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24 パンの心配

 旧校舎の「美術資料室」は、最初から“拠点”として用意されていたみたいに、妙にしっくりきた。

 でもそれが逆に怖い、と透葉は思う。居場所はしっくりきた瞬間に狙われる。学院はそういうところがある。整った場所ほど異物を弾くのが上手い。

 でも、昼休みのチャイムが鳴って四人が同じ方向へ歩き出すとき、胸の奥が少しだけ軽くなるのも事実だった。


 廊下の光が薄くなり、床の艶が消えていく。

 呼吸が戻る。

 旧校舎へ入るたび、透葉は自分の肺が“本来の形”に戻る気がした。

 扉を開けると、紙の匂いと乾いた絵具の匂いが迎える。

 匂いは、言葉より先に「おかえり」を言ってくる。

「今日、足音少なかったね」

 陽葵がさも当然みたいに言う。

 声がここでは少しだけ柔らかい。部活のときの声より、ずっと。

 沙良が椅子を出しながら笑った。

「旧校舎って、みんな怖がるんだよ。噂があるから」

 柚羽が小さく首を傾げる。

「……噂……?」

 沙良は一瞬だけ言葉に詰まった。

 噂を言うと、そこに“輪”が入り込む。輪の言葉がこの部屋に染みる。沙良はそれを避けたがっている。

 代わりに透葉が雑に言った。

「……幽霊とか?」

 沙良が吹き出した。

「そう、それ! “夜中に誰かの声がする”とか」

 陽葵が真面目な顔で言う。

「透葉さん、夜中にここ来ないでね」

「来ないし」

 即答したのに、陽葵がじっと見てくるから、透葉は付け足した。

「……たぶん」

 陽葵がため息のふりをする。

「その“たぶん”が一番怖い」

 柚羽が小さく笑って、弁当箱を机に置いた。

 その動作がもう“儀式”になっている。弁当箱を置く、蓋を開ける、箸を持つ。

 誰も見てないところで、ちゃんと自分の手で日常を繋ぐ。

 沙良は今日も弁当を忘れてきかけて、途中で買ったパンを握りしめていた。

 握りしめている袋が少しくしゃくしゃで、透葉はなぜか安心した。

 完璧な人が”くしゃくしゃの袋”を持っているのは、生活の証拠だ。

「……朝比奈さん、パン潰れてます」

 柚羽が心配そうに言うと、沙良が笑った。

「大丈夫。私の胃、頑丈だから」

 透葉が即座に突っ込む。

「胃じゃなくてパンの心配だから」

 沙良がくすっと笑って肩を落とした。

「……そういうツッコミ、久しぶり」

 その一言に、透葉は胸の奥が少し痛んだ。

 輪の中での会話は、気軽なツッコミに似せた“訂正”だ。正しさを押しつける訂正。

 ここでのツッコミは相手を壊さない程度の針だ。少し刺すけど、血を出さない心地良い針。

 柚羽が飴を一つ机の端に置いた。

 “置く”が柚羽の居場所の作り方になっている。

 陽葵がそれを見て、少しだけ笑う。

「真壁さん、今日もお供え物」

 柚羽が慌てて否定しようとして、言い方が見つからず、顔だけ赤くなる。

 透葉が助け舟のつもりで言う。

「柚羽……神棚扱いは私だけでいいよ」

 陽葵が即答する。

「透葉さんは神棚じゃなくて、ただの面倒くさい人だから」

 透葉は無表情で返す。

「また誉められた」

 沙良が声を立てない笑いを漏らした。

 その笑いが資料室の匂いに混ざる。

 匂いが少しだけ“新しく”なる。


 昼休みは短い。

 でも今日の四人は話した。

 話す内容はくだらない。

 沙良が「カラオケの履歴って残るんだよね。あとで死にたくなる」と言い、

 陽葵が「死ぬとか言わない」と真顔で返し、

 透葉が「ここ”出る”んでしょ。幽霊」と適当を言い、

 柚羽が「……出たらどうします……」と本気で心配して、

 沙良が「怖がってる真壁さん可愛い」と言って、

 柚羽が顔を真っ赤にして箸を落としかける。

 そういう、どうでもいい波。

 どうでもいい波が透葉にはいちばん大事だった。

 ドラマはいつでも来る。勝手に来る。

 日常は作らないと来ない。


 チャイムが鳴る。

 四人は資料室を出て、旧校舎の階段を下りる。

