26 見えないユニフォーム
翌朝の空は薄い雲でふさがっていた。
晴れでも雨でもない、どっちつかずの白。こういう日は気持ちの輪郭が曖昧になって、逆に噂の輪郭だけがくっきりする。
透葉は駅の改札を抜けて、校門までの道を歩きながら、スマホの画面をもう一度見た。
『生活指導の先生が、旧校舎のほう見てました……』
柚羽の文は短いのに、心臓の奥を冷たくする。
校門をくぐると、空気が変わった。
廊下の磨かれた匂い。制服の擦れる音。
そして、視線の針。
“旧校舎”という単語は、声にしなくても増殖する。
人は見えないものほど興味を持つ。
見えない場所で楽しそうにしている誰かがいると、そこを壊したくなる。
教室に入る。
会話が途切れる。
透葉はそれを、もう数えないことにした。数えたら負ける。負けというより、自分の呼吸が減る。
席に座り、ノートを開く。
シャーペンを握る。
書くふりをする。
その間、耳だけが働く。
「旧校舎ってさ、入っちゃだめなんじゃないの?」
「なんか、あの子たち行ってるらしいよ」
「やば」
“やば”は今日も万能だった。
万能な言葉は誰も責任を取らない。
二時間目が終わる頃、透葉のスマホが震えた。
陽葵からの短いメッセージ。
『昼、早めに合流できる? 廊下、空気変』
“空気変”の言い方が、陽葵らしくない。
陽葵は普段、空気が変でも“普通”を作る。
その陽葵が、空気を“変”と書いたことが、透葉には怖かった。
昼休みのチャイムが鳴る。
透葉は鞄を持って教室を出た。
廊下はいつもより音が少ない。
なのに、目が多い。
角で待っていた陽葵は顔色が微妙に悪い。
昨日の病院のあとだから、と透葉は思いかけて、違うと気づく。
陽葵の目が、どこか“警戒”の形をしている。
「透葉さん」
「……うん。柚羽は」
陽葵が小さく首を振った。
「来る途中。……沙良も、たぶん」
“たぶん”が増えた。
たぶん、は不安の形だ。
透葉たちは旧校舎へ向かう……はずだった。
でも、陽葵が一歩踏み出したところで止まった。
「……今日は、旧校舎直行しない」
透葉が眉を寄せる。
「……なんで」
陽葵は視線だけで廊下の向こうを示した。
生活指導の先生が廊下の先に立っていた。
こちらを見ているわけじゃない。
見ていないふりをしている。
透葉の胃が冷えた。
昨日の柚羽のメッセージは、当たっていた。
嗅ぎつけている。匂いを嗅いで、場所を割る。
そこへ柚羽が合流した。
今日は昨日より顔色がいい。
でも、目が落ち着かない。情報を持っている目だ。
柚羽が小声で言う。
「……先生、朝から旧校舎のほう、二回行ってました」
二回。
透葉の胸の奥がきゅっと縮む。
回数が具体的だと、現実になる。現実は逃げられない。
沙良が遅れてやってきた。
今日の沙良は、髪がきれいに整っているのに、口元だけ硬い。
輪の中で生きる顔を、また少しだけ被っている。
「……おはよ。てか、今、生活指導が“張ってる”」
張ってる、という言い方が沙良らしくて、透葉は一瞬だけ息が楽になった。
言葉が俗っぽいと、なぜか対処できる気がしてくる。
陽葵が言う。
「旧校舎、行ったら終わり。……今日は別ルート」
透葉は短く言った。
「……どこ」
陽葵は少しだけ迷ってから言った。
「……理科準備室の前の小さい倉庫。昨日、先生が鍵開けてたの見た」
沙良が即ツッコむ。
「鍵開けてたの見たって何、スパイ?」
陽葵が真顔で返す。
「観察」
透葉がつい言う。
「……陽葵の“観察”、たまに怖い」
陽葵は淡々と言った。
「透葉さんが言うな」
柚羽が小さく笑った。
笑いが出るだけで、四人はまだ繋がっている。
四人は旧校舎と反対方向の廊下へ歩いた。
わざと、遠回り。
遠回りは逃げじゃなくて戦術だと自分に言い聞かせる。
廊下を曲がるたび、視線が少しずつ減る。
なのに背中が寒い。
“どこで見られてるかわからない”怖さ。
理科室の前は薬品の匂いが薄く漂っていた。
理科準備室の横には確かに小さな倉庫がある。
扉は木製で、札もない。
札がない場所は見逃されやすい。ここは隠れ家にしやすい。
陽葵が扉の前で立ち止まり、周囲を確認した。
確認の仕方が部活のスタート前みたいに真剣で、透葉は心がざわつく。
