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21 コントラストってやつ

 翌日、昼休みのチャイムが鳴る少し前から透葉は落ち着かなかった。

 顔には出したくない。廊下の視線が“ほらね”って笑う気がする。

 だから、ノートの端に意味のない線を引いた。作業に集中すれば、少しだけ息ができる。


 チャイム。

 透葉は鞄を持って教室を出た。

 廊下に出た瞬間、視線が滑ってくる。昨日までより確実に増えている。でも誰もこちらを見ていないふりをする。

 そういうふりがいちばん腹が立つ。


 角で陽葵が待っていた。

 目元は硬い。でも出てきた声は案外軽かった。

「行こ」

「うん」

 二人で準備室へ向かう。

 途中、以前柚羽が隠れていた場所——非常階段の踊り場のところで柚羽と合流した。

 今日は柚羽の足取りが少しだけ重い。でも止まらない。それが今の柚羽の強さだった。


 三人で準備室の扉の前に立つ。

 陽葵が鍵を回そうとして、止まった。

 扉の中央に紙が貼られていた。

 白い紙。印刷された文字。

 見慣れたフォントの、見慣れた言い回し。


『美術準備室の使用について:許可のない入室を禁ずる。違反した場合は指導の対象とする』


 頭が痛くなる。

 予感が現実になった。

 “今だけ”が、“ずっと”になるやり方。学院はそうやって正しさを固定する。

 柚羽の顔が真っ白になった。

 目が紙から動かない。動くと崩れそうで、動かせない。

 陽葵が紙をじっと見て息を吐いた。

 怒りを抑え整えているときの息。

 陽葵は紙を剥がさなかった。剥がしたらこちらが悪くなる。剥がさず、相手の正しさを逆手に取る。


 陽葵が言った。

「図書室に行こ」

 柚羽が小さく首を振る。

「……でも……」

 透葉は反射で言う。

「でもじゃない。行くよ」

 言い方が強かった。

 柚羽がびくりとする。透葉は胸の奥で舌打ちする。優しくできない自分が嫌いだ。

 でも今は立ち止まる方が危ない。止まるだけ紙の文字が心に染み込む。

 陽葵が柚羽にだけ柔らかく言った。

「真壁さん。ここは“出入り禁止”じゃなくて、“手続きが必要”って書いてるだけ。……私たちは手続きをする。だから今日は、別の場所で息しよ」


 息しよ。

 その言葉が柚羽の肩を少しだけ落とした。

 諦めじゃない。安堵し息を吐いた証拠。


 三人は図書室へ向かった。

 廊下を歩く途中、視線がまた刺さる。

 笑い声が小さく漏れる。

 その妙な小ささに吐き気がする。

「準備室、追い出されたんだって」

「やっぱそうなるよね」

 透葉はその後出しのような囁きが嫌でたまらなかった。


 図書室は静かだった。

 静かであることが今日は怖い。

 静かすぎると噂の声が頭の中で増幅する。

 それでも、ここは人の目がまだましだった。少なくとも “品定め”の目ではない。

 三人は奥の席に座った。

 陽葵が窓際の、光が落ち着いて入る席を選ぶ。

 柚羽は本棚の近く、背中が守られる席に座る。

 透葉は二人の間に座った。間にいると少しだけ安心できる。

 弁当箱を開ける。

 透葉のパンの袋を開ける。

 音は小さい。

 図書室は音に敏感だから、いつも通りで居ようとすると更に息が苦しい。

 柚羽は箸を持ったまま、止まった。

 止まった目が、ふと、机の上を見た。

 当然、そこに柚羽の消しゴムはない。

 準備室に置いた匂いの証はここにはない。

 それを思い出した瞬間、柚羽の喉がぎゅっと縮むのが透葉には見えた。

 柚羽が小さく言う。

「……居場所、なくなったんでしょうか……」

 透葉の胸の奥がぐらっと揺れた。

 なくなった。

 その言葉は柚羽の中の“終わり”に近い。

 透葉はその考えを止めたかった。止めるための言葉を、ちゃんと選びたかった。

 陽葵が先に言った。

「なくなってない。……場所が変わっただけ」

 柚羽の目が揺れる。

 納得できない揺れだ。

 変わっただけ、と言われても、柚羽にとって居場所は心臓そのものだ。そんなに簡単に心臓は差し替えられない。

 透葉は息を吸って、言った。

「……居場所って、一つだけじゃないよ」

 柚羽が透葉を見る。

