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16 いい匂いの

 準備室へ戻る廊下は、さっきまでよりも長く感じた。

 何かが変わったわけじゃない。掲示物の並びも、窓から入る光も、床の擦れた艶も同じだ。なのに、同じ廊下が違う道に見える。


 先生に言った。

 言ってしまった。

 言ったことで、柚羽の世界は少しだけ動くかもしれない。けれど、動いたぶんだけ、相手の世界も動く。透葉はそれを知っている。知っているから、胸の奥が落ち着かない。

 途中ですれ違った一年生が透葉たちの方を見て、すぐ目を逸らした。

 逸らした目線の速さが嫌な“知ってる”を含んでいる。

 まだ何も噂になっていないはずなのに、すでに噂の匂いがする。学院は息をするみたいに噂を回す。


 陽葵は歩きながら、いつもの顔に戻ろうとしていた。

 戻ろうとして、戻りきれていない。口角は上がっているのに、目だけが冷えている。透葉はそれを見るのが少し怖かった。陽葵の“正しい顔”が、守るための鎧になっているのがわかってしまうからだ。

 準備室の扉の前で陽葵が鍵を回す。

 カチ、と小さな音。

 扉が開く。

 匂いが流れ込む。紙と木と絵具の匂いに溶け込んでいく。

 透葉はその匂いの中に戻った瞬間、肩が少しだけ落ちるのを感じた。ここは息ができる。息ができる場所は何よりも貴重だ。

 柚羽は部屋に入った途端、机の端に手をついた。

 立っているのがやっとの、膝が笑いそうな立ち方。踏ん張りたいのに、踏ん張れない。踏ん張ろうとするだけで疲れる。

 陽葵がすぐに椅子を引いた。

「座って」

 柚羽は反射で首を振りかけた。

 でも、止めた。

 止めて、ゆっくり座った。座る動作が今日は“逃げ”じゃなく“許可”に見えた。座っていい、と自分に言えた動き。

 透葉は机の上の何もないスペースを見た。

 昨日まであったプリントの束も弁当箱もない。空っぽの机は柚羽の胸の中みたいで嫌だった。

 透葉は鞄を下ろし、いつものパンの袋を取り出した。

 乱暴に置かない。昨日の反省を思い出して、少し丁寧に置く。

 陽葵がそれを見て小さく笑う。

「透葉さん、学んだね」

 透葉は無表情で返す。

「……今日は真面目も担当するから」

 柚羽がほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑いきれない笑い。けれど、呼吸を戻せるだけの笑い。

 陽葵は柚羽に視線を落として言った。

「先生、聞き取りするって言ってたよ。……怖い?」

 柚羽は一瞬だけ肩を震わせて、ゆっくり頷いた。

「……怖いです」

 “怖い”と言えた。

 透葉の胸の奥がじわっと熱くなる。柚羽の盾の言葉、“大丈夫”が少しだけ剥がれた。

 陽葵が頷く。

「うん。怖いよね。……でも、今日は一人じゃない」

 透葉は言葉を足そうとして、結局雑に言った。

「怖いのが普通」

 柚羽が透葉を見る。

 透葉は視線を逸らさずに続ける。

「……怖くないふりする方が、疲れるし」

 柚羽のまつ毛が小さく揺れた。

 泣きそうなのを我慢する揺れじゃない。何かが心の中に落ちたときの揺れ。


 昼休みの残り時間は短かった。

 でも、短いからこそ、やることはシンプルにした。

 陽葵が小さなメモ帳を出して、「これ、今日の先生の話、覚えてる範囲で書こう」と言い、透葉がそれを見て「忘れるなら忘れるでいい。誰も責めないから」と雑に釘を刺す。柚羽は最初ペンを持つ手が止まっていたが、陽葵が「一行でもいい」と言うと、小さく頷いてペン先を動かした。

