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17 平気な顔して食べそう

 翌朝、透葉はいつもより早く家を出た。

 早く出た理由は別に立派じゃない。準備室に入る瞬間の“最初の空気”を、できるだけ穏やかなまま迎えたかっただけだ。誰もいないうちに、息をしておきたかった。


 校門をくぐると、もう冬じゃないのに冷たい風が頬を撫でた。

 学院の朝はいつも整っている。整っているぶん、少しでもズレがあると目立つ。目立たせないために、みんな自分を整える。整えすぎて、息が苦しくなる。

 廊下の角で陽葵が待っていた。

 今日の陽葵は、笑う前の目が少しだけ柔らかい。昨日の帰り際の話がまだそこに残っているのかもしれない。

「おはよ、透葉さん」

「おはよ」

 それだけで胸の奥が少しだけほどける。

 陽葵の“いつも通り”は、透葉にとっては救いだった。

 準備室の前で陽葵が鍵を回す。

 カチ、という音。扉が開く。匂いが流れる。紙と木と絵具。

 そして——机の端に、小さな消しゴムが置かれていた。

 白い包装。小さな文字。

 ほんのり甘い匂いが空気の隙間に混ざる。

 透葉は足を止めた。

 たったそれだけで、胸がじんとした。こんな小さなものが、“ここに私はいます”の印になる。小さすぎて、泣ける。

 陽葵が小さく言った。

「……来たんだね」

 声がいつもより優しい。

 透葉は頷いた。言葉にすると壊れそうだった。

 柚羽の姿はない。

 匂いだけが先に来ている。匂いが居場所を作る。居場所が先に扉の内側に根を張る。そういうこともあるんだと思ってしまう。


 透葉は机の端に昨日挟んだ付箋のコピー代わりにメモを置くでもなく、ただ、消しゴムの位置を少しだけ整えた。

 乱暴に触るのが怖い。柚羽の“好き”が崩れてしまう気がした。

 陽葵が笑って言う。

「透葉さん、なんか神棚にお供えするみたい」

 透葉は即答する。

「触り方、間違えたくない」

 陽葵が少しだけ目を丸くした。

 それから、ふっと笑う。

「うん。……私も」

 そのとき、扉が控えめにノックされた。

 コン、コン。

 今までより少しだけ、音がはっきりしている。

 陽葵が「どうぞ」と言うと、柚羽が顔を覗かせた。

 今日はいつもより頬に血の色がある。あるというより、戻そうとしている努力の色。制服の襟元もきちんとしている。目は少し赤い。眠れなかったのかもしれない。

 柚羽は二人を見て、少しだけ息を吐いた。

「……おはようございます」

「おはよう」

 陽葵が返し、透葉も頷く。

 柚羽は机の端を見て、消しゴムに気づいた。

 その瞬間、柚羽のまつ毛が小さく揺れた。揺れ方が昨日までの“怯え”とは違う。恥ずかしいときの揺れ。

「……置きました」

 柚羽は小さく言った。

 “置きました”の言い方が、許可を求めるものではなく報告に近い。自分で決めた人の声。

 陽葵が嬉しそうに頷く。

「うん。いい匂い」

 透葉は雑に付け足す。

「甘いね。普通に食べられそう」

 柚羽が一瞬だけ困った顔をして、それから小さく笑った。

「……食べないでください」

 透葉は反射で返す。

「いや、食べないけどさ」

 陽葵が笑う。

「透葉さん、平気な顔して食べそうだよね」

 透葉は無表情で言う。

「それ偏見だから」

 柚羽の笑いが少しだけ大きくなる。

 その笑いが準備室の匂いと混ざって、空気が少し柔らかくなった。


 昼休みの時間は短い。

 それでも今日はプリント整理じゃなくて、先ず食べることに集中した。陽葵がそう決めた。柚羽が今日はちゃんと弁当箱を開けられるかどうか、それが最優先だと。

 柚羽は箸を持って、少し迷って、それから一口食べた。

 咀嚼する。飲み込む。

 それだけの動作が透葉には奇跡みたいに見える。奇跡などと大袈裟なようだが、それくらい嬉しかった。

 陽葵が不意に自然な声で言った。

「昨日、帰ったあと……大丈夫だった?」

 柚羽の手が止まる。

 止まって、それから小さく頷く。

「……はい。……玄関まで来てくださったので」

 透葉は言葉の端を拾うみたいに言った。

「来たから、大丈夫だった……」

 柚羽が透葉を見る。

 その目が少しだけ驚いて、次にゆっくり柔らかくなる。

「……はい」

 “はい”と言う返事が今日は軽い。


 ところが、チャイムが鳴る少し前。

 廊下の方が騒がしくなった。足音が増える。笑い声が増える。

 こちらの扉の前では声が少しだけ落ちる。

 透葉は嫌な予感がした。

 匂いが変わる。噂の匂い。視線の匂い。

 扉の向こうで、誰かがわざとらしく言った。

「え、あそこさ、なんか“仲良しごっこ”してるらしいよ」

 別の声が笑う。

「美術準備室? あそこ、暗いしね。好きそう」

 言葉は直接こちらを指していない。

 卑怯だ。直接じゃないのに刺さる。だからこそ抗議しづらい。抗議したら“自意識過剰”だと言われて終わるやつだ。

 柚羽の箸が止まった。

 止まって、握りしめられる。指先が白い。

 陽葵が柚羽の箸先ではなく、柚羽の目を見る。