 階段が軋む音が、今日もいつもの音になる。

 それが嬉しい。

 ——嬉しい、はずだった。


 午後の授業に戻る廊下で視線が刺さった。

 四人で歩いていること自体が、もう“目立つ”。

 誰も直接言わない。

 圧だけが増える。

 柚羽の肩が少し縮む。

 沙良の口元が笑いの形を作りかける。

 陽葵は背筋を正しすぎて、逆に痛々しい。

 透葉はここで“何も起きないこと”を祈った。

 祈った瞬間に、祈りが破れる。


 すれ違いざま、誰かが柚羽の肩にわざとぶつかった。

 小さな衝撃。

 柚羽がよろける。

 弁当箱を入れた袋が床に落ちる。

 カタン、と乾いた音がした。

「ごめん、見えなかった」

 ぶつかった女子は笑っていなかった。

 それが逆に怖い。

 “事故”の顔をしている。正しさを装った顔。

 柚羽が反射で言う。

「……だ、大丈夫です……」

 その言葉が出た瞬間、透葉の胸が熱くなった。

 大丈夫じゃない。

 大丈夫って言わせたくない。

 ぶつかった女子の後ろから別の声が乗る。

「真壁ってさ、いつも大丈夫だよね。ほんと都合いい」

 その一言が柚羽の背中を折りに来る。

 言った本人は軽い。

 柚羽は袋を拾おうとして、手が止まった。

 止まって、指先が震える。

 震えて、唇が動いた。

 ——今日は、“大丈夫”が続かなかった。

 柚羽が細い声で言った。

「……都合よく、ないです」

 声は小さい。

 小さいのに、確かに届く種類の声。

 廊下の空気が一瞬だけ止まった。

 止まって、次に誰かが笑った。

「え、反抗?」

 その笑いは刃だった。

 柚羽の必死な言葉を“面白い”に変えて殺す笑い。

 柚羽の目が揺れる。

 揺れて、涙が出そうになる。

 出そうになるけど、出さない。

 その代わりに、柚羽の呼吸が浅くなる。

 透葉はここで自分が何を言えばいいか、わかっていた。

 わかっているのに、言葉が喉で固まる。

 言い返したら相手の舞台になる。

 そうなれば、柚羽はさらに晒される。

 透葉が固まる前に、沙良が一歩前に出た。

「ぶつかったの、そっちだよね」

 沙良の声は輪の中で鍛えられた“きれいな声”だった。

 きれいな声は正しく聞こえる。

 だから強い。

 ぶつかった女子が沙良を見る。

 その目に苛立ちが混ざる。

 “切ったはずの人間が口を出すな”という苛立ち。

「関係ないじゃん」

 沙良は笑わない。

 笑わずに、言い方だけを整える。

「関係ある。……私たち、同じ学校の生徒だし」

 正しい言葉。逃げ場のない正しさ。

 相手は一瞬だけ黙った。

 黙ったあと、肩をすくめて去っていく。

 負けた顔をしないで。負けを“無かったこと”にする歩き方で。

 残ったのは、柚羽の袋と、浅い呼吸と、刺さる視線だけだった。

 柚羽が袋を拾おうとして、また手が止まる。

 透葉はその手元にしゃがみ込んで、袋を拾い上げた。

 拾って、柚羽の手に戻す。

 そのとき、透葉の指が柚羽の指に触れる。冷たい。

「……柚羽」

 名前を呼ぶと、柚羽がびくりとした。

 さっきの衝撃の残りだ。

 透葉は声を落として言った。

「今の、偉い。よく言えた」

 柚羽の目が揺れる。

 揺れて、やっと息が少しだけ戻る。

「……怖かったです……」

 透葉は頷く。

「……うん。怖いね」

 陽葵が柚羽の反対側に立って、短く言った。

 「でも、もう逃げなくていい。……私たち、ここにいる」

 その言葉が、柚羽の肩を少しだけ戻した。

 沙良が視線を廊下の先へ投げながら、小さく言う。

「……これ、私のせいにされるやつだ」

 透葉は即答した。

「されるね。間違いなく」

 陽葵が苦笑して言う。

「透葉さん、即答しないで」

 透葉は無表情で返す。

「……事実だから」

 沙良がほんの少しだけ笑った。

 その笑いはどこか苦い。

 でも、どうにか笑えている。

 それが、いまの沙良にとっての“息”だ。


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