 一行。

 二行。

 それだけで、柚羽が“自分の言葉”で現実を置ける場所ができる。透葉はその事実に少しだけ救われた。

 昼休みの終わりのチャイムが鳴る。

 いつもならこの音は嫌いだった。ここにいられる時間が終わる音だから。

 でも今日は別の意味もあった。次の時間が来る。次の時間まで、柚羽はまた別の場所に戻る。世界が切り替わる。

 柚羽が立ち上がるとき、少しだけ足元がよろけた。

 透葉は反射で手を出しかけて、止めた。止めた理由は、自分でもよくわからない。触れたら壊れそうだと思ったのか、触れたら柚羽の“怖い”が増えると思ったのか。

 陽葵が代わりに椅子の背を軽く押して支える。

 触れ方が上手い。押しつけない。支えているのに支えていないふりができる。透葉はそれを真似できない。できないことが悔しい。


 廊下へ出ると、空気がまた薄くなる。

 透葉は呼吸を浅くしたまま歩く柚羽を横目で見た。柚羽の歩幅は少し小さい。でも、昨日よりは前を向いている。前を向いていること自体が今日を戦っている証拠だ。


 午後の授業のあいだ、透葉は何度もペンを止めた。

 黒板の文字が頭に入らない。入らないまま、耳だけが周囲の囁きを拾ってしまう。

「……あの子、呼び出し?」

「……先生に言ったらしいよ」

 言葉は小さく、でも十分に刺さる。

 透葉は机の下で指を握りしめた。握りしめているのに、爪が掌に食い込む感覚が遠い。怒りも、怖さも、全部が鈍い。

(噂が回ってる)

