20 ここが一番
翌朝、透葉は昇降口の床がやけに光っていることに気づいた。
清掃が行き届いているから、というより、不自然に磨かれすぎた光り方。誰かがここを“きれいにしよう”とした痕がある。きれいにするという行為は正しい。だからこそ、その顔のまま人を追い詰めることができる。
靴箱の前で透葉は一瞬だけ立ち止まった。
以前なら、誰かに見られないように急いで靴を入れて、教室へ逃げ込むように歩いただろう。
でも今日は立ち止まった。
止まったところで世界は変わらない。それでも、立ち止まれたことが前と少しだけ違う。
教室へ向かう廊下で、噂の匂いは昨日より濃くなっていた。
声は小さい。だけど刺さる。
小さいから、余計に逃げ場がない。
「……真壁さん、先生に言ったんだって」
「……でもさ、あれって本当なの?」
「……知らない。けど、なんか、やばくない?」
“やばい”は便利な言葉だ。
意味がないから何にでも貼れる。
一度貼られたラベルは、貼られる側は剥がすことができない。
透葉はその声を聞きながら、胸の奥で自分の過去を撫でられているみたいな気持ちになった。
かつて透葉も、意味のない言葉を笑いながら使っていた気がする。
使っていた、というより、使わされていた。そう言いたい自分がいる。
でも本当は使っていた。自分が選んで。
昼休み。
廊下の角で待っていた陽葵は今日も“正しい顔”をしていた。
正しい顔のまま、透葉を見るときだけ、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「透葉さん」
「うん」
その一往復だけで透葉は歩ける。
自分がこのやりとりに依存しているのを感じた。依存は怖い。でも今は必要だった。
準備室の扉の前。
陽葵が鍵を回す。
カチ、という音が、今日は少しだけ嫌な音に聞こえた。扉の向こうに何があるかわからない。
扉を開けた瞬間、透葉の胃が冷えた。
机の上に、マジックペンで書かれた落書きがあった。
白い紙じゃない。机の天板そのものに薄い油性の線。
——『気持ち悪い』
短い。
だから刃が鋭い。
柚羽はまだ来ていない。
来ていないことに、救いと怖さを感じる。
柚羽がここに来る前に、この文字の内容を見せつけられてしまうかもしれない。
陽葵が一瞬だけ固まり、次に深く息を吸った。
吸って、吐く。
吐いてから、淡々とした声で言った。
「……消そ」
透葉は頷いた。
怒りで胸が一気に熱くなる。でも今はそれを外に出すわけにいかない。出せば相手の舞台になる。
陽葵は棚から雑巾を探し、アルコールを少し取った。
透葉はその動きが手慣れているのを見て胸が痛くなる。陽葵は日常を整えるのが上手い。だから汚されるのが一番辛いはずなのに、絶対顔に出さない。
雑巾が机を擦る。
キュッ、キュッ、と音がする。
線は薄くなる。でも完全には消えない。油性はしばらく表面に染み込む。
“気持ち悪い”という言葉は消えにくい。
透葉は雑巾を握る陽葵の指先が白くなるのを見た。
柚羽と同じ白さだと思った。
盾を握る白さ。壊れないための白さ。
透葉は声を落として言った。
「しつこいね」
陽葵は目を上げずに答えた。
「消えるまでやる」
結果が出るまでやる。
それが陽葵の命綱。
透葉はそれが怖くて、でも今はそれが頼もしくもある。
窓を開けると外の風が入ってきた。
紙と木と絵具の匂いに、昨日の香水の残り香と、アルコールの匂いが混ざる。
匂いが混ざると、居場所の輪郭がぼやける。
ここを失いたくない。
扉がノックされた。
コン、コン、コン。
柚羽の音だ。
控えめで、でも今日は少しだけはっきりしている。
陽葵が「どうぞ」と言うと、柚羽が顔を覗かせた。
入った瞬間、柚羽の目が机の天板に止まった。
止まって、揺れた。
消えかけの線がまだ薄く残っている。
“見えないくらい”には、まだなっていない。
柚羽の喉が動く。
飲み込む。
でも声が出る。
「……あの……」
陽葵がすぐに言った。
「消す途中。……気にしないで」
透葉はいつもの雑な言葉を出しかけて、やめた。
今日は柚羽に“言葉”を渡したい。
盾じゃなく、息をするための言葉を。
透葉は少しだけゆっくり言った。
「やっぱり、ここが一番だよ」
柚羽は透葉を見る。
目が揺れる。
揺れたまま、柚羽は小さく言った。
「……私も、そう思います」
“そう思います”。
自分の意見。
透葉の胸の奥がじわっと温かくなる。でも、涙が出そうになるのが悔しい。
陽葵が雑巾で最後の線を擦りながら言った。
「……これ書いた人、ほんと気持ち悪い」
きっぱり。
陽葵の言葉は普段より少しだけ鋭い。
鋭くて、正しい。
透葉は思わず笑ってしまった。
笑いは短い。
でも笑いが出たことに透葉は驚いた。こんな状況で笑えるんだ、と。
柚羽もほんの少しだけ笑った。
笑って、すぐに真面目な顔に戻る。
その顔が昨日よりちょっとだけ頼もしい。
昼休みは落書きの消去で半分以上終わった。
それでも、三人は弁当を広げた。
その行為が今日の抵抗になる。
柚羽は箸を持って、一口食べた。
