3 笹波陽葵(ささなみひまり)
翌朝、透葉は少しだけ早く目が覚めた。
目覚ましが鳴る前の時間は世界がまだ起きていないみたいで好きだった。好き、と言うほど強い感情じゃない。ただ、音が少ない。人の気配が薄い。自分の呼吸が誰にも邪魔されない。
枕元のスマホは静かだった。
通知も、未読も、何も増えていない。画面を見て安心する自分がいることに、透葉は気づかないふりをした。
安心するためというより、ただの確認だ。今日も昨日と同じだ、と。
洗面台の鏡に向かう。
顔を上げると、自分の目がそこにある。髪は地毛のまま、色が薄いせいで光に触れると灰色みたいに見える。目の下にうっすら影が落ちていて、眠れていないわけでもないのに、いつも少し疲れている。
耳元に手をやる。
ピアスは今日は付けない。穴だけが残っていて、触ると小さな痛みの記憶が戻ってくる。似合うかどうかは、もうどうでもよかった。似合うように振る舞うのが、いちばんつらかった。
制服の襟を整える。
整えたところで、馴染むわけじゃない。けれど、乱したままだと余計に目立つ。
透葉は“目立たないために”丁寧に暮らしていた。矛盾しているのに、そうするしかない。
駅までの道は冬の名残が薄く残っていた。
息を吐くと白くなるほどではないけれど、指先が冷たくなる。踏切の音、コンビニの自動ドアの音、遠くの車の音。全部が別の世界の出来事みたいに聞こえる。
学校に着くと、いつものように声が飛び交っていた。
名前を呼び合う声、笑う声、話しながら歩く靴音。自分がその中に混ざる日もあったはずなのに、今はただ、通り抜けるだけだ。誰かにぶつかっても、「ごめん」と言われるより先に、気づかれないことの方が多い気がした。
教室の扉を開ける。
空気が少しだけ重い。暖房の匂いと、香水と、消しゴムの粉と、誰かの甘いリップの匂い。透葉は席に着き、鞄を机の横に掛けた。
前の席の子が振り返って笑った。
透葉を見て笑ったのではない。隣の子に向けて、昨日のドラマの話をしているだけだ。透葉はその笑いが自分に向かっていないことに慣れた。慣れたくなかったけれど。
授業が始まる。
先生の声は単調で、板書の音だけがやけに鮮明だった。透葉はノートを取る。取る必要があるかどうかより、手を動かしている方が安心だった。手が止まると、頭の中が余計な音でいっぱいになる。
(放課後、見に行く)
机の端に置いたメモの言葉が不意に浮かぶ。
自分で書いたくせに、誰かに言われたみたいに心臓が跳ねる。透葉はペン先を止めて息を整えた。
昼休み、教室の空気はさらに騒がしくなった。
席を立つ子、購買のパンを見せ合う子、スマホを覗き込んで笑う子。透葉は鞄から小さなパンを取り出して、封を切らずに机の上に置いた。
食欲がないわけじゃない。
ただ、誰かに見られながら咀嚼するのが苦手だった。噛む音や、飲み込む喉の動きまで、全部が“ここにいる”証拠みたいで落ち着かない。
透葉は立ち上がり教室を出た。
廊下は少しだけ静かで、呼吸がしやすい。階段へ向かう途中、視界の端に美術室の札が見えた。美術室の隣、鍵のかかった小さな部屋——美術準備室。
扉の前で足が止まる。
入りたいわけじゃない。鍵は閉まっているし、入る理由もない。なのに、そこにあるというだけで、胸の奥が少しだけざわつく。
誰にも見せるつもりのなかった絵が、そこに置かれていた。
『南の海』。先生が勝手に額に入れて、勝手に飾った。透葉はそのことを嬉しいとは思えなかった。嬉しいという感情の置き場がわからなかった。
