25 逃げたら引っ叩く
放課後。
陽葵は練習を切り上げると言った。
陽葵の目がほんの少しだけ揺れた。
揺れを見せないように陽葵は笑う。
その笑い方が透葉にとっては怖い。
四人で帰る途中、柚羽の足取りはまだ少し硬かった。
沙良は周囲を警戒する目をしている。
陽葵は歩幅を一定に保とうとする。
その瞬間——
陽葵の足がほんのわずかに絡んだ。
平らな道。
段差もない。
ただの舗道。
陽葵の身体が前に傾く。
透葉は反射で腕を掴んだ。
掴んだ瞬間、陽葵の体温が掌に移る。微かな汗。筋肉の張り。
そして、陽葵の肩が小さく震えた。
ドキッとした。
透葉の胸が変なふうに跳ねる。
危険を察したときの跳ね方と、別の跳ね方が混ざって、嫌になる。
陽葵がすぐに言う。
「……大丈夫」
早い。
早すぎる。
その言い方が、さっき柚羽が言った“大丈夫”と同じだった。
盾の大丈夫。
透葉は逃げなかった。
腕を離さないまま、低い声で言った。
「……病院。明日じゃなくて、今日にしよう」
陽葵が笑おうとする。
笑いが遅れる。
その笑い方は、もう誤魔化しとかじゃなく、負けに近い。
「……透葉さん、急に」
「急じゃない。……何回も」
陽葵の目がほんの少しだけ曇る。
その目の奥に焦りがある。
焦りの奥に恐怖がいる。
沙良が静かに言った。
「……笹波さん、お願い。私、今の、全然笑えない」
“笑えない”が沙良の本音だった。
輪の中で“笑い”を演じてきた人が、“笑えない”と言う。
それはかなりの決意だ。
柚羽も小さく言う。
「……先輩……お願いします……」
陽葵はしばらく黙っていた。
黙って、息を吸って、吐いて。
吐いた息が少しだけ震える。
「……わかった」
その一言が透葉の胸の奥を少しだけ温めた。
同時に冷たい波も来る。
病院に行くということは、結果を見せられるということ。
陽葵が一番怖がっているものだ。
透葉は腕を離して、代わりに言葉を渡した。
「……私が一緒に行く」
陽葵が透葉を見る。
目が揺れる。揺れて、少しだけ柔らかくなる。
「……うん」
その“うん”は、鎧の下から出た声だった。
四人は駅の方へ向かって歩き出した。
今日はカラオケじゃない。
ショッピングセンターでもない。
“遊び”の道じゃない。
でも、透葉は思った。
日常は遊びだけじゃない。
病院へ行く道も、誰かの腕を支える道も、日常になり得る。
日常にしてしまえば、怖さが少しだけ薄くなる。
そして——
怖さが薄くなった分だけ、余計に、胸が痛む。
陽葵の歩幅はさっきより少しだけ慎重だった。
なのに、背筋はまだ正しい。
それはもう陽葵の癖だ。
癖はそう簡単に捨てられない。
透葉はその横顔を見ながら、心の中でだけ、そっと言った。
(お願いだから、結果より先に、生きて)
駅へ向かう道はいつもの帰り道と同じだった。
同じはずなのに、空気の硬さが違う。信号待ちの時間が長く感じる。自販機の灯りがやけに眩しい。
眩しいほど、見たくないものが浮き上がる。
陽葵は歩幅を小さくしていた。
正しさを崩したら負けるみたいに、顎が少し上がっている。
沙良が妙に落ち着いた声で言った。
「……病院、どこ。内科? 整形? 脳神経内科ってやつ?」
言い方が“情報通”っぽくて、逆に怖い。
透葉は即座にツッコむ。
「沙良、情報が多い」
沙良が口を尖らせる。
「違うよ、私、ちゃんと調べる係になろうと思って」
陽葵が小さく苦笑した。
「朝比奈さん、頼もしいけど、今はちょっと心臓に悪い」
「ごめん……」
その謝り方は昔の輪のそれじゃなくて、本当に謝っている声だった。