 透葉は視線を逸らさず続ける。

「私たちがここにいるなら、ここが居場所になる。準備室じゃなくても」

 言い終えた瞬間、透葉は胸が熱くなるのを感じた。

 自分で言って自分で驚く。

 こんなこと、昔の透葉なら言えなかった。言う資格がないと思っていた。

 ても言ってしまった。自然と言ってしまうくらい、彼女たちとここにいる。

 柚羽は唇を震わせた。

 震えが涙に変わりそうになりながら頷く。

「……はい」

 陽葵が少しだけ笑う。

「透葉さん、たまにいいこと言う」

 透葉は即座に返す。

「たまにはいいでしょ」

 陽葵が肩をすくめる。

「八割雑だけど」

 透葉は無表情で言う。

「……コントラストってやつ」

 柚羽がふっと笑った。

 小さい笑い。図書室に似合った笑い方。

 柚羽の箸が少しだけ動いた。

 一口。

 二口。

 柚羽が食べる。

 それだけで今日の昼休みが次に繋がる。


 図書室の入口の方がざわついた。

 複数の足音。

 笑い声。

 声は抑えられている。でも何かの意図が見える。

 透葉は嫌な予感がして顔を上げた。

 そこには二年の女子が数人。

 透葉が昔いた輪の匂いを持つ子たち。

 中心にいるのは昨日見かけた同級生。

 そして、その少し後ろに——沙良がいた。

 沙良は輪の中にいながら、明らかに輪に馴染んでいなかった。

 笑っている。でも目が空っぽ。

 空っぽの目は、助けを求める直前の目だ。

 同級生がわざとらしく図書室の中を見回して、声を落として言った。

「……静かにね。ここ図書室だから」

 聞きようによっては優しい言葉だ。

 そういう言葉で場を支配する。

 その子たちは透葉たちの近くの席に座った。

 座っただけで場の空気が変わる。

 図書室の静けさが“監視”になる。

 柚羽の手が止まった。

 箸を持ったまま固まる。

 透葉の胸の奥が熱くなる。

 ここまで来るのか。ここまで追いかけてくるのか。


 陽葵は背筋を伸ばして本を開いた。

 開く動作が自然と盾になる。

 “勉強してます”という正しさで、相手の正しさを封じる。

 同級生たちは笑いながら小さな声で話す。

 話の内容は聞こえない。

 でも、その笑い方が透葉の耳に刺さる。

 透葉は昔、あの笑い方をしていた。

 沙良がふとこちらを見た。

 昨日より長い視線。

 その中に“やめて”が混じる。

 助けを求めてはいない。

 “見ないで”と目で言っている。見られたら輪の中で生き残れないから。

 同級生の子が沙良に笑いながら囁く。

 囁きは聞こえない。

 でも沙良の肩が小さく震えた。

 震えて、笑う。

 笑いながら、喉が一度ひくつく。

 透葉にはその動きが痛いほどわかった。

 笑いを飲み込んでいる。

 泣きたいのに、泣けない。


 しばらくして、同級生が立ち上がった。

 立ち上がるとき、わざとらしく透葉たちの席を一瞥する。

 そして、沙良の腕を軽く引いた。

「行こ。……沙良、ここじゃないでしょ」

 “ここじゃない”。

 その言葉は場所の否定じゃなく、存在の否定に近い。

 沙良は一瞬だけ動けなかった。

 でもすぐ笑って立ち上がる。

 立ち上がる瞬間、沙良の目が透葉にもう一度触れた。

 その目が言っていた。

 ——もう、無理。

 透葉は胸の奥がざわついて、立ち上がりそうになった。

 陽葵の手が透葉の袖を掴んだ。力は弱い。でも意思の強さを感じられた。

 陽葵が透葉にだけ聞こえる声で言った。

「今は、真壁さんを守る」

 透葉は唇を噛んだ。

 正しい。

 それでも、沙良を見捨てるみたいで苦しくもある。


 沙良たちは去っていった。

 図書室の空気が少し戻る。しかし胸の奥の痛みは残る。

 柚羽が小さく言った。

「……今の人たち……怖いです……」

 透葉は頷いた。

「怖いね」

 陽葵も頷く。

「……でも、ちゃんとしてれば怖がることなんてないよ。逃げたりしない」

 透葉はその“ちゃんと”という言葉が少しだけ頼もしくて、少しだけ怖かった。


 正しさは武器になる。

 武器は使い方を間違えると自分も傷つく。


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