13 待ってました
翌日の昼休み。
透葉は教室のチャイムが鳴る前から鞄を整えていた。整える、というより、逃げる準備をしていた。準備室へ行くのは逃げだ。でも逃げでいい。逃げがあるから、息ができる。
廊下へ出ると、陽葵がいつもの角にいた。
今日の陽葵は笑う前の顔をしている。笑う前の顔は透葉にしか見えない顔だと勝手に思っている。たぶんそう思いたいだけ。
「透葉さん」
陽葵が呼ぶ。
透葉は頷くだけで返す。頷くだけで心が軽くなる。それだけで、今日もここへ行ける。
準備室の扉の前に立つと、陽葵は鍵を回す前に小さく息を吐いた。
昨日のこと。靴。紙。プリント。笑い声。
陽葵の中にもそれが残っているのだろう。
扉が開く。
匂いが流れる。紙と木と絵具。
そして、柚羽はもう中にいた。
机の端。
弁当箱と昨日言っていたプリントの束。束は丁寧に揃えられているのに、角が少し折れている。折れた角は昨日の波の跡だ。
柚羽は扉の音に反応し、びくりと肩を震わせた。
それでも、すぐに頭を下げる。
「……こんにちは」
昨日より少しだけ声が出た。
透葉はその小さな変化だけで胸の奥が温かくなるのを感じてしまう。そして、怖くなる。嬉しいが増えるほど、失う怖さも増えるから。
陽葵が明るく返す。
「こんにちは。プリント、持ってきたんだね」
柚羽が頷く。
「……はい。……ここなら、安心です」
安心。
その言葉が出たことが透葉には少しだけ衝撃だった。柚羽が“安心”と言える場所が、この準備室だと認めた。準備室が柚羽の居場所にもなった。透葉は胸の奥でまた小さな嫉妬の影が動くのを感じた。
(私の場所だったのに)
そう思う自分が嫌で、透葉はパンの袋を乱暴に机に置いた。
乱暴に置いた音が少しだけ大きく響いた。柚羽がびくりとする。透葉は胸が痛くなる。
透葉はすぐに声を落とした。
「ごめん」
自分でも驚くくらい素直な謝罪が出た。
柚羽が目を丸くして、慌てて首を振る。
「いえ……! ……大丈夫です」
また“大丈夫”。
透葉は胸の奥がざわつく。”大丈夫”は柚羽の盾だ。盾を外させる権利は透葉にはない。透葉はそう思う。でも、盾の裏で柚羽が傷だらけなのもわかる。
陽葵が自然に空気をずらした。
「じゃあ、食べながら整理しよ。透葉さん、パン落とさないでね」
透葉は反射で突っ込む。
「落とさないから」
陽葵が笑う。
「さっきの音で信用が下がった」
透葉は眉を寄せる。
「偏見」
柚羽がそのやり取りを見てほんの少しだけ口元を緩めた。
笑いはまだ小さい。でも、確実に増えている。
三人は机を少しずつ広く使い、柚羽のプリントを科目ごとに分け始めた。
透葉は紙の端を揃える作業が意外と嫌いじゃないことに気づく。整うと安心する。でも安心は依存に似ている。だから透葉はまた少し怖くなる。
陽葵は手際が良かった。
分類の基準をすぐ決める。英語、数学、国語、社会、理科。余白に小さくメモを書く。見た目がきれい。正しい子の仕事。透葉はその正しさに少しだけ救われる。
柚羽は最初は手を出すのを躊躇していた。
でも陽葵が「真壁さんはこれお願い」と軽く任せると、柚羽は小さく頷いて紙に触れた。触れた指先が少し震える。けれど、作業は止めない。止めずにいるのは、ここで自分の居場所を守ろうとしているからかもしれない。
透葉は柚羽のノートの端に書かれた字を見た。
細い。丁寧。けれど、どこか萎縮した字。字まで縮こまっている気がする。
陽葵が言った。
「真壁さん、字きれい」
柚羽がびくりとして、すぐに首を振る。
「……そんなこと」
透葉は雑に言う。
「……きれい。普通に読める」
柚羽が透葉を見る。
その目が少しだけ揺れる。褒められることに慣れていない動き。褒められると、どう返せばいいかわからない揺れ。
柚羽は小さく言った。
「……ありがとうございます」
透葉は返し方がわからず、パンを齧った。
パンが口の中で乾いて、少しむせる。陽葵が笑う。
「透葉さん、褒められるとすぐそうやって逃げる」
透葉はむっとして言う。
「逃げてないし」
「逃げてるよ」
柚羽がまた小さく笑った。
笑いが増える。増えるほど、透葉の胸の奥が温かくなる。
不意に廊下の方から足音が近づいた。
準備室の前を通り過ぎる足音。数人。笑い声。
柚羽の手が止まる。指先が紙の上で固まる。
透葉はその固まり方を見る。
昨日、校庭で声をかけてきた一年生たちの声が混じっている気がした。確信は持てないのに、胸の奥がすっと冷える。そして、また“見ないふり”を選びたくなる。
陽葵が何も言わずに鍵の位置を確かめるようにポケットに触れた。
柚羽の呼吸が少しだけ戻る。
足音は遠ざかった。
遠ざかったあと、準備室の中の静けさが戻る。
柚羽の指先はまだ紙の上で固まっている。
透葉は言葉を探して、結局事実しか言えなかった。
「行ったね」
柚羽は小さく頷いた。
陽葵があえて明るい声で言う。
「ほら、数学のプリント、これ抜けてる。真壁さん、次これね」
