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15 死んだふり

 柚羽の家に近い道は少しだけ静かだった。

 住宅街。道路は細い。街灯はあるけれど、光が途切れる場所がある。途切れる場所に入るたび、柚羽の歩幅が小さくなる。


 透葉は昔の輪のやり方を思い出してしまう。

 こういう場所を選ぶ。人通りが少なくて、逃げ道が少なくて、声が届きにくい場所。体育館裏が選ばれる理由と同じだ。選ぶ側は、そういう条件を無意識に嗅ぎ取る。嗅ぎ取って、そこに追い込む。

(やり口が同じ)

 透葉は奥歯を噛みしめた。

 腹が立つ。昔の自分がどこかで“わかってしまう”のが何よりも嫌だった。

 柚羽のスマホがまた震えた。

 ぶる。

 柚羽が反射で握りしめ、画面を見ないまま固まる。

 陽葵がすぐに言う。

「見なくていい。……今は、見ないで」

 透葉はつい覗いてしまった。

 覗くつもりはなかった。でも、視界に入ってしまう。

 短い文。

 ——『先生に言ったら、もっと困るよ』

 “もっと”。

 透葉の背中が冷える。脅しだ。脅しを甘い顔のまま投げてきてる。

 透葉は頭の中で勝手に“次の動き”を予測してしまう。

 相手は今、柚羽が一人じゃないことに焦っている。だから言葉で縛る。そして孤立させる。孤立した瞬間を狙う。——それは透葉がかつて見て見ぬふりをした“ゲーム”の進め方だった。

 陽葵が静かに言った。

「真壁さん。……これから、帰り道は絶対一人にならないで」

 柚羽が小さく首を振る。

「……でも、先輩たちが……」

 透葉が被せる。

「私たちが困るのは、今だけ」

 言ってから、自分の言い方が強すぎたことに気づいて、透葉は少しだけ息を吐いた。

「……こっちが困らないようにする」

 柚羽の目が揺れる。

 理解したいのに、怖い。頼りたいのに、申し訳ない。そんな揺れ方。


 家の近くの角で、柚羽が立ち止まった。

「……この先、すぐです。……本当に、ありがとうございました」

 “ありがとうございました”は、柚羽の中で精一杯の“ここまででいい”だ。

 でもここで離したら、帰宅までの最後の数十メートルで何かが起きるかもしれない。あるいは起きないかもしれない。起きないことを祈って手を離すことは透葉にはできなかった。