扉の向こうから、微かに油絵具の匂いがした気がした。
実際には、ただの気のせいかもしれない。透葉はその場を離れ、階段を上がった。
屋上へ続く階段の踊り場はいつも冷たい。
上へ行くほど、校舎の匂いが薄くなる。透葉は屋上の扉の前で立ち止まった。ここは、透葉が“ひとりでもいい”と思える数少ない場所だった。
扉を押す。
軋む音が小さく鳴って、冷たい風が頬に触れた。
屋上は広く、風が強い。
フェンスの向こうに校庭が見える。遠くの街のビルが霞んでいて、空だけがやけに近い。
透葉はフェンス際の影に腰を下ろし、膝を抱えた。冷たいコンクリートの感触が頭の熱を少しだけ冷ます。
下を見る。
校庭のトラックには昼でも人が少なかった。体育の授業がない日はみんな屋内に集まる。喧騒はここまで届かない。
それでも——あの黒髪の少女はいた。
昼休みなのに、走っている。
昨日より速度は遅い。フォームは崩れていないのに、どこか、追いつめられているみたいに見える。
息を吐くたび、胸の奥が少しずつ狭くなる。見ているだけなのに、透葉の方が息苦しくなる。
(……やめたらいいのに)
透葉は心の中で呟いて、すぐに打ち消した。
やめられないから走ってる、と思った。そう決めつけるのは乱暴と知りながら、もうそうとしか見えなかった。
少女が一周して、視線が一瞬こちらへ向いた気がした。
透葉は反射で顔を伏せる。見られたくない。見つけられたくない。なのに、見つけてほしい気持ちがどこかにある。その二つが混ざると、胸の中がひどく不安定になる。
透葉はイヤホンを耳に押し込んだ。
音楽は流れていない。それでも、世界が少しだけ遠くなる。呼吸の音だけが近くなる。
昼休みの終わりのチャイムが鳴り、透葉は屋上を降りた。
教室に戻る途中、すれ違った生徒が笑っていた。透葉はその笑いを眩しいとは思わなかった。
眩しいより、重い。背負えないものを見せられているみたいだった。
放課後が来るのは思っていたより早かった。
最後の授業が終わっても、透葉はすぐに立ち上がれなかった。心臓の奥に小さな針が刺さっているみたいな感覚がある。走る少女を見たい。見たくない。見なければいけない。そんなはずはない。
掃除当番を終え、透葉は誰よりも遅く教室を出た。
階段を上がる。屋上へ。理由は作らない。作れない。足が勝手に覚えている。
扉を押すと、夕方の風がまた頬を撫でた。
空が橙色に染まり、校庭が薄い金色になっている。透葉はフェンス際の影へ向かい、いつものように座った。
下を見る。
陽菜は走っていた。
——陽菜。
名を知っているわけじゃないのに、透葉の心の中で、その少女にはもう名前がついていた。陽だまりみたいに見えたから。自分には遠いもののはずなのに、どうしてか、目が離れない。
少女はトラックを一周して、ペースを落とした。
呼吸を整え、少しだけ肩を落とす。止まるかと思った。止まらない。止まれない。
透葉は手のひらを握りしめる。見ているだけで、何かを奪ってしまいそうな気がする。
風が強く吹いた。
透葉の髪が持ち上がり、耳元が露わになる。ピアスの穴に冷気が刺さる。透葉は反射で髪を押さえた。
そのときだった。
背後で扉の開く音がした。
透葉の背筋が凍る。
屋上に来る人なんていない。いないはずだ。ここは自分の場所で、誰にも見つからない場所で——
足音が近づく。
コンクリートを踏む音。ためらいのない、まっすぐな足音。