柚羽がはっとして紙に目を落とす。
作業に意識を戻す。そうできるのが、今の柚羽の強さだと透葉は思う。派手なものじゃない。こういう小さな“戻る力”も十分強みだ。
昼休みが終わりかける頃、柚羽が小さく言った。
「……先輩たち」
声が小さすぎて、最初は風の音かと思った。
透葉は顔を上げる。
「なに」
柚羽は膝の上で指を絡めた。
絡めた指が白くなる。
「……すみません。私がいるせいで……」
胸の奥が熱くなる。
やっぱり、そこに行く。柚羽は自分を原因にする。自分がいなければ、二人の世界は平和だったと思ってしまう。
透葉は言い返そうとして、言葉が詰まった。
“そんなことない”。それは綺麗すぎて嘘になる気がした。
“気にするな”。それは乱暴すぎて柚羽を傷つける。
透葉は少しだけ考えて、事実を選ぶ。
「……私たち、二人でも、別に平和じゃない」
陽葵が吹き出す。
「透葉さん、その言い方」
透葉は無表情で続ける。
「私は、いつも何かにイラついてるし。陽葵は、いつも何かに悔しがってる」
陽葵がむっとする。
「ちょっと待って、私そんなに悔しがってない!」
透葉は即座に返す。
「イルカで悔しがってた」
陽葵が「それは悔しいでしょ!」と声を上げる。
柚羽が思わず笑った。今度は声が出た。短く、はっきりと。
透葉はその笑い声を聞いて、胸の奥がふっとほどけた。
柚羽が“すみません”のまま終わらなかった。笑いで変わった。変えられた。陽葵の力と、透葉の雑さで。
陽葵が少し真面目な声に戻して言った。
「真壁さん。気にすることなんて全然ないよ。来たいならいつでも来ていいの」
柚羽が俯いて、小さく頷いた。
涙は落ちていない。けれど、喉が動いた。飲み込んだのだろう。泣きたいものを。
透葉は胸の奥に残っていた嫉妬の影が少し薄くなるのを感じた。
でも消えない。消えないままでもいい、と透葉は思ってしまう。汚い感情も含めて、自分だ。そう思えたことがちょっとした前進だった。
午後の授業。
透葉はいつもより集中できなかった。
柚羽の空っぽの靴箱。紙の言葉。校庭での笑い声。先生の“相談しなさい”。
それらが黒板の文字より鮮明に浮かぶ。
そして、透葉は自分の過去を思い出す。
かつて、透葉が無理やり属していた場所。高位カーストの輪。笑い方。呼び方。噂の回し方。
あの輪の中で、透葉は“攻撃する側”ではなかったけれど、“見て見ぬふりをする側”ではあった。
止めなかった。止められなかった。止める勇気がなかった。そのくせ、そこにいることで安心していた。安心して、誰かの痛みを踏み台にしていた。
(最低)
透葉は胸の奥でそう呟いて、ノートでシャーペンの芯を折った。
折れた音が小さく響く。隣の子がちらりと見る。透葉は視線を落とす。見られるのが怖い。けど、今は“見られた方がいい”のかもしれない、とも思ってしまう。自分だけで怖がっていては、誰かを救えない。
放課後。
陽葵の練習が終わるのを、今日は柚羽が校庭の端で待っていた。透葉も一緒に待った。
待つ時間が少しだけ“日常”になっていく。日常になるほど、波が来たときの痛みも増える。透葉はその予感を抱えたまま、夕方の空を見た。
陽葵が走り終えて戻ってくる。
汗を拭いて、息を整えて、いつもの笑い方を作る。でも今日は少しだけ疲れて見えた。
「ごめん、待った?」
透葉は即答する。
「待ってない」
陽葵が笑う。
「またそれ」
柚羽が小さく言った。
「……待ってました」
陽葵が一瞬固まり、次に嬉しそうに笑った。
「うん。ありがとう」
そのやり取りを見て、透葉は胸の奥が温かくなる。
柚羽が“言っていい”を少しずつ覚えている。陽葵はそれを受け止めるのがうまい。透葉は陽葵の器用さに救われながら、同時に少しだけ悔しさを覚えた。自分も、そんなふうに受け止めたいのに。
帰り道。
三人で歩きながら、透葉はふと背後の気配を感じた。視線。
振り返らない。振り返ったら負けだと思ってしまう。そういう癖が残っている。そういう自分が嫌だ。
陽葵が小さく言った。
「……透葉さん、気づいた?」
透葉は小さく頷く。
「うん」
柚羽の歩幅が少しだけ乱れる。
それを感じて、透葉はわざと足を止めた。
「寄り道」
陽葵が即座に乗る。
「うん。カフェ。ミルクティーで温めよっか」
透葉は突っ込む。
「またそれ」
陽葵が笑う。
柚羽の呼吸が少しだけ戻る。
背後の視線はいつの間にか薄くなる。でも、消えない。いつまでも消えないことが怖い。
透葉は思った。
波は来る。形を変えて来る。
でも、日常も相変わらず来る。日常は波に対抗する唯一のものかもしれない。笑い声。ぬいぐるみ。ミルクティー。プリント整理。そういう小さなものが、柚羽の足元を沈ませない浮き具になってくれる。
そして透葉は胸の奥でひとつだけ決める。
自分はもう“見て見ぬふり”をしない。
全部じゃなくていい。完璧じゃなくていい。
でも、せめて目の前の波だけは――。