透葉はそれがなぜか嬉しかった。型で謝るのが上手い人ほど、ちゃんと謝るのが下手だ。沙良は今、ちゃんと下手なまま謝っていた。
柚羽は三人の少し後ろを歩いていた。
後ろというより、横に並ぶ勇気を溜めている距離。
手には小さな袋——飴が入っている袋を握っている。握りしめすぎて、カサカサ鳴る。
透葉が振り返ると、柚羽はびくっとして、小さく言った。
「……先輩、飴……」
「今?」
「……今です」
柚羽の語気が妙に強くて、透葉は一瞬笑った。
「ありがと」
飴を口に入れると、甘さが舌の奥に広がった。
甘さは現実的で、少しだけ気持ちが落ち着く。
透葉は陽葵にも差し出した。
「……いる?」
陽葵は一瞬迷って、受け取った。
口に入れて、噛まずに転がす。
それだけで陽葵の硬さが少しだけ緩むのが見えた。
「……甘い」
「甘いね」
沙良が咳払いするみたいに言った。
「……私も、飴ほしいなぁ」
透葉は即答する。
「さっきもらったの、もうないの?」
「ない」
「パン潰すだけじゃ飽き足りないか」
沙良が笑って柚羽が慌てて袋を差し出した。
「……どうぞ……」
「ありがとう」
沙良は受け取って、飴を口に入れた。
その瞬間だけ、沙良の目がふっと柔らかくなる。
透葉は思った。守るってこういう小さなことだ。大きな言葉じゃない。
駅前の小さなクリニックは、ガラス張りの入口が白く光っていた。
“内科・神経内科”の文字。
陽葵は看板を見た瞬間、足がほんの少しだけ止まる。
止まって、また歩き出す。
息は浅い。
受付の前に立つと、制服姿の四人は目立った。
大人の患者の視線が一瞬だけこちらに向いて、すぐに逸れる。
それが優しさなのか、無関心なのか、透葉には判断できなかった。
沙良が先に受付へ行ってしまいそうになって、透葉が袖を掴んだ。
「今日は沙良じゃないでしょ」
「え、でも」
「……主役を奪うな」
沙良が小さく「はい」と言って引っ込む。
その仕草が素直で、透葉はまた妙に胸が温かくなった。
陽葵が受付にきちんとした声で症状を説明する。
ふらつき、つまずき、疲れやすさ。
言葉は整っているのに、途中で一瞬だけ詰まる。
詰まった瞬間、陽葵の鎧の下の不安が透葉の胸に刺さった。
受付の人が問診票を渡して言った。
「保護者の方は……?」
その一言で、空気が少し変わった。
陽葵の顔が硬くなる。なのに、笑おうとする。
透葉はその笑い方が嫌だった。
陽葵が小さく言った。
「……今日は、いません」
受付の人は淡々と頷き、
「診察はできますが、検査内容によっては改めて……」
そう説明した。
改めて。
それは、陽葵が一番怖がっている言葉のひとつに見えた。
“今すぐ終わらない”。“先送りできない”。“現実が続く”。
待合室。
テレビが小さな音で流れている。天気予報。
明日の降水確率が流れるだけなのに、透葉にはそれが救いだった。世界が普通に回っている。
陽葵はソファに座り、膝の上で指を組んだ。
指が白い。
透葉は柚羽の白さも、沙良の白さも思い出した。
白は耐える人の色だ。
透葉はわざと雑に言った。
「……陽葵、今、逃げたら引っ叩くから」
沙良が即ツッコむ。
「暴力はアウトでしょ」
透葉は無表情で返す。
「……比喩だから」
柚羽が真面目に言う。
「……比喩でも……痛いです……」
透葉は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、代わりに、手、握るから」
陽葵が透葉を見る。
目が揺れて、次に少しだけ笑う。
鎧の中の笑いじゃなくて、少しだけ本音に近い笑い。
「それ、脅しじゃない?」
