10 優しいだけ
その日から、準備室は“二人の場所”ではなくなった。
透葉はそれを口に出さないまま何度も胸の奥で反芻した。言葉にしたら、嫉妬みたいなものに名前がついてしまう。名前がついた嫉妬は居場所を汚す。汚したくない。——だから透葉は何も言わない。
昼休みのチャイムが鳴って、廊下へ出る。
陽葵の足音を探すのはもう癖になっている。角を曲がってきた陽葵はいつも通りの“正しい”笑顔で透葉を見つける。透葉はその笑顔を見て胸が少しだけ緩む。そして同時に小さく刺さる。
(今日も、会えた)
その安堵が依存の一歩手前みたいで怖い。
準備室の扉の前に立つと、陽葵は鍵を回す前にちらりと透葉を見た。
“開けるよ”と確認するみたいな視線。透葉は小さく頷いた。扉が開く。匂いが流れる。紙と木と絵具。そこに今日も、柚羽がいる。
柚羽は机の端で弁当箱を開きかけた手を止めた。
透葉と陽葵を見ると、昨日より少しだけ早い動きで頭を下げる。
「……こんにちは」
声が小さい。
でも、昨日より“言葉”になっている。謝罪ではなく挨拶。それは柚羽が少しだけこの場所に自分を置こうとしている証拠だった。
陽葵が明るく返す。
「こんにちは。今日も来たね」
柚羽は頷いて、すぐに視線を落とす。
癖のような落とし方。目が合うのが怖い人の落とし方。
透葉はパンの袋を机に置きながら、柚羽の机の上に小さな紙が置かれているのを見つけた。
プリントの端。切り取られたみたいにちぎれている。そこに、ボールペンの線が走っている。
落書き。
文字は小さく、乱暴で、わざと汚く書かれている。
透葉は読まなかった。
読んでしまったら、現実になってしまう。現実は簡単には消えない。透葉はそうやって生きてきた。
でも、読まないふりをしたまま、柚羽の指先がその紙を何度も折りたたもうとしているのが目に入った。
折りたたんで、隠して、存在ごと消したいのに、折り目がつくたびに紙が反発して戻る。戻るたびに柚羽の呼吸が浅くなる。
陽葵が箸を持ちながら言った。
「真壁さん、午後の授業はなに?」
柚羽は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに答える。
「……英語と……数学です」
「英語、得意?」
柚羽は首を振りかけて、止めた。
その止まり方に、透葉はまた胸がざわつく。得意と言うことは目立つことだ。目立てば狙われる。柚羽の世界でもそうなのかもしれない。
柚羽は小さく言った。
「……普通です」
陽葵は「そっか」と頷き、透葉の方を見る。
「透葉さんは?」
透葉はパンを齧りながら、雑に返す。
「普通」
陽葵が笑う。
「二人とも“普通”って言うタイプなんだ」
透葉は眉を寄せた。
「……普通は普通」
「普通って、便利だよね」
陽葵の言い方が少しだけ意味深で、透葉は胸の奥が痛む。
便利。便利だから使う。便利だから逃げる。透葉は便利な言葉で自分を守ってきた。柚羽もきっとそうだ。
会話が少しだけ弾みかけたとき、廊下の方から笑い声が聞こえた。
女子の声が二つ、三つ。高くて、揃っていて、どこか作ったような笑い。笑いながら歩く音が、準備室の扉の近くで一瞬だけ強くなる。
柚羽の肩が明確に硬くなった。
箸が止まる。呼吸が止まる。目が扉に吸い寄せられる。
透葉はその反応を見てしまった。
見てしまったから、言葉を探す。でも、何も出ない。透葉には“安心させる言葉”が見つからない。見つからないまま、ただ椅子の上で少しだけ姿勢を変えて、柚羽の視界を遮るように座った。偶然を装って。
陽葵は自然に鍵を確認するようにポケットに触れた。
その仕草が柚羽の呼吸を少しだけ戻す。
廊下の足音は遠ざかっていく。
徐々に柚羽の肩の力が抜けていく。
透葉はパンを齧った。
噛むたびに紙が擦れる音がして、柚羽の机の上の小さな紙が視界の端で揺れる。透葉はその紙から目を逸らす。でも胸の奥からは逸れない。
(何か、されてる)
そう思うだけで、胸が冷える。
