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28 飴はバフ

 翌朝、透葉は駅のホームで、妙に手が冷たいことに気づいた。

 寒いからじゃない。空気はいつも通りの冬の匂いで、頬も痛いほどじゃない。

 手だけが冷たい。

 心臓が先に動きすぎている。


 改札を抜け、校門へ向かう。

 校門の前でいったん呼吸を整える癖がついた。

 整えないと、学院の匂いに呑まれる。磨かれた床、制服の擦れる音、笑い声。

 全部が同じように見えて、その中に自分だけ違う色で混ざっている気がする。

 教室に入ると、視線が走る。

 昨日より露骨ではない。なのに、気持ち悪い。

 “鍵が変わった”という情報が、もう誰かに回っている気がした。今回っていなくても、いずれ回る。学院はそういうところだ。

 昼休みまでが長い。

 授業が進む。板書を取る。取っているふりをする。

 ノートの端に波みたいな線を引く。意味のない線を引いていると落ち着く。

 波はいつも寄せては返す。返すから、また寄せる。

 ずっと同じ繰り返しに見えて、少しずつ砂が削れて形が変わっていく。

 自分たちの居場所もそうだと思った。削られて、でも形を変えて、残る。


 昼休みのチャイムが鳴る。

 透葉は教室を出て、廊下の角を向かった。

 陽葵はすでに待っていた。

 今日は制服の襟元まできっちり整っている。そういうときほど、陽葵は何かを“覚悟”している。

 柚羽はすぐに来た。

 昨日より顔色がいい。

 でも手が落ち着かない。飴の袋を鞄の中で探って、指先だけが忙しい。

 沙良は少し遅れて来た。

 わざとだと思った。

 輪の中の視線を抜けてくるには、タイミングをずらした方がいい。沙良はそういうのが上手い。でもそれが悲しい。

「……来た」

 沙良が昨日より小さな声で言った。

 目は昨日より強い。

 強い目で“来た”と言う。

 来るだけで勝ち、みたいな日を何度も超えてきた目だ。

 陽葵が言った。

「今日は放課後、顧問のとこ。……四人で」

 柚羽が緊張した顔で頷く。

「……はい……」

 沙良が指先で自分のスカートの端をつまむ。

「私、先生と話すとき、声、震えるかも」

 透葉は即答した。

「震えてもいい。声が出るだけで勝ち」

 沙良が一瞬だけ目を丸くして、次に小さく笑った。

「透葉、今日、ちゃんと優しい」

 透葉は無表情で返す。

「……たぶん飴の効果」

 柚羽が慌てて言う。

「……じゃあ……もっと……」

 陽葵が笑う。

「真壁さん、飴で人格操作しないで」

 四人は、今日も旧校舎へは行かない。

 行けない、ではなく、行かない。

 “選ぶ”ことで、少しだけ自分たちの主導権を残す。


 昼休みは、昨日見つけた理科準備室横の小さな倉庫へ入った。

 扉を閉めると、外の世界の音が少しだけ薄くなる。

 それだけで、息が深くなる。

 人は音の量で壊れるのだと透葉は思った。

 声じゃなく、音の量。

 狭い倉庫で、四人は段ボールを机がわりにして弁当を広げた。

 柚羽は今日も飴を机の端に置いた。

 その“置く”が、柚羽の祈りになっている。

 陽葵が低い声で言った。

「放課後、顧問に言うこと。順番を決めよう」

 透葉は短く言う。

「陽葵が最初だね」

「うん。私が最初に、事実とお願いを言う」

 声が整っている。整いすぎている。

 それはもう鎧だ。

 鎧は必要だけど、鎧で固めたまま泣けないのが陽葵の弱点だと、透葉は知ってしまっている。

 陽葵が続ける。

「次に、真壁さん。嫌がらせが続いてることと、安全な場所が必要なこと」

 柚羽の肩が少しだけ上がる。

 緊張で呼吸が浅くなる前兆。

 透葉は言葉を挟む。

「柚羽、全部は言わなくていい。言える範囲でいいから」

 柚羽がほんの少しだけ頷いた。

 沙良が小声で言う。

「私も、言う?」

 陽葵が頷く。

「言ってほしい。居場所がないこと。戻りたくないこと。先生に、ちゃんと“困ってる”って伝えてほしい」

 沙良は唇を噛んで頷いた。

 それは声が震えるのを止める癖だと思った。

 透葉は最後に言った。

「……私は、申請の話。規則を守る気があること。あと、居場所がなくなると、壊れるってこと」

 陽葵が少しだけ笑う。

「透葉さん、言い方」

 透葉は無表情で返す。

「……壊れるんだよ。実際」

 沙良が目を伏せて小さく言った。

