19 朝比奈沙良(あさひなさら)
午後の授業は透葉の中でほとんど霞んでいった。
代わりに、廊下の空気がどんどん濃くなる。
噂が形になる。やがて視線になる。視線が刃になる。
放課後、陽葵が短い練習を終えて戻ってくる。
汗を拭きながら笑って言う。
「今日は帰ろ」
柚羽が頷く。
透葉も頷く。
校門へ向かう途中、透葉は昇降口のあたりで、またあの割れるような空気を感じた。
香水の匂い。整った笑い声。
二年生の女子が数人固まっている。その中心にいる同級生——透葉が昔、輪の中で見た“上位の子”がいた。
その輪の外側にもう一人いた。
同じ二年生。
髪はきれいに巻かれていて、でもどこか乱れている。
口元だけで笑って、目が笑えていない。
形だけ笑っているのに、足元が少しだけ揺れている。
——朝比奈沙良。
その名前が頭の中で勝手に鳴った。
まだ話したわけじゃない。
でも、透葉の記憶があの輪の匂いと一緒に引きずり出す。
沙良は輪の中で“うまく笑う”側の子だ。うまく笑うことで生き残る側の子。
でも今、沙良の笑いはどこか必死だった。
中心の子が沙良に何か言って、周囲が笑う。
笑いは軽い。でも聞く者によっては、どうしようもなく重い。
沙良は笑い返す。そして、一瞬だけ視線が床に落ちる。その視線が透葉の方へちらりと飛ぶ。
目が合った。
ほんの一瞬。
沙良の目は助けを求めていない。
でも、“逃げ場がない”目だった。
胸が痛む。
自分が昔そこにいたことを嫌でも思い出す。
笑って、生き残って、傷つく誰かを見ないふりした場所。
そこに今も人がいる。
陽葵が小さく言った。
「透葉さん?」
透葉は視線を逸らして、短く言った。
「私、あんな感じだった」
陽葵はそれ以上聞かなかった。
聞かない優しさ。
でも、聞かないままだといつか爆発する。透葉はその予感を抱えたまま歩き出した。
帰り道、三人は人通りの多い道を選ぶ。
柚羽は俯きながらも、昨日より少しだけ歩幅が揃っている。
でも指先はまだ白い。
途中、陽葵がほんの一瞬、足をもつれさせた。
今度は、はっきり見えた。
歩道の継ぎ目はなく、段差もなく、ただの平らな道。
陽葵の身体が前に傾く。
透葉は反射で胸を支えた。
陽葵の体重が想像より軽い。いつ倒れてもおかしくないと思えた。
陽葵が息を呑む。
「……大丈夫」
言いわけが早すぎる。言い慣れた早さ。
その“大丈夫”は嘘だ。
透葉はもう誤魔化さなかった。
「大丈夫じゃない」
陽葵が目を丸くする。
透葉は声を落として続けた。
「何回目? もう誤魔化さないで」
言い方が強いと自覚している。
でも止められなかった。
以前陽葵が言った“多分”が、透葉の中でずっと冷えていたからだ。
柚羽が震える声で言う。
「……笹波先輩、休んで……」
陽葵は笑おうとする。
でも笑いが遅れる。
その笑みが透葉の胸をさらに冷やす。
透葉は陽葵の体を支えたまま、ゆっくり言った。
「保健室行こう。今すぐ」
陽葵が反射で首を振りかけた。
「ほんとに大丈夫だから」
透葉はそこで初めて“自分の言葉”を選んだ。
事実じゃなく、感情を。
「ごめん……私が怖いから」
陽葵の表情が止まる。
ほんの一瞬、“正しい顔”が剥がれる。
剥がれた下に焦りがある。焦りと、悔しさと、頼れない頑固さ。
透葉は続ける。
「結果がどうとか、今は知らない。でも倒れたらそこで終わり。そういうのがいちばん嫌」
最後の“嫌”が自分でも幼いと思った。
でも幼い言葉ほど真実に近い時がある。