 透葉は言った。

「玄関まで行く」

 柚羽が目を見開く。

「……え」

 陽葵がすぐに乗る。

「玄関まで。すぐそこなら、迷惑じゃないよね」

 透葉は小声で突っ込む。

「迷惑禁止、継続中?」

 陽葵も小声で返す。

「もちろん継続中」

 柚羽が困った顔のまま、小さく頷いた。

 困った顔。拒否できない顔。でも、それは弱さじゃない。今はただ、生きるための形をしている。


 三人で角を曲がる。

 その瞬間、少し後ろの電柱の影に制服の裾が揺れた気がした。

 透葉の胃が冷える。

 気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。でも、ただ気のせいで済ませたくない。

 玄関の前に着くと、柚羽は鍵を出す手が震えた。

 鍵穴に鍵が入らない。そのまま、呼吸が浅くなる。

 透葉は何も言わずに横に立った。

 ただ見守る。手伝ったら、柚羽はもっと小さくなる気がしたから。見守ることしかできない。今の柚羽にはそれが必要だ。

 ようやく鍵が回り、扉が少し開いた。

 柚羽は振り返り、深く頭を下げる。

「……本当に、ありがとうございました」

 陽葵が笑う。

「また明日。……準備室でね」

 透葉は言うべき言葉を探して、結局事実に落ちた。

「スマホ、鳴っても無理して見ないで」

 柚羽の目が少しだけ丸くなる。

 それから、ほんの小さく頷いた。

「……はい」

 柚羽が家に入る。扉が閉まる。

 閉まった瞬間、透葉は胸の奥が一気に冷たくなるのを感じた。外の世界に戻った。透葉を守る壁が一枚減った。

 陽葵が透葉の隣で小さく息を吐く。

「……ついてきてる」

 透葉は頷いた。

 やっぱり。気のせいじゃない。


 透葉は振り返りたい衝動を抑えた。

 でも今日は負けでもいいと思った。確認しないまま帰る方が怖い。

 透葉が振り返るより先に、陽葵が背筋を伸ばして振り返った。

 正しい子の顔。正しい姿勢。正しい視線。

 それだけで、見えない相手に“見えてる”と伝えるための態度になる。

 少し離れた曲がり角の向こう。

 誰もいない。なのに、空気だけが薄く揺れている気がした。

 “逃げた”のか、“隠れた”のか。どちらにしても嫌だ。

 陽葵が透葉にだけ聞こえる声で言った。

「明日、先生に言う。付箋と通知、両方とも」

 透葉は一瞬、言葉に詰まった。

 言ったらもっと酷くなる。柚羽が言いかけた言葉。

 でも、言わなければ終わらない。終わらないどころか、相手はさらに調子に乗る。透葉はそれを知っている。だから頷いた。

「言うなら、三人で。証拠もぜんぶ出す」

 陽葵が頷く。

「うん」


 帰り道、二人は少しだけ足早になった。

 足早になると、陽葵の呼吸が少し乱れる。乱れ方がさっきのつまずきと繋がって見える。

 透葉はそれを見ないふりにしなかった。

「さっきの、ほんとに危なかった」

 陽葵が苦笑する。

「しつこいよ」

 透葉は無表情で返す。

「現実担当だから」

 陽葵が小さく笑って、でも視線は前を向いたままだった。

「……大丈夫。ほんとに」

 透葉はその言いわけが怖かった。

 でも、今はそれ以上踏み込めない。踏み込めば、陽葵の“正しい顔”が崩れるかもしれない。そしたら、陽葵は自分を責める。陽葵はそういう人だ。

 代わりに透葉は決める。

 明日から、陽葵の足元も見る。柚羽だけじゃなく。

 三人のうち誰かが倒れたら、今の居場所は一気に崩れる。崩したくない。そう思ってしまう自分が、すでに前に進みすぎている気もする。


 駅前の明るい場所に戻ったとき、透葉はほんの少しだけ呼吸が戻った。

 でも胸の奥には冷たいものが残ったままだった。

 体育館裏という場所は避けられても、影となる場所は日常の中にいくらでもできてしまう。

 透葉は思う。

 今日起きたことは事件じゃない。

 誰かの心を削るだけの、いつもの日常の続き。

 だからこそ厄介で、だからこそ止めなければならない。

 明日、準備室の匂いがまた同じように“逃げ道”であってくれる保証はない。

 それでも透葉は逃げ道を守る側に立ってしまった。


   *


 翌朝、透葉はいつもより早く目が覚めた。

 目覚めた、というより、眠りが浅いまま朝になった。カーテンの隙間から差し込む光が薄くて、部屋の輪郭がぼやけている。なのに、胸の奥だけが妙に冴えている。

 スマホは見ない。

 見たら何もないことが確定する。でも何もないことに慣れすぎて、逆に今は何かある方が怖い。柚羽の通知みたいに、見たくないものがそこにあるかもしれないと思うと、指が動かない。


