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18 暴れないよりマシ

 翌日、透葉は教室の椅子に座った瞬間から背中に針を刺されているみたいな感覚があった。

 でも痛いと言えない。言ったところで、刺してる側が“刺してない”顔をするのを知っているからだ。


 黒板の前で先生がチョークを鳴らす。

 粉が舞う。誰かがくしゃみをする。

 いつも通りの音のはずなのに、透葉の耳は別の音ばかり拾った。

「……あそこ、また行ってるらしいよ」

「……美術準備室でしょ?」

「……うん、なんか、ね」

 言葉の最後が曖昧に落ちる。

 途中で落ちるのは、言った側が責任を持たないためだ。そういう言葉ほど、よく燃える。

 透葉はノートにシャーペンを走らせながら、歯の裏で小さく息を吸った。

 怒りを形にすると目立つ。

 目立つと、今は柚羽がいちばん危ない。

 そうやって怒りを飲み込む癖を、透葉はまだ捨てきれていない。


 昼休みのチャイムが鳴る前から、透葉は鞄を持った。

 教室を出るとき、視線が一斉に滑ってくる。

 滑ってきて、すぐに逸れる。

 逸れる速さで相手の“知ってる”がわかる。

 廊下の角で陽葵が待っていた。

 今日の陽葵は笑う前の目が少しだけ硬い。なのに、声はいつも通りに明るく作られている。

「透葉さん」

「うん」

 それだけで足が前に出る。

 透葉は陽葵の“いつも通り”に縋っている自分を感じた。それが嫌なのに、縋らないと今にも崩れそうだった。

 準備室の扉の前。

 陽葵が鍵を回す。

 カチ、と小さな音。

 扉を開けた瞬間、匂いが変だった。

 紙と木と絵具の匂いの中に、甘ったるい香水が混じっている。

 甘くて、しつこい。

 喉の奥にまとわりつくような匂い。

 透葉は足を止めた。

 陽葵も止まった。

 柚羽は——扉の向こうで、すでに立ち尽くしていた。

 机の端に置かれていたはずの消しゴムは床に落ちていた。

 落ちてはいるけど、他に何かされた様子はない。

 それが逆に悪意だった。わざと落とした。わざと見えるように落とした。

 柚羽の顔が白い。

 指先が震えている。震えたまま、拾えない。

 透葉の胸の奥が怒りで熱くなる。

 なのに声が出ない。出したらきっと壊れる。

 陽葵が先に動いた。

 消しゴムに直接触れないように、ハンカチを取り出して包むみたいに拾った。拾って、机の端に戻す。

 丁寧すぎる動作。怒りの匂いがする。

 陽葵がなるべく普通の声で言う。

「……匂い、強いね。換気しよ」

 透葉はその言葉の普通さに救われる。


 腹が立つ。こんな状況で“普通”を作らないといけないのが、腹立たしい。

 透葉は窓を開けに行った。

 金具が冷たい。窓を押し上げると、外の空気が流れ込む。外の空気は冷たいけれど、香水の甘さよりましだった。

 柚羽が小さく言った。

「……ごめんなさい……」

 透葉の喉がきゅっと縮む。

 出た。盾の言葉。盾の言葉を言わせた空気が許せない。

 透葉は言いかけて、止めた。

「謝るな」と言うと柚羽がまた縮こまる。

 代わりに、透葉は事実に逃げた。

「この匂い、きつすぎ。頭痛くなる」

 陽葵がすぐに乗る。

「うん。真壁さん、座って。今日は無理しないで」

 柚羽は一瞬だけ拒否しかけたけれど、陽葵の目を見て止めた。

 そして、ゆっくり椅子に座る。座って、肩を落とす。

 落とした肩が、さっきより少しだけ低い。それは諦めじゃなくて、息を吐いたからだと透葉は思いたかった。

 透葉は机の上を見回した。

 昨日まで揃っていたプリントの束が、端だけ少しずれている。

 ずれは小さい。それでも目立つ。

 “触られた”という事実だけがそこに残る。

 陽葵が柚羽の弁当箱を指差した。

「食べよ。匂いに負けないように」

 透葉は即座に突っ込む。

「これ、ほんと食欲失せるね」

 陽葵が笑いそうになって、でも笑わずに頷く。

「うん。だから、食べられるものから」

 柚羽が箸を持つ。

 持ったまま止まる。手元が震える。

 透葉は椅子の脚を少しだけ動かして音を立てた。

 わざと。

 空気の張りを切るための雑音。

 陽葵がその意図に気づいたみたいに、軽く言う。

「透葉さん落ち着きないね」

 透葉は無表情で返す。

「暴れないよりマシでしょ」

 柚羽がほんの少しだけ息を漏らした。

 笑いに近い息。

 その息が出ただけで透葉の胸の奥が少しだけほどける。


 扉の外は静かだった。

 でも気配がある。

 通り過ぎる足音がいつもよりゆっくりだ。

 こちらを聞こうとしている歩幅。

 陽葵が机の上のメモ帳を開く。

 先生に告げ口するための記録。

 陽葵は淡々と書く。今日の異質な匂い。消しゴムが落とされていたこと。プリントが動いていたこと。

 淡々と。そうすることで怒りを形にして、うまく外に出す。

 透葉はその筆圧を見て胸が少し痛くなる。

 陽葵は強い。だから、こういうときでも自分を保てる。

 でもその強さは無限じゃない。透葉は昨日からずっと、そのことを考えてしまう。


 チャイムが鳴る直前、扉の外で声がした。

「……匂い、すごくない?」

「……ね。なんか、変な感じ」

 変な感じ。

 具体性のない言葉がいちばんズルい。

 具体的でないから正面で否定できない。できないでいると“図星だったんだ”になる。

 透葉は一瞬、扉を開けたくなった。

 開けて言い返したくなった。

 でも、言い返すと相手の舞台になる。相手はすでに“正しい顔”で勝てる場所に立っている。


 透葉は扉に手を伸ばして、止めた。

 代わりに、柚羽の机の端に置かれた消しゴムを見た。

 あの匂いがここにいる証だ。

 汚された匂いの中でも残っている、小さな“好き”という意思だ。

 透葉は低い声で言った。

「あんなの気にする必要ないから」

 陽葵が頷く。

「うん。ただの雑音」

 柚羽の喉が動いて、ゆっくり頷いた。

 箸が少しだけ動く。

 一口。

 それだけで、今日の昼休みは負けじゃないと思えた。

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