でも、確信を持つのは怖い。確信を持ったら対処しなければならない。対処するには関わらなければならない。関われば、自分が矢面に立つかもしれない。透葉はそれが怖い。
それでも——柚羽の肩の硬さは、透葉の中の何かを刺激する。
放っておけない。昨日もそうだった。透葉は自分がそんなふうに思う人間だと知らなかった。なのに、もう戻れない。
昼休みの終わりのチャイムが鳴る。
三人は片付け始める。柚羽は例によって机を拭こうとする。拭かなくていいのに。拭くことで、ここにいた証拠を消そうとしているみたいで、透葉の胸がまた痛む。
陽葵が言った。
「真壁さん、午後もここ来たい?」
柚羽が目を丸くする。
「……午後は、授業です……」
陽葵は「そっか」と笑って、続けた。
「放課後。もし、帰り道一緒だったらさ。……少しだけ寄り道しない?」
柚羽の動きが止まる。
その止まり方は、誘いに戸惑う止まり方ではなく、“そんなことしていいのか”という恐怖の止まり方だった。
柚羽は小さく首を振った。
「……すみません。私は……」
言葉が途切れる。
“私は”の先が言えない。言えば理由が露出する。理由が露出すると、相手に負担をかける。負担をかけたら、切り捨てられる。柚羽の中でその連鎖が回っているように見えた。
陽葵はそれ以上追わず、あっさり引いた。
「うん。無理しなくていい。……気が向いたらで」
気が向いたら。
いつか透葉が陽葵に言われた言葉。透葉はその言葉が“逃げ道を作る優しさ”だと知っている。柚羽にも逃げ道が必要だ。
廊下に出ると、学校の音が戻ってくる。
透葉は陽葵と並んで歩きながら、柚羽が数歩後ろにいるのを感じた。昨日より少し近い。けれどまだ、遠い。近づきたいのに何かを恐れる距離。
午後の授業が終わり、放課後。
透葉は屋上へ行かず、校庭の端で陽葵の練習を眺めた。陽葵は走っている。走りながら、時々フォームが乱れる。乱れた瞬間に、陽葵の顔がほんの少しだけ硬くなる。透葉はその仕草を見るたび、胸の奥が締めつけられる。
練習が終わり、陽葵が透葉のところへ来た。
汗を拭きながら少しだけ笑う。
「透葉さん、今日、寄る?」
「……うん」
透葉が答えると、陽葵は満足そうに頷いた。
そして、校門へ向かう途中で陽葵が不意に振り返る。
「真壁さん、帰る?」
透葉も反射で振り返った。
校舎の影のあたりに柚羽が立っていた。ひとりで帰ろうとしていたのだろう。けれど、二人が動くのを見て、足が止まっている。
柚羽は一瞬だけ、逃げるように視線を逸らした。
それでも、完全には背を向けない。透葉はその中途半端な挙動に胸が痛む。追いかけたいのに追いかけられない人の立ち方だ。
陽葵が柔らかく言った。
「一緒に帰ろ。……嫌なら、途中で別れてもいい」
柚羽は小さく息を吸って、吐いた。
吐くとき、肩が少し震えた。震えたまま、柚羽は小さく頷いた。
「……少しだけ」
透葉の胸の奥がふっと温かくなる。
少しだけ。少しだけ、前に出た。柚羽が自分の足で、ほんの少しだけ世界を変えた。
校門を出ると、風が冷たかった。
三人で歩く帰り道は二人のときより音が増える。陽葵が話し、透葉が短く返し、柚羽が小さく頷く。会話はまだぎこちない。けれどそのぎこちなさは、悪いものじゃない。ぎこちないのは、まだ壊れていない証拠でもある。
ショッピングセンターへ向かう途中、後ろから笑い声が聞こえた。
女子の声。数人。制服の擦れる音。
柚羽の歩幅がわずかに乱れた。ほんの一瞬。透葉はその乱れを見て、反射で歩幅を落とした。柚羽に合わせるように。
陽葵は気づいて自然と会話のボリュームを上げた。
「ねえ透葉さん、昨日のクレーンゲームさ——」
わざと、楽しそうに。
背後の笑い声に負けないように。柚羽の耳に“別の音”を入れるために。
透葉はその意図を感じ取って、雑な突っ込みを返した。
「まだ取れてないのに、それ話すの?」
陽葵が笑う。
「話すよ。悔しさって、シェアすると飛んでくから」