 透葉は思う。

 回るのが早すぎる。

 先生の聞き取りが始まる前に、もう“空気”が作られている。つまり相手側は、すでに根回しをしているか、少なくとも“いつもの形”で動ける連中がいる。

 そして透葉は、自分の過去の輪郭が、また嫌な形で浮かぶのを感じた。

 こういうとき、輪の中の人間は“正しさ”を装う。

「かわいそう」って顔をして、「でも本人にも原因あるんじゃない?」って言う。

 そういうやり方が、相手を一番孤立させる。


 放課後、陽葵が先に言った。

「今日は練習、短くする」

 それは陽葵にとって大きな決断だ。

 結果がすべての人が、自分のルーティンを削る。削ってでも、柚羽の横にいることを選ぶ。透葉はその選択が眩しくて、同時に少し痛かった。

 柚羽は申し訳なさそうに口を開きかけた。

 でも、透葉が先に言った。

「……禁止」

 柚羽がきょとんとする。

 透葉は続ける。

「迷惑と、すみません、今日も禁止だから」

 陽葵が笑う。

「透葉さん、ルール増やすの好きだね」

 透葉は無表情で返す。

「増やしてないし。勝手に守るだけ」

 柚羽が小さく頷いた。

 頷いたとき、肩が少しだけ落ちた。緊張が少し抜けたからかもしれない。


 校庭の端で陽葵の練習を待ちながら、透葉は柚羽の手元を見た。

 指先が膝の上でぎゅっと絡まっている。

 絡まった指が白い。

 透葉は昨日からずっと見ている“白さ”を思い出す。それは単に押し潰すためにあるんじゃない。壊れないためにある。

 陽葵が走り終えて戻ってくる。

 汗を拭いながら呼吸を整える。

 そして——ほんの一瞬、足元がふらついた。

 段差もない。地面は平らだ。

 それなのに、陽葵の靴が小さく空を踏むみたいに滑って、身体が前へ傾いた。

 透葉の身体は考えるより早く動いた。

 走り寄って、陽葵の腕を掴む。

 掴んだ腕の筋が驚くほど硬い。熱い。汗で少し濡れている。制服越しじゃない、生の体温が指先に伝わる距離。

 陽葵が息を呑む。

「……ごめん」

 透葉は心臓が変に鳴るのを抑えながら言った。

「謝らないで。……今日も、だね」

 陽葵は笑って誤魔化そうとした。

 でも笑いが少しだけ遅れた。

「今日は、ほんと変」

 透葉は陽葵の顔を見る。

 笑っているのに、目が全然笑えていない。

 透葉はその目の奥にある焦りを見てしまって、胸がきゅっと縮んだ。

 柚羽が震える声で言う。

「……笹波先輩、無理、しないで……」

 陽葵は即座に答える。

「してない。……してないよ」

 その“してない”は、陽葵の盾だ。

 柚羽の“大丈夫”と同じ種類の言葉。

 透葉は二つの盾が同じ形をしているのを見て、胸の奥がざわつく。盾は必要だ。でも盾だけでは、いつか持たない日が来る。

 透葉は腕を離してすぐ、陽葵の手首の脈に触れそうな距離まで手を伸ばし、ぎりぎり止めた。

 触れたら、透葉の方が壊れそうだった。

 近すぎると、心臓の音が相手に聞こえてしまう気がする。

 陽葵が咳払いみたいに息を吐く。

「……帰ろ。真壁さん、送るね」

 “送る”の言い方が、今日は少しだけ強い。

 陽葵は自分のふらつきを誤魔化すように、目的を前に押し出している。透葉はそれを責めない。でも、もう見ないふりもしないと決めた。


 帰り道、三人はいつもより人通りのあるルートを選んだ。

 商店街。明るい道。店先の匂い。

 それだけで少し楽になる。相手の影が、光の中では薄くなる気がするからだ。

 柚羽の家の近くまで来たとき、陽葵が不意に言った。

「真壁さん、明日……準備室に何か置こうか」

 柚羽が目を丸くする。

「……何か?」

 陽葵は少し考えて言う。

「真壁さんが、“ここにいる”って分かるもの」

 柚羽はすぐに「そんな」と言いかけて、止めた。

 止めて、ゆっくり言った。

「……置いても、いいんですか」

 “置いてもいい”。

 その言い方が透葉の胸に刺さった。柚羽にとって、居場所はまだ“許されるもの”でしかないのだ。

 透葉は少し乱暴に言う。

「だめって誰が言うの」

 陽葵が柔らかく補う。

「私たちがいいって言う。先生も準備室、使っていいって言ってる。……だから、置いていいんだよ」

 柚羽はしばらく黙ってから、ほんの小さく頷いた。

「……私、消しゴム……好きなんです。ちょっと、いい匂いの」

 それはちょっとした”秘密”みたいな声だった。

 それが透葉と陽葵に渡された。その瞬間、透葉の胸の奥が温かくなる。柚羽が“自分の好き”を出した。出せた。日常の芯がそこにある。

 陽葵が嬉しそうに笑う。

「いいね。じゃあ、準備室に置こう。真壁さんのいい匂いのやつ」

 透葉はすかさず突っ込む。

「言い方がなんか変」

 陽葵が笑う。

「じゃあ、真壁さんの“好き”な匂い」

 柚羽がほんの少し笑った。

 笑いながら、目尻が少しだけ濡れた。


 柚羽の家の前。

 玄関まで見届けて、扉が閉まる。

 閉まった瞬間、透葉はいつも通り胸の奥が冷える。守る壁が一枚減る。

 陽葵が透葉にだけ小さく言った。

「……透葉さん、さっき、ありがとう」

 透葉は無表情で返す。

「……別に」

 陽葵が歩き出しながら、少しだけ笑った。

「別に、って言うときの透葉さん、だいたい本気だよね」

 透葉は反射で言い返しかけて、やめた。

 言い返すと、軽くなりすぎる。今日は軽くしたくない。軽くできない。

 駅前の明るいところまで戻ったとき、陽葵がまた一瞬だけ足を止めた。

 止めたというより、止まりかけた。

 目を閉じて、ほんの一瞬だけ呼吸を整える。

 それは、走り終えた後の呼吸の整え方じゃなかった。もっと小さい、隠すための整え方。

 透葉は言葉を選ばずに言ってしまう。

「……病院、行ってる?」

 陽葵が瞬きをした。

 その瞬きの間に、“正しい顔”が揺れた。

「……え」

 透葉は視線を逸らさず続ける。

「何でもないとこで、つまずきすぎ。……走ってるときの疲れとかじゃないよね」

 陽葵は笑おうとした。

 でも笑いが、うまく形にならなかった。

「……大丈夫。多分」

 “多分”。

 透葉の胸の奥が冷えた。

 “多分大丈夫”は、いちばん危ない言い方だと、透葉は知っている。

 透葉は少しだけ声を落とした。

「……大丈夫じゃなかったら、私が困る」

 言ってから、透葉は自分の言葉に驚いた。

 困る、なんて。

 自分のための言葉を誰かに向けて言った。

 陽葵はその一言で、目を丸くして、それから小さく笑った。

 その笑いは、今日初めて少しだけ柔らかかった。

「……うん。じゃあ、今度、一緒に行こうかな」

 透葉は胸の奥が熱くなるのを感じて、すぐ雑に誤魔化した。

「今度って言うやつ、だいたい行かないでしょ」

 陽葵が「透葉さん、ほんとしつこいね」と笑う。

 その笑いに透葉は少しだけ救われた。なのに、胸の奥の冷えは消えない。


 日常は守ろうとすると薄くなる。

 それでも、守りたいと思ってしまう。

 その瞬間に、もう戻れないところへ行っている気がする。

 透葉は駅の改札の前で陽葵と別れた。

 背中を見送るとき、陽葵の歩幅はいつも通りだった。いつも通りに見える。

 見えるだけで、安心してはいけない。透葉はそう思ってしまう。


 家へ向かう電車の窓に、自分の顔が薄く映った。

 薄い。輪郭が曖昧。

 でも、今日は少しだけ違う。

 誰かの居場所を守る側に立ってしまった。

 そして、自分の居場所も、いつの間にかそこに重なってしまった。

 明日、準備室に置かれる消しゴムの匂いが柚羽の“居場所”の証になるならいい。

 その小さな匂いが、波に掻き消されなければいい。

 透葉はそう願いながら、スマホを見ないままポケットに入れた。

 それは逃げだ。

 逃げでも、今はいい。


 明日また、息ができる場所へ行くために。


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