陽葵はしばらく息を整えてから、やっと小さく頷いた。
「……わかった。行く」
その頷きに透葉の胸が少しだけ緩む。
でもまだ冷たさが残る。
波が来ている。今度は柚羽の波だけじゃなく、陽葵の波も。
*
次の日。保健室へ向かう途中、柚羽が小さく呟いた。
「……準備室の匂い……消えちゃ嫌です……」
透葉は即答する。
「消えない」
陽葵も少しだけ笑って言った。
「消えないよ。消えそうなら、また置けばいい。何度も」
柚羽はその言葉に小さく頷いた。
頷いて、少しだけ前を向く。
透葉は思う。
居場所はいつか汚される。
汚されても作り直せる。
作り直すたびに強くなれるかもしれない。その代わりに、痛みも増えるけれど。
それでも——
もう引き返したくなかった。
保健室の扉を開けた瞬間、消毒液の匂いが鼻の奥をついた。
これも学校の匂いなのに、明らかに普通じゃない匂いだ。身体の弱さがはっきり“身体”として表れる場所の匂い。
保健室の養護教諭は顔を上げて三人を見た。
視線が止まる。陽葵の顔で止まって、次に透葉のピアスで一瞬引っかかって、柚羽の青い顔でまた止まる。
止まったあと、声が柔らかくなる。
「どうしたの?」
陽葵が一歩前に出ようとして、足がほんの少し遅れた。
透葉はそれを見て、胸の奥がきゅっと縮む。
陽葵は遅れを誤魔化すみたいに背筋を正し、いつもの“正しい声”で言った。
「ちょっと、ふらついて。……疲れかもしれないです」
“疲れかもしれない”。
逃げの言葉。曖昧な言葉。
透葉はその言葉が昨日からずっと嫌だった。陽葵がそれを選ぶ理由もわかる。曖昧にしておけば守れるものがある。結果とか、期待とか、そういうものから、少しだけ逃げられる。
先生は陽葵にベッドへ行くよう促した。
陽葵は「大丈夫です」と言いながら歩く。足元がほんの少しだけ揺れる。
透葉はその揺れが怖くて、陽葵の腕をそっと支えた。できるだけ押しつけないように。陽葵の自尊心が折れないように。
柚羽は入口の近くで立ち尽くしていた。
立ち尽くして、手を握りしめている。
たぶん“自分はここにいていいのか”という不安があるのだろう。
先生が柚羽にも言う。
「真壁さんも、座って待っててね」
柚羽が反射で「大丈夫です」と言いかけて、止めた。
小さく頷いて椅子に座る。
それが透葉には嬉しかった。大丈夫を言わずに済む場所が少しずつ増えている。
陽葵はベッドに腰を下ろして、息を整えた。
整え方が走り終わったときのそれではない。
どこか、“落ち着いたふり”。誰かの目を気にした動き。
先生が体温計と血圧計を準備しながら言った。
「最近、忙しかった?」
陽葵が笑う。
「普通です」
透葉は思った。
普通。陽葵は“普通”の鎧を着る。
鎧は強い。でも、必要以上に重い。
先生が血圧を測りながら、目線だけで透葉にも問いかけてくる。
透葉はその目線に応えるのが難しかった。
“病気かもしれない”と口にしたくない。口にした瞬間、陽葵が壊れそうだから。
でも、“ただの疲れ”にしてしまうと、何か大事なものが見えなくなる気もする。
先生が陽葵の脈を取りながら眉を寄せた。
大げさじゃない。ほんの少しだけ。
その“ほんの少し”が透葉の胃を冷やす。
「……ふらつきはいつから?」
陽葵が一瞬、言葉に詰まった。
そしてすぐに笑う。
「今日、たまたまです」
嘘だ、と透葉は思った。
でも嘘じゃないとも思う。陽葵の中では、“ずっと前から”と言うことが負けだからだ。そう言った瞬間、今まで積み上げてきた努力が折れる気がするのだろう。
