2 小さなメモ
翌日の放課後、透葉は意識していた。
——意識していないふりをすることを。
教室の掃除当番は終わった。黒板のチョークの粉を落とし、机の列を整え、最後に窓を閉める。その一連の動作はいつもより丁寧だった気がする。丁寧にすればするほど、帰るまでの時間が伸びる。伸びた分だけ、校庭の様子を“見てしまう”可能性が増える。
廊下に出ると、まだ数人の生徒が残っていた。
部活に行く子、誰かを待っている子、帰り支度をしながら笑っている子。
透葉はその間をすり抜けるように歩いた。会話が耳に入るたびに、視線が刺さる気がした。実際には見られていない。透葉が勝手に反射しているだけだ。
階段の踊り場まで来ると、昨日と同じ場所に足が止まった。
止まるつもりはなかったのに、身体の方が先に知っている。
校庭はやっぱり静かだった。
トラックの内側でサッカー部が片付けをしている。バスケットのゴールにぶら下がったネットが風で揺れる。夕方の光は昨日より薄く、空が少しだけ高い。
そして——
トラックの外周を黒髪の少女が走っていた。
透葉は呼吸を忘れそうになった。
その姿が“いつもそこにあるもの”みたいに自然で、自然すぎて怖い。
習慣のように走り、習慣のように世界から切り離されている。
走る速さは速い。けれど、速さを見せつけるためではない。
タイムを縮めるためでも、誰かに勝つためでもなく、ただ走らないと崩れてしまうから走っている——そんな風に見えた。
(……何言ってんだろ)
自分の頭の中の勝手な物語に透葉は小さく呆れた。
誰かの理由を決めつける資格なんてない。ただ見ているだけなのに、見ているだけで、もう踏み込んでしまっている。
透葉は踊り場の陰に身を寄せ、スマホの画面を点けた。
意味もなくタイムラインをスクロールし、意味もなく止める。指先が冷たい。手が震えているのは気温のせいだと思うことにした。
不意に風が強く吹いた。
校庭の砂が舞い上がり、少女の足元を薄い霞が追いかける。黒髪が煽られ、結んでいたはずの髪が少しだけほどけた。
その瞬間、少女が走りながら手で髪を押さえた。
仕草が思っていたより子どもっぽかった。
透葉は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
完璧に見える誰かが、完璧じゃない瞬間。見てはいけないものを見てしまった気がして、視線を逸らす。なのに、次の周回でまた見てしまう。
(このまま見てたら、ほんとに……)
何が起きるわけでもない。
ただ見ているだけ。それなのに、透葉の中で何かがゆっくりと崩れていくようだった。
チャイムの音が遠くで鳴った。部活終わりの合図だ。
走る少女は少しだけ速度を落とした。立ち止まらず、呼吸を整えながら走り続ける。その潔さが、妙に眩しい。
透葉は踊り場から離れ、階段を下りた。
今日こそ、そのまま帰るつもりだった。
昇降口に着くと、靴箱の前に女子が二人立っていた。
透葉の元いたグループの子だ。髪の巻き方も、笑い声の出し方も、透葉がそこにいた頃と同じだ。
違うのは、透葉がその輪の外にいることだけ。
「……あ、彩瀬」
声をかけたのは、名前を忘れかけていた子だった。
朝比奈でも真壁でもない。沙良や美咲じゃない。まだ“誰でもない”頃の透葉の記憶に、ぎりぎり引っかかっている程度の子。
透葉は反射的に足を止めた。
心臓が少し強く鳴る。話すことなんてない。ないはずなのに、身体が“昔のルール”で動いてしまう。
「久しぶり。……元気?」
その問いは、心配というより形式に近かった。
透葉は曖昧に頷き、視線を合わせないようにした。
「元気。……まあ」
声が自分のものじゃないみたいに軽い。
相手の子は透葉のイヤホンに一瞬だけ目をやって、すぐに笑った。
「そっか。……ねえ、今日、早いんだ?」
早い。
透葉が“早い”のは、たぶん久しぶりだ。元いた頃はいつも誰かと一緒に帰った。いつも一緒にいたのに、いちばんひとりだった。
「うん。……用事、ないから」
透葉がそう言うと、相手の子は困ったように口角を上げた。
何か言いたいのに言えない顔。透葉はその顔に慣れている。言いかけて引っ込める言葉の空気だけが残って、あとで勝手に傷になるやつだ。
「……そっか。じゃ、またね」
その“またね”は、社交辞令の音だった。
透葉は頷いて靴を履き替え、外へ出た。
夕方の空気は校舎の中より少しだけ冷たい。
でも、それが救いだった。熱があると、身体がまだ生きているみたいで苦しい。
門を抜けると、遠くから陸上部の掛け声が聞こえた。
透葉は足を止めそうになるのを堪え、前を向いた。見ない。今日は見ない。そう決めていた。決めていたのに、気づけば視線が校庭の方へ滑っている。
走っていた黒髪の少女は、いつの間にかトラックを外れていた。
部室の方へ戻っていく背中が見える。白いシャツの上に紺のジャージを羽織っている。背筋が伸びている。なのに、肩のあたりが少しだけ固い。
(陸上部……)
部活の名前を当てはめただけで、透葉は妙に罪悪感を覚えた。
知らないふりをしていたはずなのに、勝手に知っている。知ったところで何ができるわけでもないのに、勝手に近づいている。
透葉は門の外へ出て歩き出した。
通学路の並木が夕陽で薄く光っている。自転車のベルが遠くで鳴り、車の音がざらついた波みたいに続いている。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。
通知ではない。バイブが勝手に鳴っただけ。そんなことがあるわけないのに、と一瞬思って画面を見た。
何もない。
当然だ。誰からも、何も来ない。
透葉は画面を消し、スマホを握り直した。
手のひらに残る振動だけが、妙に現実味を持ってしまう。
(……あの子が、わたしに声をかけてくるわけない)
そう思った。
思ったのに、胸のどこかで“それでも”が小さく鳴った。
透葉は歩幅を少しだけ速めた。
家に帰れば静けさが待っている。それでも、戻らなければいけない。戻ってしまえば今日の校庭の光も、走る影も、ぜんぶ遠くなる。
遠くなってくれればいい。
でも、遠くなったら——たぶん、透葉はもう二度と動けなくなる気がした。
信号待ちで立ち止まったとき、透葉はふと、昨日閉めた引き出しの感触を思い出した。
『南の海』の紙。指先の跡。光の記憶。
あの絵を描いた自分は、今の自分より少しだけ生きていた。
胸が動いて、息が詰まって、それでも目を逸らさなかった。
(だったら——)
透葉は信号が青に変わるのを見て、そっと息を吸った。
歩き出す足取りがほんの少しだけ軽い。
その夜、透葉は机の上に小さなメモを置いた。
誰にも見せない言葉。自分のためだけの言葉。
“明日も、見に行く”
書いてしまったあとで、透葉は笑いそうになった。
子どもみたいだ。まるで意志があるみたいだ。そんなの、似合わない。
それでも紙は捨てなかった。
引き出しにしまわず、机の端に置いたままにした。
窓の外では街の灯りがひとつずつ点き始めている。
透葉はイヤホンを外し、部屋の静けさをそのまま受け止めた。
静けさは、ひとりの証拠じゃない。
まだ何も起きていないだけだ。
透葉は布団に潜り込み、目を閉じた。
明日の放課後、校庭に影があるかどうか——それだけが、今の自分を少しだけ前に押してくれる。




