23 天使枠だから
翌朝、透葉は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
胸の奥に昨日の夜の空気が残っている。カラオケの薄暗い照明、氷の音、沙良の“呼吸”という言葉。
同時に学校の匂いも思い出す。磨かれすぎた廊下、刺すような視線、貼り紙の文字。
温度差で心がきしむ。
顔を洗って鏡を見る。
薄い色の髪。ピアス。
自分の輪郭が今日も“学院にとっての異物”であることを確かめるみたいで嫌だった。
でも、嫌なのに少しだけ安心もする。
異物でいると、輪の中に戻らなくて済む。それが、今の透葉を守っている。
登校して、教室へ向かう廊下。
昨日より視線が増えていた。
声は小さい。
完成に近い噂の形を示している。
「朝比奈先輩、やばいらしいよ」
「昨日、誰かと歩いてたよね」
「笹波先輩と彩瀬先輩? あと真壁さんも」
「やっぱあの部屋、問題になったんだって」
透葉はその言葉の組み合わせに眉をひそめた。
事実と憶測と偏見がすぐ隣に並ぶ。
並べるだけで真実みたいになる。
教室に入ると、席の近くで会話が途切れた。
透葉が“触れたら面倒”な存在だからだ。
透葉はその空気に慣れたふりをして、椅子に座った。
ノートを開く。
何も書けない。手が止まる。
チャイムが鳴る。
一時間目、二時間目。
授業の内容は頭に入らない。時間だけが進む。
早く昼休みになってほしかった。
昼休みは息ができる時間だから。
でも今日はその場所がない。昨日からそれが怖かった。
昼休みのチャイム。
透葉は教室を出て、廊下の角へ向かった。
陽葵が待っていた。
今日の陽葵は顔色が少しだけ悪い。なのに、背筋は正しく伸びている。
今はそれが少し痛々しい。
「おはよ、透葉さん」
「おはよ」
透葉は陽葵の足元を一瞬見た。
揺れはない。
安心しすぎないように、自分に言い聞かせる。
柚羽は少し遅れて来た。
今日は目の下が薄く青い。
寝不足だ。準備室の貼り紙と落書きが、まだ夢の中まで追いかけているのだと思った。
そして——
沙良は、さらに遅れて現れた。
遅れて現れたのに、走りはしない。
歩幅は一定。姿勢は整っている。
なのに顔色がやけに白い。
白い顔で“いつも通り”を着ている。
沙良が三人の前に立って、薄く笑った。
「……おはよ。来た」
その一言が沙良の宣戦布告に思えた。
来た、と言えるだけで今日は勝ちなのかもしれない。
陽葵が頷く。
「うん。……来てくれてありがとう」
沙良の目が一瞬だけ揺れる。
ありがとう、と言われたことに慣れていない。
輪の中でのありがとうは“役割”へのありがとうで、存在そのものへのありがとうじゃない。
透葉は少しだけ雑に言った。
「……とりあえず、移動」
柚羽が頷く。
「……はい」
四人で廊下を歩き出す。
歩き出した瞬間、空気が変わった。
視線が増える。
刺す視線と避ける視線が混ざる。
空気が濁る。
図書室へ向かう途中で陽葵が立ち止まった。
「今日は、図書室やめよ」
透葉が眉を寄せる。
「なんで」
陽葵が視線を斜めに投げる。
廊下の先、図書室の入口付近に、昨日の同級生たちが数人立っていた。
立って、何気ない顔でこちらを見ている。
“来るなら来い”って顔。
静かな場所での監視は昨日だけで十分だった。
沙良が小さく笑った。
「……私、追いかけられてる」
笑いは薄く、言葉は重い。
沙良はすでにグループから“公式に”切られている。
切られた瞬間から追いかけられる。輪の外に出た人間を、輪の正しさで罰するために。
透葉は喉が痛くなった。
助けてと言えない沙良。
沙良の呼吸はまだ、輪の中にいたときのままだ。
陽葵が静かに言った。
「じゃあ、別の場所」
柚羽が小さく手を挙げるみたいに指を動かした。
「……空き教室……とか……」
透葉は首を傾げる。
「いいと思う。でも鍵が、ね」
柚羽が俯く。
「……ですよね……」
そこで沙良がぽつりと言った。
「旧校舎……知ってる?」
陽葵が沙良を見る。
「旧校舎?」
沙良は頷く。
目が少しだけ不安そうだ。
それは、“そこに行く自分”が輪の中でどう扱われるかを知っているからだ。
旧校舎は学院の“見えない場所”。そういう場所に行く人間は、見なくていい人間として扱われる。
沙良は声を落として続ける。
「……美術室の倉庫みたいなとこ。前に一回、掃除当番で入ったことあるんだ。……紙と絵具っぽい匂いがする」
紙っぽい。絵具っぽい。
透葉の胸が少しだけ温かくなる。
準備室の匂いに似た場所。
陽葵が頷いた。
「行こう」
透葉は即座に言った。
「案内して」
沙良が小さく頷く。
「……うん」
四人は旧校舎へ向かった。
廊下の床の艶が少しずつ消えていく。
磨かれた光が薄くなる。
薄くなるほど、空気が静かになる。
静かになるほど、息が深くなる。
旧校舎の階段は少しだけ軋んだ。
その音が誰かに見つかる合図みたいで、沙良が一瞬肩を震わせた。
透葉はそれを見て、言葉にせずに歩幅を合わせた。
合わせるだけで沙良の呼吸が少しだけ戻るのがわかった。
廊下の窓は曇っている。
古い木枠。
日の光が弱く、埃が浮いて見える。
この場所は学院の整然から外れている。
その分、少しだけ優しい。
沙良が小さな扉の前で止まった。