透葉は息を殺し、振り返れないまま固まった。
そして、声がした。
「……彩瀬さん、だよね?」
その声は風の中でもはっきりしていた。
透葉がずっと見ていた、校庭の黒髪の少女の声だった。
透葉の喉が音にならないまま震えた。
逃げなきゃ、と思った。
でも、屋上は広いのに、逃げ場がない。
足元のコンクリートが急に遠くなる。
校庭の夕陽が滲む。
透葉はようやく、ほんの少しだけ顔を上げた。
声がした瞬間、透葉の身体は反射で縮こまった。
息が肺の奥で引っかかり、吐けない。心臓だけがやけに大きく鳴って、胸の内側を叩く。逃げる、という選択肢が頭に浮かぶより先に、足が動けないことを理解してしまった。
屋上は広い。
けれど、逃げ場はない。フェンスの向こうは空で、扉は背後。ここは“ひとりでいられる場所”だったはずなのに、今は逆に、追い詰められるための場所みたいだった。
透葉はゆっくりと、ほんの少しだけ振り返った。
そこにいたのは、校庭のトラックを走っていた少女だった。
黒髪。
夕陽の色を含んで、艶がある。髪は後ろでひとつに結ばれていて、走っていたときより整っているのに、頬にはまだ汗の名残が薄く光っていた。息をしただけで、体温の熱気がこちらに流れてくる気がする。
少女は透葉から二歩ほど距離を保ったところで立ち止まっていた。
近づきすぎない。けれど、引く気もない。まっすぐな姿勢で透葉を見ている。
透葉はその視線をまともに受け止められず、視線をずらした。
フェンスの金網に指先を当てる。冷たい。金属の冷たさが、今の自分にはありがたかった。
「……彩瀬さん、で合ってる?」
もう一度、確認するように言われる。
透葉は喉の奥を動かして、ようやく音を出した。
「……う、ん」
返事が短すぎた。
なのに、少女は気にしないみたいに小さく笑った。
「よかった。やっぱり」
なにが“よかった”のか、透葉にはわからない。
わからないまま、落ち着かない。
どうして名前を知っているの? いつから見られてた? 見られていた? こっちが見ていたのに?
透葉は半歩だけ後ずさった。
それは逃げるための動きではなく、距離の確保だった。呼吸するためのスペースを作りたかった。
少女はそれを見て、手のひらを軽く上げた。
「ごめん、怖がらせた?」
怖がらせた。
意外な言い方だった。透葉のような人間が怖がることを、この子は想像できるのだ。
「……怖がってない」
咄嗟に否定して、透葉は心の中で自分に突っ込んだ。
(いや、今のは“怖がってない人”の返しじゃない)
少女はまた少し笑った。
笑い方が走っているときと同じだ。息が弾む前の、あの一瞬の顔。
完璧に見えていたのに、近くで見ると、年相応の幼さが混ざっている。
「私、笹波。……笹波陽葵」
名乗るとき、ほんの少しだけ声が澄んだ。
陽葵——。透葉の中で勝手につけていた名前が別の形で現実になった気がして、胸の奥がひどく落ち着かない。
「……彩瀬、透葉」
透葉も名乗り返す。
自分の名前を声に出すのが久しぶりで、舌に馴染まない。名前ってこんな音だったっけ、と妙に遠い感覚になる。
陽葵は頷いた。
「透葉さん。……うん、やっぱり」
また“やっぱり”だ。
透葉は耐えきれずに聞いた。
「……なんで、私のこと、知ってるの」
聞いた瞬間、後悔が押し寄せる。
聞かない方がよかったかもしれない。知っている理由が、透葉にとって都合の悪いものかもしれない。
昔のグループの誰かが何か言った? 陰口?