「……うん。壊れる」

 柚羽も箸を止めて頷いた。

「……はい……」

 沈黙が重くなる前に、陽葵が軽く言った。

「よし。パンチは揃った」

 沙良が即ツッコむ。

「パンチって何、格闘技?」

 透葉が続けて言う。

「言葉のコンボ」

 柚羽が真面目に言う。

「……コンボ……」

 陽葵が笑う。

「真壁さんの“飴”はバフね」

 柚羽が赤くなって、飴の袋を握りしめた。


 午後は長かった。

 透葉は授業の内容より、放課後の職員室の空気を想像していた。

 顧問。美術の顧問。

 “美術室の許可”という門番。

 門番は気分で門を閉じることもできる。

 気分を“規則”で縛るために申請がある。

 なのに、申請を嫌がるのも大人だ。


 放課後、四人は職員室へ向かった。

 昨日より足取りが重い。

 それでも並んで歩く。

 並んで歩くことで、重さを分ける。

 職員室の前で、沙良が小さく息を吸った。

 吸って、吐く。

 吐いても、手は冷たいまま。

 陽葵が扉をノックする。

「失礼します」

 職員室の空気は、いつでも同じ匂いがする。

 コピー機の熱、紙、コーヒー、インク。

 匂いが混ざって、少しだけ頭が痛くなる。

 美術顧問は職員室の奥にいた。

 年齢は中堅くらい。

 髪をきっちりまとめて、眼鏡の奥の目が忙しい。

 忙しい目は、人を“案件”として見る目になる。

 陽葵が顧問の前に立って、言った。

「先生、お時間いただけますか」

 顧問が顔を上げ、四人を見た。

 一瞬だけ眉が動く。

 “面倒そう”の動き。

 透葉は胸の奥で舌打ちした。

 でも、舌打ちしても何も変わらない。ここは“言葉”の勝負だ。

 顧問が言う。

「何?」

 短い。

 短いほど、壁が厚い。

 陽葵が整った声で話し始める。

 準備室の使用が禁止になったこと。

 昼休みに安全に過ごせる場所が必要なこと。

 旧校舎には行かないこと。

 美術室または美術関連の部屋を、正式に申請して使わせてほしいこと。

 顧問は途中で口を挟んだ。

「昼休みは原則、部屋の使用は禁止。事故があったら困る。あと部活の備品がある。管理上の問題もある」

 言葉は正しい。

 だからこそ余計に腹が立つ。

 正しい言葉で、いつも“困る”のは先生側だけだ。 生徒のそれは、“我慢”で処理される。

 陽葵は怯まずに言った。

「それでも、先生。真壁さんへの嫌がらせが続いています。……安全のために必要です」

 顧問が柚羽を見る。

 柚羽は一瞬縮む。

 でもその目には、昨日の強さがまだ残っている。

 柚羽が声を出した。

「……続いてます。……ぶつかられたり、言われたり」

 顧問が小さくため息を吐く。

「そういうのは担任に——」

 そこで沙良が一歩前に出た。

「担任にも言いました。……でも、場所がないと、逃げられません」

 顧問が沙良を見る。

 沙良の名前が、顧問の中で何かの噂と繋がっているのが、透葉には見えた。

 目が少しだけ冷たくなる。分類する目。

 沙良はその冷たさに負けないように、言葉を選んだ。

 でも本音を混ぜる。

「私は今、クラスに居場所がありません。……居場所がないと、人は変なことを考えます。……私は、考えたくない」

 顧問の眉が少しだけ動いた。

 呆れた動きじゃない。

 “そこまで言うのか”という驚きと、少しの警戒。

 透葉はここで最後のカードを切った。

 言葉を揃える。

 正しさを、こっちの形で使う。

「先生。私たちは規則を破りたいわけじゃないんです。……だから申請します。管理もします。使用時間も守ります。出入りの記録もつけます」

 顧問が透葉を見る。

 透葉の外見が顧問の眉をさらに動かす。

 薄い髪色、ピアス。

 “問題児”のラベルが貼られかける。

 透葉はそのラベルの上から言葉を叩き込む。

「責任者を決めて、毎日鍵の受け取り返却をします。掃除もします。備品には触りません。必要なら、先生の指定する部屋でもいいんです」

 顧問が黙った。

 否定しきれないときの黙り方だ。

 透葉はそこに賭けた。

 顧問はしばらく考えてから言った。

「……美術室は無理。部活の時間がある。備品もある」

 透葉の胸が沈みかける。

 でも、顧問は続けた。

「……ただ、旧校舎の“美術資料室”は、今鍵を変えて封鎖した。あそこは危ないし、管理し切れない。……代わりに、空きがあるなら、放課後だけ“視聴覚準備室”を使うことは検討する」