扉は金属製で少し錆びている。
上に「美術資料室」と書かれた札がかかっていた。文字が擦れている。
沙良がノブに手をかけて、少しだけ躊躇した。
許されるかどうかを確かめる手。
陽葵が沙良の手元を見て言った。
「開けて大丈夫。私たち、ここに息しに来ただけ」
沙良が小さく頷いて、ノブを回した。
ギ、と鈍い音。
扉が開く。
匂いがゆっくり流れてくる。
紙。木。乾いた絵具。
懐かしい匂い。
準備室の匂いより少しだけ古い。
でも、同じ系統の匂い。
透葉は胸の奥がじんとした。
匂いがある。
ここは“空っぽ”じゃない。
室内は狭い。
棚に古い画材や紙束、使われていないキャンバスが積まれている。
床には段ボール。
奥に小さな机と、折り畳み椅子が四脚。
誰かが忘れたままの場所。
忘れられた場所は、誰かの隠れ家になる。
柚羽が息を吸って言った。
「……ここ、好きです……」
声が震えている。
安堵の震え。
陽葵が笑う。
「よかった。……戻ったね」
透葉はすぐ突っ込む。
「その言い方だと、漂流物みたいだね。私たち」
沙良が思わず笑った。
昨日のカラオケより自然だった。
その事実に沙良自身が少し驚いた顔をする。
陽葵がそれを見て、穏やかに言った。
「笑っていいよ。……ここは、輪の外だから」
沙良の笑いが少しだけ長く続いた。
続いて、ふっと切れる。
沙良は目を伏せて言った。
「……輪の外、怖いと思ってた。……でも、なんか息、できてる」
透葉は言葉に詰まった。
息できてる。
透葉がずっと欲しかった言葉だ。
四人は椅子を出して座った。
狭いから、自然と距離が近い。
ここではその近さが怖くない。
視線が外から入ってこないからだ。
柚羽が弁当箱を開けた。
今日は手が震えていない。
それが透葉の胸を温める。
沙良は弁当を持ってきていなかった。
沙良は気づいて、少しだけ困った顔をする。
困った顔をして、それを笑いで誤魔化そうとする。
「……忘れた。ほんとダメだな、私」
透葉は即座に言った。
「ダメじゃない。あいつらのせいで脳みそ疲れてるんだよ」
沙良が目を丸くする。
陽葵が透葉の言い方に笑いながら補う。
「うん。疲れてると、忘れっぽくなるからね……透葉さんもよく忘れるし」
透葉は無表情で返す。
「私は元から」
柚羽が小さく笑って、鞄の中を探った。
そして、小さな袋を差し出す。
「……これ、よかったら。……飴です」
沙良が固まる。
固まって、次に恐る恐る受け取る。
「……いいの?」
柚羽が頷く。
「……はい。……一個でも、違うと思います」
「……ありがとう。いただきます」
沙良は飴の包みを開けて口に入れた。
噛まずに、舌の上で転がす。
その動作がやけにゆっくりで、透葉はそこに好感を持った。いまの沙良は急いでいない。
沙良がぽつりと言った。
「……真壁さんって、優しいね」
柚羽が少し慌てる。
「……え……あの……普通です……」
透葉がすかさず言う。
「普通じゃない。……柚羽は天使枠だから」
柚羽が真っ赤になる。
「……ちが……っ」
陽葵が笑う。
「出た。透葉さんの無自覚ムーブ」
透葉は無表情で言う。
「は?……事実だし」
沙良がくすっと笑った。
それはもう輪の中での笑いじゃない。
生き残るための笑いではなくなった。
柚羽が小さく言った。
「……朝比奈さん……昨日……大丈夫でしたか……?」
沙良の表情が少しだけ揺れた。
大丈夫、という言葉に反射で盾を出そうとする。
でも、柚羽の声は優しすぎて、思うように盾が出にくい。
沙良はゆっくり首を振った。
「……大丈夫じゃなかった。……でも、昨日は……ちゃんと、息できた」
柚羽が頷く。
「……よかったです……」
その言葉が透葉の胸を温めた。
四人目を迎える言葉が、ちゃんと日常の言葉で出ている。
ところが、そのとき——
廊下の遠くで足音がした。
旧校舎の足音はよく響く。
響く音は見つかる予感に変わる。
沙良が一瞬、息を止めた。
止めて、肩が硬くなる。
柚羽の箸が止まる。
陽葵は目を細めて、扉の方へ視線を向けた。
透葉は胸の奥が次第に冷えるのを感じた。
ここも、いつか嗅ぎつけられる。
居場所はいずれ見つかる。
見つかったら、また汚される。
でも——
透葉はここで逃げるつもりはなかった。
逃げれば、ここもまた“仮の場所”になってしまう。
仮の場所だと、柚羽も沙良も息が浅くなる。
陽葵が低い声で言った。
「……大丈夫。ここ、まだ知られてないから」
透葉は小さく頷いた。
足音は近づいて、そして遠ざかった。
ただ通り過ぎただけ。
それだけなのに、全員の呼吸が浅くなっていた。
沙良がぽつりと言った。
「……私……ここ、守りたい」
透葉は胸の奥がじんとした。
守りたい、という言葉は居場所になった証だ。
輪の中ではそういうものがない。守るのはいつも“上の人”だから。
でも今、沙良は守りたいと言った。
柚羽が小さく頷く。
「……私も……」
陽葵が笑って言う。
「うん。じゃあ、守ろ。……四人で」
透葉は少しだけ遅れて言った。
「……守るよ」
言った瞬間、胸の奥が熱くなる。
でも正直、怖い。
守ると言った以上、壊れる瞬間を見届ける覚悟も必要になる。
透葉はその予感を、息を吸うみたいに飲み込んだ。