あの頃の癖が今さら首を絞める。
でも陽葵は困ったように目を瞬かせただけだった。
そして、少しだけ言葉を選ぶように口を開いた。
「……美術準備室」
その単語が出た瞬間、透葉の背中に小さな電流が走った。
美術準備室。昼休みに足が止まる、あの扉。
「準備室に、前……絵、飾ってあったでしょ。海の」
海。
透葉の指先がフェンスから離れる。冷たい金属の感触が消えて、代わりに体温が戻ってきてしまう。
「……『南の海』」
陽葵が題名を言う。
それを、透葉は他人の口から聞いたことがなかった。先生が言ったときは授業の一部として流れていっただけだった。けれど、陽葵の口から出ると、それは突然、透葉の“持ち物”になってしまう。
透葉の喉が詰まる。
あの絵は誰にも見せたくなかった。見られるのが怖い。
でも——見つけられたい気持ちが、まだどこかにあった。
「……見たの?」
声が自分でも驚くほど小さかった。
陽葵は頷いた。
「うん。……あれ、すごく……」
言いかけて、陽葵は一度言葉を止めた。
その止まり方が妙に不器用で、透葉は息を呑んだ。完璧に言葉を整えるタイプの子じゃない。整えてきたけど、本当は整えられない子なんだ、と直感が告げる。
陽葵は頬の汗を指で拭って、少しだけ視線を逸らした。
「……すごく、海の匂いがした」
透葉は返事ができなかった。
海の匂い。絵から匂いなんてしないはずなのに、透葉は否定できない。自分が『アダンの海辺』を見たとき、確かに“匂い”を感じたからだ。風の塩気、湿った熱、波が引く音。全部、絵の中からこっちへ流れ込んできた。
「私……」
透葉が口を開いた瞬間、声が震えた。
何を言えばいいかわからない。ありがとう? やめて? 見ないで? どれも違う。違うのに、胸の中に言葉が詰まっている。
陽葵は透葉の様子を見て、慌てたように首を振った。
「ごめん、変なこと言った。忘れて。いや、忘れなくていいけど……えっと」
言葉が迷子になっている。
透葉はその迷子の仕方に救われた。完璧に優しい言葉を言われたら、透葉はその場で崩れてしまう気がした。陽葵の不器用さは、透葉が呼吸するための余白になった。
透葉は小さく息を吐いて、ようやく言った。
「……変じゃない」
陽葵が目を丸くする。
透葉は続けた。
「……海の匂い、わかる。私も……そういうの、わかる」
言った瞬間、恥ずかしさが遅れてきた。
何を告白してるんだ、と自分に突っ込みたくなる。けれど、引っ込めるには遅い。
陽葵は少しだけ肩の力を抜いた。
「……よかった」
また“よかった”だ。
でも今度は透葉にもわかった。陽葵が言う“よかった”は、正解を踏んだときのものじゃない。誰かと繋がったときの、細い安堵の音だった。
風が吹き抜ける。
フェンスが小さく鳴り、屋上の空気が冷える。夕陽が傾き、校庭の色が少しずつ消えていく。
陽葵の頬の汗が乾き始めて、光り方が変わる。
透葉は気づく。
陽葵の指先がほんの少し震えている。寒さのせいかもしれない。走り終えたあとだからかもしれない。そう思うことにする。透葉は“見なかったこと”が得意だ。
でも、今日は——
透葉は言ってしまった。
「……いつも、走ってるね」
言った瞬間、しまったと思った。
見てたって言ったも同然だ。恥ずかしい。怖い。逃げたい。なのに、陽葵は驚かなかった。
「うん。……見られてた」
淡々とした言い方だった。責めるでもなく、茶化すでもない。
透葉の頬が熱くなる。言い訳を探して、喉が鳴る。
「……たまたま」
言った瞬間、また心の中で自分に突っ込む。
(たまたま、三日連続で同じ場所に立つ人間はいない)
陽葵は吹き出しそうになって、堪えた。
「うん。たまたま、ね」
その言い方が少しだけ柔らかくて、透葉は救われた。
責められたら終わっていた。笑われても終わっていた。陽葵はそのどちらも選ばない。
沈黙が落ちる。
気まずい沈黙ではない。ただ、言葉が必要ない種類の沈黙。透葉はその沈黙が怖かった。沈黙が続くと、心の中の音が大きくなる。
透葉は言った。
