22 一回だけでいい
放課後、陽葵は練習を控えめにした。
陽葵の中でまだ葛藤しているのがわかる。
でも笑っている。誤魔化すような笑い方が透葉には怖い。
帰り道、柚羽を家まで送る。
玄関まで見届ける。
扉が閉まる。
透葉の胸がまた冷える。
その帰り、駅前の交差点で、透葉は不意に視線を感じた。
昨日までの視線とは違う。もっと”近い”。
振り返ると、少し離れたところに沙良が立っていた。
一人。
輪の中の子たちはいない。
沙良は制服の袖を握りしめて立っている。形ばかりで、今にも崩れそうだ。
透葉の心臓が跳ねた。
陽葵も気づいて、足を止める。
三人の間に短い沈黙が落ちた。
沙良は透葉の方を見て、唇を動かした。
まだ声は届かない距離。
でも、形は読めた。
——「助けて」
透葉の胸が熱くなる。
足が重い。
怖いからじゃない。
助けるって言った瞬間に、自分がまた何かを背負うのがわかっているからだ。
陽葵が透葉の横で小さく言った。
「……行こ」
透葉は頷いた。
その瞬間、胸の奥で何かが決まる。決まった音がした気がした。
二人が沙良に近づくと、沙良は一歩下がった。
下がって、でも逃げない。
もう逃げる場所がない。
沙良は声を絞り出すように言った。
「……彩瀬、透葉……だよね」
名前を呼ぶ声が震えている。
震えながら、必死に笑おうとする。
その笑い方に胸が痛む。輪の中の笑い。生き残るための笑い。
透葉はできるだけ静かに言った。
「朝比奈さん」
沙良は小さく頷いた。
「……私、もう……戻れない。……どこにも」
陽葵が少しだけ前に出る。
「どこに行きたいの?」
沙良は一瞬言葉に詰まって、目を伏せた。
伏せた目から涙が落ちそうになる。
沙良は言った。
「……一回だけでいいから、……休みたい」
休みたい。
胸がじんとした。
そういう場所がないから言葉に出る。
そんな当たり前の言葉が、こんなに切実になる世界が嫌だった。
透葉は言葉を選んで、短く言った。
「……じゃあ、私たちのとこに来る?」
沙良の目が見開かれる。
驚きと、怖さと、少しの希望が混ざった目。
陽葵が静かに頷いた。
「うん。……来て」
沙良はその場に崩れるみたいに肩を落とした。
肩を落として、息を吐く。
吐いた息が震えている。
透葉はその震えが“生き延びた”震えだと感じた。
空が少しだけ暗くなっていた。
駅前の光が眩しい。
眩しい光の中で、四人目の影が透葉たちの横に並び始める。
まだ完全には重ならない。
けれど、もう離れない気がした。
駅前の交差点は夕方の光で少しだけ眩しかった。
車のライトが点き始めて、舗道の白線がぼんやり浮き上がる。
日が落ちる手前の時間はいつも中途半端だ。帰るでもなく、どこかへ行くでもなく、ただ立っているだけで“行き場のなさ”がはっきり見える。
透葉の横で沙良はまだ制服の袖を握りしめていた。
握りしめる指先が白い。
白い指先は柚羽のものとよく似ている。
違うのは、沙良のは輪の型に固まっていることだ。笑わないと輪の中で死ぬ。笑わないと空気に殺される。そういう白さ。
陽葵がいつもの声より少しだけ落ち着いた声で言った。
「歩きながらでいい?」
沙良は一瞬だけ頷きかけて、止めた。
止めて、透葉と陽葵を見た。
目が揺れる。揺れの中に、“本当にいいの?”が混じっている。でも口では言えない。言った瞬間に、好意が条件付きに見えるのが怖いのだと思った。
透葉は短く言った。
「……行こ。ここ、落ち着かないから」
沙良がふっと笑いかけて、曖昧な表情のまま頷いた。
四人。
透葉の中で、今までの三人の輪が固い。
そこに沙良が入ってくると、輪の形が変わる。変化は怖い。でも変わらないと誰かが折れる。
陽葵が先に歩き出す。
透葉がそれに合わせる。
沙良は一拍遅れてついてくる。
その一拍が、沙良の慎重さで、恐れで、頼り下手なところだ。
「どこ、行くの」
沙良が小さく言った。
声が細い。細く強がっている。
陽葵は少し考えてから答えた。
「今日は……静かなとこ。人が多いと疲れるでしょ」
沙良のまつ毛が揺れた。
そう言われることが、たぶん沙良にもなかった。輪の中では、疲れるのはすべて“自己責任”になる。疲れていると口にした瞬間に、“空気読めないやつ”になる。
透葉は言葉を足した。
「……うちは無理。散らかってる」
陽葵がすぐに突っ込む。
「片付いてればいいの?」
透葉は無表情で返す。
「……まぁ」
沙良がほんの少しだけ笑った。
笑って、すぐに喉を引きつらせる。
体が自然な笑い方を覚えているけれど、笑っていい条件が分からない人の反応。
陽葵を先頭に歩道の角を曲がって、少しだけ裏道に入った。