透葉はその一口を見て胸の奥が少しだけ軽くなる。
居場所が汚されても、いつも通りでいられる。
食べることで日常を繋ぐことができる。
ところが、扉の外が急に静かになった。
不自然に静かになるときほど怖い。
誰かが耳を澄ましている証拠みたいで。
透葉は呼吸を浅くした。
陽葵も目だけで廊下を見た。
柚羽は箸を握りしめた。
そのとき、扉がまたノックされた。
コン、コン。
柚羽の控えめなノックとは違う。
少し強い。迷いがない。
陽葵が席を立つ。
扉の方へ行き、少しだけ開ける。
そこにいたのは先生だった。美術の先生じゃない。生活指導の先生。
先生は真面目な顔で言った。
「笹波。彩瀬。真壁。……少し話がある」
透葉の胃が冷える。
それは、嵐の前の言葉だ。
先生は続けた。
「準備室の使用について、苦情が出ている。……君たちはここで何をしている」
苦情。
正しい言葉。
正しく、居場所を削る。
陽葵がいつもの“正しい声”で返す。
「昼休みの休憩です。先生の許可もあります」
先生は眉を寄せる。
「許可? 誰の」
陽葵は美術科の先生の名前を出した。
先生は鼻で笑うように息を吐いた。
「他の先生がどう言おうと、規則は規則だ。ここは部外者が勝手に使う場所じゃない」
透葉の胸が熱くなる。
部外者。
誰が部外者だ。学院の生徒だろ。
でも“部外者”と言われた瞬間、透葉の中の過去がざわつく。輪の中で、輪の外をそう呼んだ。自分の笑い声。
柚羽が小さく震えた。
そして、俯く。
透葉はそれが許せなくて、言い返しそうになる。
陽葵が透葉を目線で止めた。
止めて、自分が前に出る。
「先生。なら、正式に手続きをします。……使用申請の方法を教えてください」
先生が一瞬、言葉に詰まる。
詰まって、視線を逸らす。
“手続き”という形を持った正しさは、曖昧な正しさを崩す。
先生は咳払いして言った。
「……とにかく、今は出ろ。昼休みにここに集まるな」
透葉の胃が冷える。
今は出ろ。
今だけじゃないだろ。
きっと、これから先も使わせないつもりだ。
陽葵が小さく頷いた。
「わかりました。……でも、真壁さんの安全のために、別の場所を確保してください。見落としていた先生方にも責任があります」
先生の顔が少しだけ歪む。
責任、という言葉が刺さったのだろう。
先生はそれ以上言わず、踵を返した。
廊下に足音が遠ざかる。
遠ざかったあと、準備室の空気が一気に薄くなる。息がしづらい。
柚羽が震える声で言った。
「……私のせいで……」
透葉は反射で「違う」と言いかけて、止めた。
それだけじゃ柚羽は納得しない。
柚羽はまた盾を握る。
透葉は少しだけ言葉を変える。
「ぜんぶ相手のせいだから。先生も含めて」
柚羽が目を丸くする。
透葉は続けた。
「……あいつらは正しい顔して、楽な方に流れてるだけ。そんなのただのズルじゃん」
陽葵が少しだけ笑う。
どこか疲れた笑い方だ。
「透葉さん、今日は鋭いね」
透葉は無表情で返す。
「……今日だけじゃない」
柚羽が喉を震わせてほんの小さく笑った。
その笑いが、今の準備室によく響いた。
昼休みの終わり、三人は準備室を出た。
鍵を閉める音が、今日は追い出された音に似ていて、透葉は胸が痛くなった。
放課後。
陽葵は練習を控えめにした。
控えめにしたこと自体が、陽葵の中ではまだ大きな決断のように思えた。
でも陽葵はいつもどおりに笑う。
帰り道、透葉は昇降口の近くでまた沙良を見かけた。
沙良は輪の外側に立っていた。
輪の中心の子たちは笑っている。
沙良も笑っている。笑いながら、肩が小さく震えている。
中心の子が言う。
「沙良ってほんと空気読めないよね」
「てか、さっきの、沙良が余計なこと言ったからじゃん」
沙良の笑いが止まる。
一瞬だけ。
止まって、また笑い出す。
でもその笑い方は、もう“輪の笑い”じゃない。外側の笑い方だ。輪に留まるための笑いじゃなく、殴られても倒れないための笑い。
その一瞬が透葉の胸を刺した。
その瞬間に、沙良の中の何かが折れた気がしたからだ。
沙良が視線をこちらへ投げた。
投げた視線は昨日より少しだけ長い。
長い視線の中に希求が混じる。
でも声は出ない。
透葉は足を止めかけて、陽葵がそっと透葉の袖を引いた。
そして透葉は自分が今、誰の手を優先すべきか思い出す。柚羽。陽葵。今はこの二人を守るのが先だ。
それでも、沙良の目が胸に残る。
そのまま消えない。
夜、透葉はベッドの上で天井を見た。
スマホは見ない。
頭の中で通知が鳴る。柚羽の震える手。陽葵のつまずき。机の落書き。先生の無責任な言葉。
そして、沙良の目。
(もう逃げ場がないんだ)
透葉はそう思った。
沙良はもうすぐ逃げる。
行き着く先がないまま逃げる。
そういうとき、人は一番無防備になる。
透葉は胸の奥で決める。
準備室を追い出されるなら、別の居場所を作る。
場所がないなら奪う。
奪うと言っても、暴力的にじゃない。正しさで奪う。手続きで奪う。相手の“正しい顔”に対抗するための正しさ。
正しさを武器にするのは怖い。
でも、今やるしかない。