 放課後だけ。

 でも、“検討する”。

 昨日の担任の“話す”と同じ種類の前進。

 陽葵がすぐに言った。

「昼休みは……?」

 顧問が眉を寄せる。

「昼休みは難しい。……でも、真壁さんの件があるなら、生活指導と相談して——」

 “相談して”。

 これもまた、面倒を分散する言葉。

 でも、分散してもらえるなら、まだ道は繋がる。

 柚羽が小さく言った。

「……お願いします……」

 その“お願いします”は、今までの“すみません”とは違った。

 ただ“守ってほしい”じゃなく、“守るために協力してほしい”という前向きなお願いの形。

 顧問はもう一度ため息を吐いて言った。

「分かった。……条件付きで。今日中に担任と生活指導に話す。旧校舎には行かないで。絶対。……それと、ふざけた使い方をしたら一発で終わり」

 陽葵が深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 柚羽も下げた。

「……ありがとうございます」

 沙良も下げた。

「ありがとうございます」

 透葉は一拍遅れて下げた。


 勝ったわけじゃない。

 でも、押し返した。波を一回押し返した。

 職員室を出るとき、透葉は息を吐いた。

 吐いた瞬間、足が少し軽くなる。

 でも背中が寒い。

 今日の交渉が誰かの目に入っている。

 “あの四人、先生に直談判した”——そういう噂はすぐに回る。

 廊下の端で生活指導の先生が立っていた。

 また、いる。

 今日は隠さない。真正面から見てくる。

「話したか」

 生活指導の先生が言う。

 陽葵が、正しい声で答えた。

「はい」

 先生は透葉を見た。

 透葉の耳のピアスに視線が止まりそうになって、そのまま言った。

「旧校舎はもう封鎖した。……鍵も変えた。もう行くな。分かったな」

 透葉は目を逸らさず答えた。

「分かってます」

 それは、透葉の中では嘘と本当の混ざった言葉だった。

 行けないと分かっている。

 でも、あの匂いを忘れられないことも、もう分かっている。

 先生は「よし」とだけ言って去った。

 去り方がやっぱり硬い。

 まだ続く予感がする。


 四人は校門を出るまで、ほとんど言葉を交わさなかった。

 言葉を交わすと、興奮が外に漏れる。

 漏れた興奮は噂の燃料になる。

 校門を出た瞬間、沙良がいきなり言った。

「……私、今、めっちゃ頑張った」

 透葉が即答する。

「頑張ったし、褒める。でも調子に乗るな」

 沙良が笑う。

「なんで最後に刺すの!」

 陽葵が肩を落として笑った。

「透葉さんの愛情表現だから」

 柚羽が真面目に頷く。

「……はい……愛情……です」

 沙良が吹き出して、四人の緊張が少しだけほどけた。

 息が深くなる。

 今日が“日常の一部”になっていく。


 別れ際、陽葵が透葉にだけ小さく言った。

「……透葉さん、ありがとう。今日の言葉、心強かった」

 透葉は無表情で返す。

「強くしないと、取られちゃうから」

 陽葵が小さく頷いた。

「うん。……でも、ちゃんと優しかった」

 透葉は返事ができなかった。

 “優しかった”が胸の奥に落ちて、熱くなって、言葉が出ない。


 帰宅後。

 透葉のスマホが震えた。

 もちろん顧問からではなく、柚羽から。

『旧校舎の資料室、今日は誰も近づけないように先生が立ってました……。でも、明日から、視聴覚準備室、使えるかもです……!』

 透葉は画面を見つめて、ゆっくり息を吐いた。

 “使えるかも”。

 まだ不安定。

 でも、道ができた。

 道があるなら、歩ける。

 透葉は返信を打った。

『ありがとう。明日、昼は倉庫で。放課後、視聴覚準備室が取れたら、そこで“新しい匂い”を作ろう』

 送信。

 画面が暗くなる。

 暗い画面に映る自分の輪郭は薄い。

 でも、今日は少しだけ目がはっきりしていた。


 旧校舎の匂いは、鍵の向こうに隠れた。

 でも、匂いは消えない。

 匂いを持っているのは場所じゃない。

 あの場所で笑った自分たちだ。


 透葉は布団に潜り込んで、目を閉じた。

 耳の奥で、旧校舎の階段の軋む音がする。

 その音が遠ざかっていく。

 代わりに、別の音が近づく。

 ——四人で作る、新しい部屋の音。


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