「……どうして、そんなに走るの」
問いは透葉の中でずっと渦巻いていた。
神々しいほどまっすぐに走る理由。理由がないなら、なお怖い。
陽葵は答えなかった。
すぐには答えなかった。視線を校庭の方へ落とし、夕陽の残り火を見つめた。胸が上下する。息を吸って、吐いて——それだけで何かを整えているみたいだった。
「……習慣、かな」
ようやく出てきた言葉は軽い。
軽いのに、透葉にはとてつもなく重く聞こえた。習慣という言葉の裏側に、壊れるほどの必死さが隠れている気がした。
陽葵は笑った。
「変だよね。遅くまで走ってるの」
透葉は首を振った。
「変じゃない」
それは本心だった。
変なのは、きっと自分の方だ。走る少女を見ているだけで自分の中が動いてしまう自分の方が、よほど変だ。
陽葵は透葉の顔を覗き込むようにして言った。
「……じゃあ、またここで会える?」
透葉の心臓が跳ねた。
また。ここ。会う。——言葉の順番が透葉の中で危険な意味を作る。
透葉は答えられなかった。
答えたら約束になってしまう。約束は怖い。守れなかったとき、全部壊れる気がする。壊れるくらいなら最初から作らない方がいい。透葉はそうやって生きてきた。
でも、陽葵は待ってくれた。
返事を強要しない。ただ、風の中で立っている。
透葉はやっと小さく言った。
「……気が向いたら」
自分でも最低の言い方だと思った。
逃げ道を残すための言葉。相手を置き去りにするための言葉。
なのに、陽葵はまた笑った。
「うん。気が向いたらでいい」
その瞬間、透葉の胸の奥が少しだけ緩んだ。
“いい”と言われたのは久しぶりだった。条件のない許可。期待も評価もついていない言葉。
遠くで部活の掛け声が聞こえる。
陽葵は腕時計をちらりと見て、少しだけ顔をしかめた。
「……やば。私、戻らないと」
その言い方は、さっきまでの丁寧さよりずっと素だった。
透葉は思わず口元が緩むのを感じた。笑うほどではない。でも、少しだけ。
陽葵は扉へ向かいかけて、途中で振り返った。
「透葉さん、あのさ」
透葉は息を止めた。
呼ばれるだけで、身体が反応する。名前を呼ばれるのが怖いのに、いまは嬉しい。
陽葵は少しだけ言いにくそうに眉を寄せた。
「……あの絵。私、好きだった。……だから、声かけちゃった」
それだけ言って、陽葵は逃げるみたいに扉へ向かった。
扉が開き、閉まる。足音が遠ざかる。屋上にはまた風だけが残る。
透葉はしばらく動けなかった。
“好きだった”。たったそれだけの言葉が透葉の胸の中で何度も反響した。誰かの“好き”が、自分に向くなんて想像したことがない。想像してしまうと、怖い。
透葉はフェンスに手を置いた。
金属はさっきより冷たく、指先が痺れる。でも、その痺れが現実の証みたいで、少しだけ安心した。
校庭を見下ろす。
トラックはもう暗くなり始めていて、走っていた影はない。夕陽の最後の光が砂の粒だけを光らせている。
透葉は自分の胸の奥が熱いことに気づく。
熱いが、泣きたいわけではない。笑いたいわけでもない。ただ、何かが始まってしまった感覚がある。
(知らなければよかった、って思ったのに)
透葉は昨日の自分の言葉を思い出して、心の中で苦く笑った。
知らなければよかったはずなのに——知ってしまったから、今は戻れない。
風が吹いた。
髪が揺れ、耳元の冷たい空気がピアスの穴に触れる。
透葉はゆっくりと屋上の扉へ向かった。
足音はひとつずつ確かだった。
“気が向いたら”と言った。
でも、もうわかっている。
明日も透葉はきっとここへ来る。
校庭を見るためではなく——
“笹波陽葵”という名前の、あの声を思い出すために。
扉を押し開けると、校舎の匂いが戻ってきた。
透葉は階段を下りながら、胸の奥に小さな光が灯っているのを感じた。
それが火傷になるのか、救いになるのかは、まだわからない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
透葉はもう“何も起きない日々”には戻れない。