先生は深追いせず、淡々とした声で言う。
「低血糖でも似たようなことが起きるのよ。朝はちゃんと食べた?」
陽葵が小さく頷く。
「食べました」
透葉は内心で「ほんとかよ」と思った。
陽葵は食べたと言いながら、食べていない日もある。
その“ちゃんと”は、陽葵の中で結果と同義だ。結果を出すためだけのちゃんと。
自分の身体のためのそれとは違う。
先生は温かい飲み物を出してくれた。
陽葵はそれを受け取って、少しだけ戸惑った顔をする。
世話を焼かれることに慣れていないからじゃない。受け取る行為が、弱さと同義に感じるからだ。
透葉はその戸惑いが苦しくて、軽く言った。
「飲んで。また転んじゃうから」
陽葵が「それ脅し?」と苦笑する。
柚羽が小さく笑いかけて、すぐ俯いた。
先生が陽葵に言う。
「少し休んでから帰りなさい。今日の練習は……」
陽葵は即座に言った。
「します」
反射だ。反射で言った。
陽葵の口元が少しだけ歪む。
透葉は胸の奥が熱くなる。
怒りじゃない。焦りと、怖さ。
陽葵が自分を削ってでも走ろうとすることが、無性に怖い。
先生はそれでも柔らかく返した。
「とにかく今日はしない。休むのも練習のうちだよ」
陽葵が目を伏せる。
伏せた目の奥で悔しさが揺れる。
透葉はその揺れに触れたくなって、結局触れられない。
柚羽が小さく言った。
「……笹波先輩、休んで……」
陽葵は柚羽を見て、少しだけ笑った。
笑いは優しい。でもどこか痛々しい。
「真壁さん、ありがとう」
その“ありがとう”は本音に近かった。
保健室を出る頃には、陽葵の顔色が少しだけ戻っていた。
なのに、透葉の胸の奥の冷えは消えない。
“今”だけだ。その場しのぎ。根っこがまったく戻っていないのは明らかだ。
教室へ戻る途中、廊下のざわめきはさらに濃くなっていた。
今までの噂が形を持ち始めている。
「笹波さん、保健室行ったらしいよ」
「え、大丈夫なの?」
「あの人って、完璧じゃなかった?」
完璧。
透葉はその言葉に吐き気がした。
完璧というラベルが陽葵を縛っている。縛って、倒れるまで走らせる。
柚羽がその囁きに反応して肩を縮める。
でも歩みは止まらない。それが柚羽の強さになりつつある。
昼休みが終わり、午後。
透葉は授業中、何度も窓の外を見た。
空は明るい。明るいのに、胸の中は薄暗い。
準備室の香水の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
放課後、三人は早めに準備室へ戻った。
今日は“居場所を整える日”にしたかった。
相手が汚そうとするなら、こちらはそれ以上に整える。そうすることで、ここにいることを肯定する。
準備室の扉を開けると、昨日より香水の匂いは薄くなっていた。
窓を開けた痕跡。換気した痕跡。
机の端に置かれた消しゴムが少しだけ匂いを吸っている気がした。
柚羽が消しゴムをそっと手に取って、匂いを嗅いだ。
眉を少しだけ寄せる。
その表情が、透葉には“嫌”を表現する顔に見えて、胸が少し温かくなる。柚羽が嫌と言えるようになっている。
陽葵が言う。
「新しいの買いに行こっか。……放課後」
柚羽が目を丸くする。
「……いいんですか」
透葉が即答する。
「いい。匂いの上書き」
陽葵が笑う。
「透葉さん、言い方」
透葉は無表情で返す。
「他にある?」
柚羽が小さく笑った。
笑いが準備室の空気を少し柔らかくする。
そこへ、廊下の向こうから笑い声が近づいた。
