透葉とは違う種類の見られ方。
期待という名の視線に縛られている。
陽葵は言った。
「だから、昼は……ここがいいなって思った」
透葉は返事ができず、ただ頷いた。
頷きながら、自分の頷きが“約束”になってしまったことに気づく。気づいて、逃げたくなる。でも、逃げない。
陽葵は安心したように息を吐いた。
「じゃ、明日。……気が向いたらでいいけど」
透葉は小さく言った。
「……向くよ」
自分で言ってしまって、顔が熱くなる。
陽葵は目を丸くして、それから笑った。今度は本当に笑った。
「うん。じゃ、明日」
陽葵は扉を開け、階段へ消えていった。
足音が遠ざかる。屋上にまた風だけが残る。なのに、透葉の胸の中には、さっきまで確かにあった体温が残っている。
透葉はフェンスに額を軽く預けた。
金属が冷たくて、少しだけ落ち着く。
(昼の屋上……)
屋上は自分だけの場所じゃなくなる。
それは怖い。けれど、嫌じゃない。
透葉は自分の手のひらを見た。
指先が少し赤い。フェンスに触れすぎたせいだ。痛みだけじゃなく、自分がちゃんと“ここにいる”証拠みたいで、妙に安心した。
屋上を降りると、校舎の中はもう薄暗かった。
教室の前を通ると、まだ数人が残って笑っている。透葉はその笑いの輪に入れない。でも、今はそれが少しだけ軽い。胸の内側に、小さな予定ができたから。
“明日、昼に屋上へ行く”。
そんな予定が透葉の人生に入るなんて思わなかった。
予定は怖い。予定は期待を生む。期待は裏切りを生む。透葉はそうやって生きてきた。なのに、明日の昼の予定は怖さより先に温度を持ってしまっている。
帰り道、風が少しだけ強かった。
透葉はイヤホンを耳に入れずに歩いた。車の音も、人の声も、全部が現実だ。現実の中に陽葵の声が残っている。残っていることが嬉しいのに、それを言葉にしないまま、透葉は空を見上げた。
空の色はもう青じゃなかった。
薄い紫が混ざって、夜の入口みたいになっている。
(海の色も、きっとこういうのがある)
透葉は思った。
『アダンの海辺』の青の中に、言葉にできない色がいくつもあったように。陽葵の中にも、言葉にできないものがいくつもある。
それを知りたいと思ってしまった自分が少しだけ怖かった。
でも、怖いだけじゃなかった。
透葉は家の鍵を回した。
いつもの静けさが迎える。なのに、今日は少しだけ違って聞こえた。静けさが“終わり”じゃなく、“明日までの間”になっている。
透葉は玄関で靴を揃え、部屋に入った。
机の端に昨日のメモはもうない。代わりに、何も書いていない小さな紙を置いた。
——“明日、昼”。
書くだけで胸が熱くなる。
透葉は紙を置いたまま、引き出しを開けた。奥から折れた画用紙を一枚取り出す。
『南の海』。見るつもりはなかった。けれど、見てしまう。
海はあの日のままそこにあった。
色が少し拙くて、光が不自然で、でも——自分の中の“何か”が確かに写っている。
透葉は絵の角を指先でなぞった。
そして、息を吐いた。
明日、陽葵にこの話をしてもいいかもしれない。
そう思えることが、透葉には奇跡みたいだった。