陽葵はこういうとき、走るときの集中を使う。
それが頼もしいのに、どこか危うい。
陽葵が小声で言う。
「……今」
扉を引くと、鍵はかかっていなかった。
思ったよりあっさり。
あっさりなのが逆に怖い。そういう場所ほど、壊されやすい。
中は狭く、棚に古いビーカーや段ボールが積まれている。
紙の匂いはない。絵具の匂いもない。
代わりに、理科室の匂い。
それでも、四人が入れば居場所になる、と透葉は思う。
柚羽が息を吐いた。
「……ここ、静か……」
沙良が肩を落として言う。
「静かすぎて逆に怖い。なんか標本が歩き出しそう」
透葉が即ツッコむ。
「旧校舎の幽霊信じてるくせに」
沙良が真顔で言う。
「幽霊と標本は別ジャンルだから」
陽葵が小さく笑ってから、すぐ真面目な顔に戻った。
「今日の目的、確認しよう」
透葉は頷いた。
柚羽も頷く。
沙良は一拍遅れて頷いた。
その一拍が、沙良の“入れてもらってる”癖で、透葉は胸が少し痛む。
陽葵が続ける。
「旧校舎の資料室は見つかった。もう時間の問題。……だから、手続きをする」
透葉は短く言う。
「……申請」
陽葵が頷く。
「うん。美術準備室のときと同じ。担任に、もう一回正式に話す」
柚羽が小さく言った。
「……先生、私のこと……嫌がってませんか……」
透葉の胸が熱くなる。
柚羽は自分を責める。自分のせいだと思う。
それがいちばん危ない。
透葉は言い方を選ぶ余裕がなくて、少し強く言った。
「あれは面倒を嫌がってるだけ」
柚羽が目を丸くする。
陽葵が透葉を見て、少しだけ苦笑する。
「透葉さん、言い方」
透葉は無表情で返す。
「……事実だし」
沙良が小さく笑って、言った。
「でも、それ正しい。先生って、誰が悪いとかより、面倒が嫌なんだよ。……輪と同じ」
輪と同じ。
その言葉が透葉の胸に刺さった。
大人も同じ。正しい顔をして、楽な方へ流れる。
だから、手続きで塞ぐしかない。楽じゃない方へ引きずり出すしかない。
陽葵が息を吸って言う。
「今日の放課後。担任と話す。……透葉さん、一緒に来て」
透葉は即答した。
「行くよ」
沙良が「私も」と言いかけて、言葉を飲んだ。
飲んだのが見えた。
透葉は沙良の方を見て言った。
「……沙良も来る?」
沙良が一瞬固まって、次に小さく頷いた。
「……行く。行かないと、また“輪”に戻りそう」
その“戻りそう”が、透葉には怖い。
怖いと言える沙良は、昨日より少し強い。
柚羽が控えめに手を挙げるみたいに言う。
「……私も……行きたいです……」
陽葵が頷いた。
「四人で行こ。言葉を揃えて」
言葉を揃える。
それは、四人の新しい“ユニフォーム”みたいだった。
制服の下に着る、見えないユニフォーム。
昼休みは弁当を食べる時間になった。
倉庫は狭い。ソファもない。
段ボールの上に弁当箱を置く。
置くだけで居場所が生まれる。
柚羽が箸を持って、一口食べる。
透葉はそれを確認して、胸の奥が少しだけほどけた。
柚羽が食べる。食べられる。
居場所が変わっても、呼吸が途切れていない。
沙良は今日、パンを潰していなかった。
袋がきれいで、透葉は妙に感心してしまった。
「沙良、今日はパン無事だね」
沙良が胸を張る。
「学習したもんね。私は成長する女」
透葉が即ツッコむ。
「成長する女。言い方がもう輪の中心っぽい」
沙良がすぐに言い返す。
「透葉だって、たまに主人公っぽいこと言うじゃん」
透葉は無表情で返す。
「主人公だから」
柚羽が真面目に頷く。
「……はい……」
陽葵が笑って、すぐに小さく咳払いした。
笑いのあとに咳払いが来るのが、少しだけ気になった。
透葉は陽葵の横顔を見た。
顔色は昨日よりまし。
でも、目の奥に疲れが残っている。
透葉が小声で言う。
「……無理するな」
陽葵は透葉だけにわかるくらい小さく頷いた。
背筋はまだ正しい。
正しさが抜けない。
午後の授業は透葉の中で薄い膜みたいに流れていった。
放課後のことばかり考える。
担任との話。
生活指導の先生の気配。
旧校舎の資料室が見つかる未来。
そして、四人で揃える言葉。
言葉が揃えば、居場所は守れるのか。
守れるとしても、それは“借りる”形の居場所だ。
借りた居場所は、いつでも取り上げられる。