笑い声は軽い。
扉の隙間から声が入る。
「ねえ、保健室行ったんだって」
「笹波先輩? え、意外」
「でもさ、最近、あの辺つるんでるし」
“つるんでる”。
言葉が急に雑になる。
雑な言葉は、遣うだけであっという間に相手を“雑に扱っていい存在”にする。
透葉は扉の方へ向かいそうになって、陽葵が手で止めた。
陽葵の手は小さくて、でも強い。
その手が透葉の胸の奥の怒りを少しだけ押し込める。
陽葵が透葉にだけ小声で言う。
「今は、相手の舞台に乗らないで」
透葉は歯を噛む。
悔しい。
でも、今は陽葵が正しい。
正しいのがさらに悔しい。
声は遠ざかった。
そのあと、準備室の中の空気が少しだけ重くなる。
重い空気の中で、柚羽が小さく言った。
「……私、ここが好きです」
透葉は息を止めた。
陽葵も止めた。
“好き”が出た。居場所の言葉が出た。
こんな状況で、柚羽が好きと言えたのが、透葉には涙が出そうなくらい眩しく思えた。
陽葵が静かに笑う。
「うん。私も」
透葉は言葉を探して、やっと言った。
「……私も」
三人の声が机の上に並ぶ。
それだけで匂いが少しだけ戻る気がした。
紙と木と絵具の匂い。私たちの居場所の匂い。
その帰り道、昇降口付近でまたあの輪を見かけた。
同級生の中心の子が笑いながら誰かの肩を叩く。
その輪の少し外側で沙良が立っていた。
笑っている。なのに、口元が引きつっている。
中心の子が沙良に何か言って、周囲が笑う。
沙良も笑う。
でも、笑いが少しだけ遅れる。
遅れた笑いは中心の子が見逃さない。
「沙良って、ほんと空気読めないよね」
その言葉が軽く落ちる。
軽い言葉で輪の外へ押し出す。
沙良の肩が小さく揺れた。
でも、笑っている。笑うことしかできない。
目だけが冷えている。いずれ、空っぽになる。
透葉はその瞬間を見てしまった。
輪が“切り離す”瞬間。
笑い声で切る。
誰かが傷ついたことを、ただの“ノリ”にする。
胸が痛い。
足が止まりそうになる。
止まりかけて、陽葵が透葉の腕を軽く引いた。
「透葉さん」
透葉は小さく頷く。
ここで止まったら、過去に引きずり戻される。
でも、沙良の目が透葉の中に刺さって離れなかった。
帰り道、陽葵が不意に言った。
「……さっきの子、知ってる?」
透葉はしばらく黙ってから答えた。
「昔、同じとこにいた」
陽葵はそれ以上聞かなかった。
聞かないまま、透葉の隣を歩いた。
それがありがたくて、でも少しだけ怖い。
その優しさは、何もできないまま爆発させることもある。
柚羽の家の近くまで来たとき、陽葵の歩幅がまた少し乱れた。
乱れ方は小さい。
でも透葉が見逃さない。見逃せない。
透葉は陽葵の袖を掴んで、低い声で言った。
「明日、ほんとに病院行くから」
陽葵が苦笑する。
「……うん。今度って言ってもダメでしょ?」
透葉は反射で突っ込む。
「やっと学んだか」
柚羽が小さく笑って、次に真剣な顔で言った。
「……笹波先輩、お願いします」
陽葵は柚羽を見て、少しだけ本音の顔を出した。
「……うん。約束する」
その“約束”が透葉の胸の奥を少しだけ温めた。
でも冷たい波はまだ足元にある。
準備室は汚される。
噂は回る。
輪は切れる。
それでも匂いは微かに残る。
ならば、上書きできる。
その度に居場所は“本物”になる。
透葉はそう思いながら、柚羽が扉を閉めるのを見届けた。
閉まる扉の音が、今日は少しだけ違って聞こえた。
もう逃げる側の音じゃない。