 そして、ほんの少しだけ首を振った。

 “聞かなくていい”の合図。

 透葉は胸の奥が熱くなって、扉を開けそうになった。

 開けて、何か言ってしまいそうになった。

 でも、言ってしまうと相手のルールにハマる。昨日、自分を戒めたばかりだった。


 透葉は息を吸って、吐いた。

 息を吐いて、代わりに低い声で言った。

「雑音」

 陽葵が小さく頷く。

「だね。……真壁さん、気にせず食べよ」

 柚羽の喉が動いた。飲み込んだ。

 それから、もう一口食べた。

 透葉はその一口に、胸の奥がじんとした。柚羽は今、雑音の中で自分の生活を守っている。


 チャイムが鳴る。

 三人は準備室を出た。出るとき、透葉は鍵を回す陽葵の指先を見た。指先は落ち着いている。なのに、肩は少しだけ硬い。

 廊下に出た瞬間、視線が刺さった。

 刺さって、すぐ逸れる。

 逸れる速さが噂の燃え方を教えてくる。

 柚羽は俯いて歩いた。

 足は止まらない。止まらないことが今日の勝ちだ。


 午後の授業。

 透葉はノートを取りながら、耳だけが勝手に拾う言葉に腹が立って仕方がなかった。

「笹波さん、最近変じゃない?」

「あの人と一緒にいるからじゃない?」

「一年、告げ口したんでしょ」

「先生に言うの、だるいよね」

 だるい。

 透葉はその言葉が嫌だった。

 誰かの痛みを“だるい”で片づける軽さが許せなかった。でも昔、その輪の中で同じように笑っていなかったと言い切れない。それがいちばん苦しかった。


 放課後、陽葵はまた練習を短く切り上げた。

 それだけで、陽葵の中の“何か”が揺れるのが透葉にはわかった。それを見せないように、陽葵は笑っている。笑いの中で呼吸が少しだけ浅い。

「帰ろっか」

 陽葵はそう言った。

 柚羽は小さく頷く。透葉も頷く。

 三人で校門へ向かう途中、透葉はふと、少し先の昇降口付近に見覚えのある“気配”を感じた。

 気配というより、匂い。香水の匂い。甘い匂い。

 周囲の空気がその人を避けるみたいに、ほんの少しだけ道が割れる。

 透葉は視線をそちらへ向けてしまう。

 そこにいたのは、同級生——透葉が元いたグループの子だった。

 髪型が整っていて、笑い方が上手で、周囲の女子が自然に寄っていく種類の子。

 “高い場所”の空気をまとった子。

 その子が誰かと話していた。

 その話し相手が透葉の目を止めた。

 一年生。

 背が少し高くて、姿勢がきれいで、顔立ちが整っている。制服の着こなしが“きちんと”しすぎている。

 それが似合う人。なのに、目の奥が冷たい。

 その一年生が視線をこちらへ投げた。

 投げたというより、置いた。

 その視線が透葉のピアスと、陽葵の顔と、柚羽の俯いた頭を順番に撫でるみたいに通っていく。

 透葉の背中が冷えた。

 視線が痛いわけじゃない。“計算”を含んでいるのがわかるからだ。

 陽葵が透葉の視線の先に気づいた。

「……透葉さん?」

 透葉は声を落として言った。

「あの辺、見たことある」

 陽葵が小さく眉を寄せる。

 柚羽は気づいていない。気づかせたくもない。

 その一年生はもう一度こちらを見て、ふっと笑った。

 笑い方がきれいすぎて、透葉は胃が冷たくなる。

 きれいな笑いは噂を綺麗にする。綺麗にした噂は正しい顔で人を殺す。

 透葉は思った。

 波が別の形で来る。

 靴やプリントや付箋じゃない。もっと“学院そのもの”の形で来る。


 校門を出たところで、柚羽が小さく言った。

「……今日、準備室……いい匂い、しました」

 透葉は一瞬言葉が詰まった。

 匂いは居場所の印だ。

 その印が柚羽にとって誇りに近いものになり始めている。

 陽葵が笑う。

「うん。いい匂い。明日もきっとするよ」

 柚羽が小さく頷く。

「……明日も、行きます」

 “行きます”。

 その言い方が透葉の胸を少しだけ温かくした。

 でも、その温かさのすぐ裏に、冷たいものが張り付く。

 透葉はさっきの一年生の視線を思い出す。

 そして、元いた輪の匂いも思い出す。

 輪は何かを潰すときほど静かだ。

 大声は出さない。証拠は残さない。

 ただ正しい顔で、じわじわ居場所を削る。


 家へ向かう途中、陽葵が歩幅を少しだけ落とした。

 その瞬間、足元がわずかに揺れる。ほんのわずか。見逃せる程度。

 でも透葉は見逃さなかった。見逃せなかった。

「陽葵」

 透葉が名前を呼ぶと、陽葵が「ん?」と返す。

 返し方はいつも通り。それが、逆に怖い。

 透葉は言葉を飲み込んだ。

 “病院”。“大丈夫”。“多分”。

 その続きを言うには、今日はまだ早い気がした。

 透葉は代わりに、雑に言った。

「無理しないで」

 陽葵が小さく笑う。

「透葉さんもね」

「私は元々無理なんてしない」

「してるよ」

 陽葵の即答。

 透葉は反論できなかった。

 それが少しだけ悔しくて、少しだけ嬉しかった。


 誰かに指摘されるほど、自分は今、ここにいる。

 居場所を持ってしまっている。

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