駅前の喧騒が遠のく。
それと同時に、頭の中の噂の声も少しだけ薄くなる。
しばらく歩いたところに小さな公園がある。
遊具は古い。ブランコの鎖が少し錆びている。
でもベンチがあって、木がある。
木陰がある場所は息ができる。
陽葵がベンチの前で止まった。
「ここでいい?」
沙良は一瞬、周囲を見回した。
人がいないか確認する仕草。
確認してから、そっと頷いた。
透葉はベンチに座る前に、地面を見た。
砂利。落ち葉。小さなゴミ。
生活の残り香みたいなものがある。
学院の廊下みたいに磨かれた場所じゃない。だから、少しだけ安心できる。
三人でベンチに座るも、距離が難しかった。
透葉と陽葵はいつも通り隣に座れる。柚羽はもう家に帰っている。
その空いた場所に沙良がいると、透葉の中の席順が揺れる。
陽葵は自然に、沙良と透葉の間に少しだけ空間を作った。
空間は壁じゃなく逃げ道。
逃げ道があることでお互いに安心して座れる。陽葵はそういうのが上手い。
沈黙が落ちる。
沈黙が長いと沙良が耐えられない気がして、透葉は咄嗟に言った。
「何があったの」
言ってしまってから、少し後悔した。
急すぎる。
でも、そうでもしないと、沙良は永遠に笑って誤魔化す気もした。
沙良は膝の上で指を絡めた。
絡めた指が白い。
息を吸って、吐く。
吐くとき、笑いが混ざりそうになる。
「……別に、大したことじゃない」
盾。
柚羽の“大丈夫”と同じ種類の盾。
透葉は胸の奥が苦しくなった。
陽葵が柔らかい声で言う。
「大したことじゃないなら、泣きそうな顔にならないよ」
沙良の口元がぴくりと動いた。
笑いかけた痕。
でも、笑えなかった。
沙良は俯いて、短く言った。
「……告げ口、された」
透葉の胸が冷えた。
“告げ口”。
輪の中の刃。最初に使う刃。責任を切り離す刃。
沙良は続けた。言葉が途切れ途切れになる。
「私が……上の子のこと、ちょっとだけ……“怖い”って言ったの。……冗談で。冗談のつもりで。……でも、冗談って、冗談にはならないんだよね」
最後の言葉が自分に刺さっている。
沙良は自分が昔“冗談”で人を刺した側だったことを知っている。だから今、苦しんでいる。
透葉も苦しい。
同じ種類の“冗談”を使ったことがあるから。
沙良は指を絡め直して、言った。
「で……誰かが、言ったの。私が言ったって。……言ったの、私だって。……それで、上の子が……“じゃあ沙良、責任取って”って」
責任。
責任という言葉は綺麗な刃だ。
おまけに、付いた血が見えにくい。
陽葵が眉を寄せる。
「何の責任?」
沙良は苦笑みたいに息を吐いた。
「……空気、悪くした責任」
空気。
透葉は吐き気がした。
空気を悪くしたかなんて測れない。測れないものはいくらでも押しつけられる。
沙良は続ける。
「それで……みんなの前で謝れって言われて……。謝った。……でも、謝っても、終わらないんだよね。謝ったら、次は“罰”が必要になる」
背中がぞくりとした。
罰は輪の維持装置だ。誰かを罰にかけて、他の誰かが安心する。その一時の安心のために、罰が必要になる。
沙良は声を少しだけ落として言った。
「……今日の図書室の件も、私のせいにされた」
透葉が息を止める。
図書室。
“静かにね”のあの笑い。
あれは、透葉たちを監視するためだけでなく、沙良を“切る”ための舞台でもあった。
沙良は言った。
「図書室に行くって言い出したの、私じゃないのに。……“沙良が勝手に行きたいって言ったから”って。……そう言えば、みんな納得するんだよ。沙良ってそういう子、ってことにしておけば」
“そういう子”。
ラベル。
ラベルを貼られると、本人の言葉は全部ラベルの中に押し込まれる。何を言っても、“そういう子だから”で終わる。
沙良は膝の上で指をほどいた。
ほどいて、掌を見た。
掌は赤い。爪が食い込んだ跡がある。
「……私、もともと、こういうの得意だったのに」
透葉にはその言葉がいちばん痛かった。
“得意だった”。
だから、輪の中で生きてこれた。
得意だったものに殺されるとき、人は一番孤独になる。
陽葵が静かに言う。
「でも、痛いものは痛い」
沙良は笑った。
今度の笑いは、はっきりと笑いじゃなかった。
泣きそうなのを押し戻すための反射。
「……痛いよ。……めちゃくちゃ痛い」
胸の奥がじわっと熱くなる。
沙良が痛いと言った。
“痛い”と言える場所が、今ここにできた。
陽葵が少しだけ前に身を乗り出した。
「朝比奈さん。……今日、家には帰れる?」
沙良は答える前に目を逸らした。
逸らした先には夕方の空。