 学校へ向かう道で、透葉は何度も空を見た。

 晴れている。でも光が冷たい。冷たい光は陰を濃くする。体育館裏みたいな影が、どこにでも生まれる。

 校門をくぐると、いつもの匂いがした。

 服に付いた柔軟剤、整髪料、微かな香水。

 その匂いの中に今日は別のものが混じっている気がした。噂の匂い。視線の匂い。言葉にならないざわめきの匂い。

 透葉は廊下の角で陽葵を見つけた。

 陽葵はいつも通りに立っている。姿勢がきれい。髪がきれい。笑う準備をしている顔。

 でも今日は、目が少しだけ疲れているように見えた。

「透葉さん」

「うん」

 それだけで透葉の胸の奥が少しだけ落ち着く。

 陽葵がいる。今日もいる。それだけで呼吸ができる。

 準備室へ向かう廊下で、すれ違いざまに一年生の視線が刺さった。

 刺されたが、周りは見てないふりをする。

 透葉はその感じを知っている。知っているから、胸がむかつく。それと同時に怖い。あの輪の“外側”に立つ怖さ。


 準備室の扉の前に着くと、陽葵はいつもよりゆっくり鍵を回した。

 ゆっくりなのは丁寧だからじゃない。扉の向こうに何があるかわからないからだ。透葉の気持ちも同じだった。

 扉が開く。

 匂いが流れる。紙と木と絵具。

 そして、柚羽は——いない。

 机の上には、昨日までのプリントの束もない。弁当箱もない。

 空っぽ。きれいな空っぽ。

 “最初から誰もいませんでした”みたいな空っぽ。

 透葉の胸がすっと冷えた。

 陽葵も一瞬固まる。固まっても、すぐに動く。陽葵はポケットの中のスマホに触れた。

「連絡する」

 陽葵が言う。

 昨日交換した連絡先。唯一の手すり。

 透葉は頷いた。

 陽葵がメッセージを打つ指がほんの少しだけ速い。焦っている。でも顔は崩さない。それが陽葵の癖だ。

 数秒。

 スマホが震える。陽葵が画面を見て、目が一瞬で曇る。透葉はその曇りを見て、胸の奥がさらに冷たくなる。

「……真壁さん、来ないって」

「理由は」

 透葉が聞くと、陽葵は短く首を振った。

「『大丈夫です』って」

 大丈夫。

 透葉は奥歯を噛みしめた。大丈夫じゃないときほど言う言葉。盾。盾が固くなるほど、身体の中は傷だらけになる。

 透葉は考える前に言っていた。

「探す」

 陽葵が頷く。

「うん。……探そう」


 廊下へ出る。

 どこに行くかは透葉の中ですぐに決まった。昨日の付箋。体育館裏。行かない、と言った場所。だからこそ、相手はそこに行かせたい。柚羽はそこへ追い込まれている可能性がある。