「……優しい脅し」
沙良が肩を落として言う。
「新ジャンルやめて」
柚羽が小さく笑った。
笑いが出た瞬間、透葉の肩の力が少し抜ける。
テンポを戻す。こうやって戻す。戻せるだけで、まだやれる。
名前を呼ばれて、陽葵は立ち上がった。
一瞬、透葉も立ち上がりかけたが、受付の人に「お一人で」と目で制される。
陽葵は振り返って、ほんの小さく頷いた。
大丈夫、の代わりの頷き。
診察室の扉が閉まる。
閉まる音が、準備室の鍵の音に似ていた。
でもここは守るための鍵じゃなくて、現実に入るための鍵だ。
待っている間、透葉は何もしていないのに疲れた。
沙良は落ち着かない手つきで自販機の紙コップをいじって、柚羽は飴の袋を膝の上で整え直している。
その動きが柚羽の“落ち着き方”になっているのがわかった。
不意に沙良が小声で言った。
「……ねえ、私たち、ちゃんと一緒に来てよかったよね」
透葉は即答した。
「当たり前」
柚羽も頷く。
「……はい」
その二つの即答に、沙良の口元が少しだけ緩んだ。
やがて、陽葵が戻ってきた。
その顔は泣いてはいない。
でも、目の奥が少しだけ遠い。
何かを聞いた目だ。
透葉は立ち上がって、陽葵の腕をそっと掴んだ。
掴んで、確かめる。ここにいる。倒れてない。今は。
陽葵は小さく言った。
「……今日、軽い検査して、また来てって。……あと、家の人と一緒にって」
“また来る”。
“家の人と”。
言葉は短いのに重さがある。
透葉は言葉を選ばず言った。
「……行く」
陽葵が目を丸くする。
「え」
透葉は続けた。
「また来るのも、家の人の件も。……一緒に考える。もう逃げない」
沙良が小さく息を吐いた。
「……透葉、今日めっちゃ主人公じゃん」
透葉は無表情で返す。
「今さら気づいたの?」
柚羽が真面目に頷いてしまう。
「……はい……先輩は、元から主人公です……」
沙良が吹き出して、陽葵が少しだけ笑った。
笑いが出た。
それだけで、透葉は胸の奥が少しだけ救われる。
笑えるなら、まだ壊れていない。
クリニックを出ると、空はもう暗くなっていた。
駅前のネオンが眩しい。
でも、四人の足元だけは静かだった。
帰り道、陽葵はぽつりと呟いた。
「……私、怖い」
透葉はすぐに返事ができなかった。
怖いと言われると、胸の奥がぎゅっとなる。
でも、それだけで終わらせたくなかった。
透葉は少しだけゆっくり言った。
「……そう言えるの、偉いよ」
陽葵が小さく笑う。笑い方は弱い。
それでも笑えている。
沙良が真顔で言う。
「褒め方それで合ってる? 教育的配慮足りてる?」
透葉は即座にツッコむ。
「今ここで教育を語るな」
柚羽が小さく言う。
「……でも、もっと褒めていいと思います……」
その会話が、今日の帰り道の日常になった。
病院帰りの道も日常の道になり得る。
透葉はそれを少しだけ信じたかった。
駅の改札で別れるとき、陽葵が透葉の袖を軽く掴んだ。
「……明日、学校……」
透葉は頷いた。
「行くよ。旧校舎にもね。守るから」
陽葵はほんの少しだけ安心した顔をして、手を離した。
帰宅して、玄関の鍵を閉めた瞬間。
透葉のスマホが震えた。
柚羽からの短いメッセージ。
『学校を出るとき、生活指導の先生が、旧校舎のほう見てました……』
透葉は画面の文字を見つめた。
胸の奥が冷える。
来た。気配が近づいている。
匂いを嗅ぎつける種類の正しさが。
透葉はスマホを握りしめて、息を吐いた。
吐いて、心の中でだけ言う。
(守るって言ったんだろ)
言ったなら、やるしかない。
波は、もう引いてくれない。