空は薄い青から灰色に変わりかけている。
「……帰れる。……けど、帰りたくない」
透葉は言葉を選ばず言ってしまった。
「じゃあ、帰らなくていい」
言ってから、透葉は自分の言葉に少し驚いた。
言葉は軽くない。
でも躊躇いなく言えた。
それは透葉が、もう”独り”を肯定しなくなっている証拠かもしれなかった。
陽葵が透葉を見る。
咎める目じゃない。確認するときの目。
透葉は頷いた。頷くことで自分の言葉を自分で背負った。
陽葵が言う。
「今日は……透葉さんの“散らかってる家”でいい?」
透葉は即答する。
「だからダメだって」
陽葵が笑う。
「じゃあ、私の家——も難しいか」
陽葵の家は過保護。今の陽葵には帰るだけで精一杯だろう。
透葉はそれを口にせずに、別の案を出した。
「カラオケ」
沙良が目を丸くする。
「え、今から?」
透葉は無表情で言う。
「個室なら声、出せるでしょ。……泣いてもバレないし」
陽葵が小さく頷く。
「いいね。飲み物もあって、落ち着ける」
沙良はしばらく黙ってから、ほんの小さく笑った。
「それ、すごい現実的」
透葉は短く返す。
「決まり」
「……なんか、生きてる気がしてきた」
その言葉が透葉の胸に少しだけ引っかかった。
“生きてる”。
今はまだ、ただの言葉だ。
でも、いずれこの言葉が別の意味を持つ日が来る。透葉はその予感を、まだ名前のないまま抱えていた。
カラオケ店は駅前のビルの上階にあった。
エレベーターの鏡に三人の姿が映る。
映るのは三人。
まだ三人。
二人の横に沙良が映る。
その輪郭がゆっくりと重なっていく。
受付で陽葵が手際よく手続きをする。
こういう場面で陽葵は強い。沙良が少しだけ安心した顔をする。
透葉はその顔が見えて、胸の奥に温度が戻るのを感じた。
部屋に入ると、薄暗い照明と柔らかなソファが迎えた。
扉を閉める音が外界を切り離す合図になる。
この音は準備室の鍵の音と似ている。
今日は追い出されない。
飲み物が届くまでの間、沙良はソファに座ったまま動かなかった。
肩が少しずつ落ちていく。緊張がほどけている証拠。
陽葵がデンモクを手に取って、曲一覧を出した。
透葉はそれを見て、思わず言う。
「歌うの?」
陽葵が笑う。
「歌わなくてもいい。……でも、歌うと呼吸が軽くなるよ」
沙良が小さく呟く。
「呼吸……」
透葉は沙良のその一言が好きになった。
沙良は今、“生きる”話をしている。生きるための呼吸の話。
輪の中では呼吸なんて意識しない。意識した瞬間に弱者に落とされる。
でも今は呼吸こそが必要だ。
陽葵がマイクを一本沙良の前に置いた。押しつけない置き方。
沙良は見つめて、首を振った。
「……私、歌えない」
陽葵が頷く。
「うん。歌わなくていい。……ただ、ここにいて」
透葉はその言葉が胸に刺さった。
昔、誰かにそう言ってほしかった。
透葉は輪の中にいた。
中にいれば、いていい理由がもらえる気がしたから。
沙良が不意に言った。
「……透葉。……私さ」
透葉は「うん」とだけ返した。
陽葵も頷いた。
沙良はゆっくり言う。
「……あの部屋、まだ行ってるの?」
準備室。
沙良はもう知っている。噂は回っている。
透葉は一瞬、言葉に詰まった。
陽葵が先に答えた。
「今日、禁止になったよ」
沙良の目が揺れた。
揺れの中に罪悪感が混じる。
自分のせいだという目だ。自分が図書室に連れて行かれたせいで、騒ぎが大きくなったと思ってしまっている。
透葉は沙良の目を見て言った。
「沙良のせいじゃない」
沙良が小さく笑う。
「……わかってる。そう言われるの、久しぶり」
その言葉で透葉の胸の奥がじんと痛んだ。
“久しぶり”。
沙良はずっと、そうでない世界にいた。
そして透葉も同じだった。
飲み物が届いた。
氷の音がカラン、と鳴る。
その小さな音が部屋の空気を少しだけ日常に戻す。
陽葵がストローを差しながら言った。
「明日から、居場所を作り直そう。……準備室じゃなくてもいいから」
透葉は頷いた。
「……匂いの上書きね」
陽葵が笑う。
「透葉さん、言い方」
沙良が小さく笑った。
今度は少しだけ本物に近い。
透葉は思う。
三人から四人。四人目は突然増えるんじゃない。
こうやって息を吐ける場所に座ることで、じわじわ輪郭が重なっていく。
でも同時に、輪が広がるだけ、波も大きくなる。
噂はもっと回る。
視線はもっと刺さる。
正しい顔はもっと勢いを増す。
それでも——
今夜だけはそのことを考えないようにした。
氷の音と、柔らかいソファと、沙良の呼吸だけを覚えておきたかった。
明日のために。
明日も息をするために。