 透葉は走り出しそうになって、我慢した。

 走ると目立つ。目立つと狙われる。陽葵と柚羽の世界がさらに狭くなる。透葉はその計算が嫌だ。嫌なのに、身体が勝手に計算をする。昔、輪の中で学んだ生き残り方。

 陽葵が小声で言った。

「透葉さん、体育館裏、行く?」

 透葉は短く言う。

「行かない」

 陽葵が透葉を見る。

 驚きと、少しの疑問。

 透葉は息を吸って続けた。

「そこに行くと、相手側のルールになる。……まずは見える場所から」

 自分でも驚くくらい言語化ができた。

 透葉はその言葉に自分の過去が染みついているのを感じて吐き気がした。こういう“読み”をするのは、輪の中に昔いたせいだ。輪のやり方を知っているからだ。

 陽葵は透葉の顔を一瞬だけ見て、何も言わず頷いた。

 責めない頷き。透葉はその頷きに救われる。


 二人はまず、一年の教室の階へ向かった。

 廊下はざわついている。ざわつきの中で、視線が小さく刺さる。なのに、誰も口にしない。口にしないことが、余計に噂の燃料になる。

 一年のフロアの端、非常階段。

 昨日、柚羽が座り込んでいた踊り場。透葉の胸が嫌な形で締まる。

 階段を上がると、踊り場に——柚羽がいた。

 しゃがみ込んでいるわけじゃない。

 立っている。壁にもたれている。顔は俯いている。

 それでも、立っている。

 透葉は息を止めた。

 立っているだけで、今日は“進んでいる”と感じてしまう。でも、間違いなく追い詰められている。

 陽葵が柚羽に近づく。

「真壁さん」

 柚羽の肩が震える。

 顔を上げた。怖いはずなのに、上げた。目が赤い。泣いた痕。泣かなかったふりの顔。

「……笹波先輩……彩瀬先輩……」

 声がかすれている。

 透葉は喉が痛くなる。柚羽が“行かない”と決めたのに、結局こちらが来てしまった。自分がここにいることが、柚羽の盾を薄くしたのかもしれないと思ってしまう。

 陽葵が声を落とす。

「大丈夫じゃないよね」

 柚羽は反射で首を振りかけて、止めた。

 止めた瞬間、唇が震えた。震えたまま、やっと言う。

「……体育館裏に、来いって……」

 透葉の胸が冷え切る。

 やっぱり。

 すでに頭の中で“わかっていた”ことが悔しい。でも、今は悔しさを感じている場合じゃない。

 陽葵が静かに言った。

「行かない。……行かせない」

 柚羽が小さく言う。

「……でも、行かないと……」

 透葉が言ってしまった。

「行かないと、何?」

 声が少し強く出た。

 柚羽がびくりとする。透葉はすぐに後悔する。強い声は柚羽を怯えさせる。

 透葉は息を吐いて、声を落とした。

 「ごめん。でも、言って。何をされるのか」

 柚羽は俯いて、指先を絡めた。

 絡めた指が白くなる。

 その白さが透葉の胸を抉る。

 柚羽は絞り出すように言った。

「……机の中に……紙が……。『死んだふりしないで』って……」

 透葉は一瞬、言葉を失った。

 “死んだふり”。

 その残酷さが胸に刺さる。死んだふりなんて、誰が好んでするか。誰がしたい。そんな言葉を、ただの嫌がらせとして投げる軽さが許せない。

 陽葵の顔から、ほんの一瞬だけ“正しい笑顔”が消えた。

 代わりに何もない表情が出る。空っぽの怒り。透葉はその表情を初めて見た気がした。

 透葉は歯の奥で息を吸った。

 怒りが身体の中で熱になる。声にすると壊れそうで怖い。透葉は壊れるのが怖い。でも今は、壊れてもいい瞬間があるのかもしれない、とも思ってしまう。

 陽葵が先に言った。

「先生に言おう」

 柚羽の顔が青くなる。

「……だめです……」

 透葉は柚羽の言葉を遮らないように、ゆっくり言った。

「言う。今日。今。じゃないと手に負えなくなる」

 柚羽が首を振る。

 振りながら、涙が落ちる。拭わない。拭う余裕がない。

 透葉はその涙を見て胸が痛む。でもここで引いたらもっと痛くなる。

 陽葵が柚羽の目を見て言った。

「真壁さん。怖いのはわかる。……でも、今はもう危ない状況なの」

 危ない。

 かなり強い言葉。今の私たちにとって、いちばん強く、正しい言葉だ。

 柚羽は唇を噛んで、やっと頷いた。頷きが小さく震えている。


 三人は職員室へ向かった。

 途中、廊下の角を曲がる瞬間、陽葵がまた少しだけ足をもつれさせた。

 ほんの一瞬。つまずく。転びそうになる。透葉は反射で陽葵の腕を掴んだ。

 陽葵の体重が指先に乗る。

 また、以前と同じ距離。

 透葉の心臓が嫌な鳴り方をする。現実的な不安の鳴り方。

「……また?」

 透葉が小声で言うと、陽葵は笑って誤魔化そうとした。

「ほんと、今日は変だね」

 透葉は笑えなかった。

 変だね、で片づけていい感じじゃない。透葉は陽葵の腕を離す直前、少しだけ強く握ってしまった。握った指先が熱い。


 職員室で昨日と同じ先生に事情を話した。

 付箋。通知。机の中の紙。呼び出し。

 先生の顔色が変わる。今度は“面倒”じゃない怒りが見えた。少なくとも、透葉にはそう見えた。それが救いだった。

 先生は言った。

「……こちらで対応する。真壁さん、今日は早退する? 保護者には連絡しておく」

 柚羽がびくりとして、首を振りかける。

 保護者。家庭。そこにも、柚羽の恐怖がある。

 透葉は柚羽の返事が出る前に言った。

「先生、保護者じゃなくてもいいですか。……帰りは、私たちが送ります。今日はまず、学校の中の安全を……」

 自分がこんなふうに言えることに、透葉自身が驚いた。

 でも言葉は止まらなかった。言わないと何も変わらない。変わらないことの方がもっと怖い。

 先生は少し考えてから頷いた。

「わかった。帰り道だけど、こちらも見回りをしてみる。……それから、該当の生徒の聞き取りもする」

 聞き取り。

 その言葉を聞いて、透葉は胸の奥が少しだけ震えた。相手がどんな顔で嘘をつくのか、透葉は知っている。知っているのに、言えない。言ったら、自分の過去が露出する。


 職員室を出ると、柚羽の足元がふらついた。

 陽葵が支える。透葉は手が出なかった。手を出すと、柚羽が壊れそうで怖い。

 代わりに透葉は言った。

「今日は準備室行こう。先ずは人のいるところで息しよう」

 柚羽が小さく頷いた。

 言葉が柚羽に届いたのがわかった。その様子に少しだけ胸が温かくなる。

 準備室に戻る途中、透葉は陽葵の足元を見た。

 陽葵の歩き方はいつも通りに見える。でも、ほんの少しだけ不安定な瞬間がある。本人が気づかない程度の揺れ。透葉だけが気づく揺れ。透葉は胸の奥で嫌な予感を握りしめた。

(変じゃない。偶然じゃない)

 言葉にはしない。

 言葉にしたら、陽葵の“正しい顔”が崩れるかもしれない。

 でも、透葉は決める。見ておく。ちゃんと見ておく。柚羽の波だけじゃなく、陽葵の波も。

 日常を守るために。


 そして、日常の中に隠れた“終わり”を、できるだけ遅らせるために。


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