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12 温めても伸びない

 放課後。

 陽葵は練習があるため、柚羽を連れて校庭の端へ行くことになった。

 柚羽は最初、断ろうとしたけれど、陽葵が「待ってるだけでいい」と言って、透葉が「ひとりで帰るよりマシ」と雑に言ったら、小さく頷いた。


 校庭の夕方は少しだけ優しい。

 光が斜めで、人の顔が直接見えにくい。透葉はその時間が好きだった。でも、今日は風が冷たい。冷たさが妙に刺さる。

 陽葵は走り始める。

 フォームは相変わらず綺麗だ。なのに、時々ほんの小さく乱れる。乱れるたびに陽葵の表情が硬くなる。透葉はそれを見るたび、目を逸らしたくなる。逸らしたら駄目だとも思う。矛盾が胸の中で膨らむ。

 柚羽は校庭の端のベンチに座っていた。

 背筋が固い。手は膝の上で握られている。手の内に握りしめているのは、たぶん“自分自身”だ。自分が崩れないように。

 透葉は柚羽の横に座った。

 距離は少し空けた。でないと、柚羽が逃げる気がしたから。

 沈黙が落ちる。

 校庭の音が余白を埋める。スパイクの音、掛け声、風の音。沈黙は寂しいはずなのに、今の沈黙はどこか張り詰めている。柚羽の中に言葉が詰まっている。

 透葉はわざと別の話を投げる。

「寒い」

 柚羽が小さく頷く。

「……はい」

 透葉は続ける。

「……ミルクティー、どうだった?」

 柚羽の目が少しだけ動く。

 昨日の話題。昨日の“日常”。柚羽の顔がほんの少しだけ柔らかくなる。

「……温かかったです」

 透葉は頷いて、短く言う。

「なら、今日も飲みに行こう」

 柚羽が一瞬だけ目を丸くして、すぐに俯いた。

 俯き方が昨日より少しだけ軽い。透葉はその仕草に、胸の奥が少し温かくなる。

 その瞬間だった。

「真壁〜」

 背後から女子の声がした。

 甘ったるい声。ただの呼びかけなのに、刃みたいに尖っている声。

 柚羽の身体が硬直する。

 手が膝の上でぎゅっと握られる。呼吸が止まる。


 透葉は振り返った。

 一年生の女子が二人。さっき廊下で見た子たちだ。髪の毛は綺麗で、笑顔も綺麗。綺麗なものほど、汚いことを隠すのが上手い。

「靴、戻ってきたんだ?」

 片方が笑いながら言う。

 そういうのが、いちばん嫌だ。

 もう片方が柚羽の手元を見る。

「ねえ、プリント、落ちてたよ?」

 そう言って、何枚かのプリントをひらひらさせた。

 柚羽の顔が青くなる。透葉はその反応で察した。落ちてた、じゃない。抜かれた。机から。鞄から。どこかから。

 透葉の胸の奥で昔の記憶がひっかかる。

 こういうやり方を知っている。物を奪って、返して、また奪う。相手の生活を少しずつ崩す。崩れたところをちょっとずつ笑う。笑われた被害者は余計に縮こまる。それからは、“大丈夫です”しか言えなくなる。

 透葉は言ってしまった。

「なに? 落とし物係?」

 声が思ったより冷たく出た。

 二人が一瞬だけ表情を固める。透葉の見た目を上から下まで見て、すぐに笑いに戻す。

「え、二年の先輩だよね? 怖〜」

 怖い。

 透葉はその言葉に笑いそうになった。怖いのはこっちだ。善良ぶったバケモノたち。

 透葉は無表情で返す。

「怖いなら近づかなきゃいい」

 二人が笑う。

 笑いながら、プリントをひらひら揺らす。

「真壁、ちゃんと管理しなよ? 次はなくなっても知らないから」

 言って、二人は去っていった。

 去り際が軽い。軽くて、嫌な重みが後を引く。軽いまま人を傷つけるやり方が、いちばん残酷だ。


 プリントを受け取る柚羽の手が震えていた。

 震えを隠そうとして、余計に震える。

 透葉は何か言おうとして言葉が出なかった。

 慰めは嘘になる。怒りは柚羽を怯えさせる。正論は柚羽を追い詰める。透葉はその全部を知っているのに、どうすればいいのかわからない。

 だから透葉は、また事実に逃げた。

「プリント、折れてない?」

 柚羽がプリントを見て、頷く。

「……少しだけ」

 透葉は言う。

「折れたくらいなら直る。なくなるよりマシ」

 自分でもひどい言い方だと思った。

 でも柚羽はその言い方に少しだけ救われた顔をした。透葉の言葉は綺麗じゃない。でも、現実に近い。嘘じゃない。


 そのとき、陽葵が走り終えて戻ってきた。

 汗を拭きながら、二人の空気を一瞬で察する。

「……何かあった?」

 透葉は陽葵に全部を渡したくなった。

 渡してしまえば楽だ。でも、渡したら自分が何もできないままになる。透葉はそれが悔しい。

 透葉は短く言った。

「プリント。返された」

 陽葵の目がほんの少し細くなる。

 正しい子の顔のまま、怒っている目。

 陽葵は柚羽に声を落として言う。

「真壁さん、明日からは準備室でプリント整理しよ。あそこでやった方が安全」

 柚羽が小さく頷く。

 目が濡れている。泣きそうなのを我慢している目。透葉はその目を見るのが苦しくて、空を見る。


 夕方の空は薄い紫だった。

 紫は海の色に似ている。海に行く約束すらまだしていないのに、透葉はその色を“いつか”に重ねてしまう。


 陽葵が急に明るい声を作った。

「よし。今日はカフェ。プリントも一緒に温めよ」

 透葉は反射で突っ込んだ。

「温めても伸びないでしょ」

 陽葵が「そこじゃない!」と笑う。

 柚羽がほんの少しだけ口元を緩めた。笑いに近い呼吸が漏れる。

 透葉はその小さな変化に胸の奥が少しだけほどけた。


 波は来る。たぶん明日も来る。形を変えて来る。

 でも、柚羽は今、完全には溺れていない。

 透葉と陽葵がいる。——それは救いであると同時に、透葉にとっては新しい恐怖でもある。誰かを守る側に立つ恐怖。守れなかったときの恐怖。

 それでも透葉は歩き出した。

 柚羽の隣に。陽葵の隣に。

 自分の居場所が少しずつ広がっていく感覚を抱えたまま。

 広がるほど、失う怖さも大きくなることを知りながら。


 準備室でプリントを整理する、というのは、最初は陽葵の思いつきに聞こえた。

 “安全な場所に物を集める”。たったそれだけのことなのに、柚羽の顔は昨日より少しだけ落ち着いた。

 落ち着いた理由は、物が安全になるからだけじゃない。

 柚羽の中で、“自分の世界が勝手に壊される”という感覚がほんの少しだけ薄まるからだ。


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