柚羽が小さく息を吐いた。
笑いそうで、笑わない。けれど、さっきより呼吸が深い。透葉は胸の奥で静かに思った。
(陽葵はこうやって人を救うんだ)
正しい人のやり方じゃない。
もっとずるくて、もっと人間的なやり方。わざと明るくして、空気をずらして、怖さの矛先をずらしてあげる。
ショッピングセンターの入口が見えたとき、背後の笑い声は遠ざかっていた。
柚羽の肩がやっと少し落ちた。
中に入ると電子音と人の声が混ざり、別の種類の騒がしさになる。
柚羽は最初、足が止まりかけた。人が多い場所は怖い。でも、柚羽はついてくる。そうすることで、無理やり逃げ場がないところへ自分を置いている。
透葉は柚羽の横顔を見た。
唇が少し固い。目が泳いでいる。けれど、足は止まらない。止まらないのは、二人が前にいるからだ。
陽葵が振り返って言った。
「真壁さん、無理だったら言ってね。すぐ出る」
柚羽は小さく頷く。
「……大丈夫です」
また“大丈夫”。
透葉はその言葉に胸がざわつく。大丈夫は便利だ。便利だからこそ危ない。便利な言葉の裏に、本当の言葉が押し込められるから。
透葉は代わりに事実を言う。
「人、多いね」
柚羽が一瞬だけ透葉を見る。
透葉の言葉は感情じゃない。事実だ。だから柚羽は少しだけ安心したように頷いた。
「……はい」
その返事がほんの少しだけ人間らしく聞こえて、透葉は胸の奥が温かくなった。
ゲームセンターの前で陽葵が立ち止まる。
「今日こそは取る」
透葉が即座に突っ込む。
「また言ってるし」
陽葵がむっとして、柚羽を見る。
「真壁さん、どっちが正しいと思う?」
突然振られて、柚羽が目を丸くする。
困った顔。答え方がわからない顔。透葉はその顔を見て少しだけ笑った。柚羽はそれを見てさらに困る。
柚羽は恐る恐る言った。
「……取れる、と思います……」
陽葵が大げさに胸を張る。
「ほら!」
透葉は無表情で返す。
「優しいだけ」
陽葵が笑い、柚羽が小さく笑った。
ほんの一瞬。すぐに隠す。でも確かに笑った。
透葉はその笑いが”さざ波”みたいだと思った。
小さくて、すぐ消えそうで、でも確かに水面を揺らす。
そして透葉は胸の奥で思ってしまう。
このさざ波を、できるだけ消さないようにしたい。消さないために、自分はこれから何かをしてしまうのだろう、と。
その予感が少し怖くて——
でも、目を逸らせなかった。
ゲームセンターの入口はいつ来ても落ち着かない。
光が強い。音が多い。機械の呼吸みたいな電子音が床から立ち上ってくる。人の声はその上を滑って、笑い声だけが鋭く残る。
透葉はそういう場所が本来得意じゃない。
でも今日は、先に進む陽葵の背中がある。少し後ろをついてくる柚羽の足音がある。二人分の気配があると、自分の輪郭が少しだけ保てる気がした。ひとりだと溶けるのに、誰かがいると、逆に形ができる。
逆だった以前と矛盾している。だから少し怖い。
「今日こそは取る」
陽葵がもう一度言った。
さっきも言っていたやつだ。透葉は無表情のまま返す。
「宣言して取れないフラグ」
「取れるフラグだもん」
「根拠は?」
陽葵が自信満々に言う。
「真壁さんが“取れると思います”って言った」
透葉は柚羽を見る。
柚羽は急に話題の中心に置かれて、視線の逃げ場を探している顔をしていた。けれど逃げない。逃げないで、困ったまま立っている。今日の柚羽は昨日よりほんの少しだけ強い。
透葉はわざと雑に助け舟を出す。
「……柚羽は優しいから言っただけ」
柚羽がびくりと反応して、透葉を見る。
“柚羽”と呼ばれたことに反応したのだと、透葉は気づく。名字じゃなく名前。距離が半歩近づく呼び方。
透葉は今さら少しだけ恥ずかしくなって、目を逸らした。
陽葵は面白がって笑う。
「透葉さん、今、名前で呼んだね」
「呼んだけど」
「わざと?」
「……勝手に出た」
勝手に出た、という言い訳をして、胸の奥の熱を誤魔化した。
柚羽は口を開いて、閉じた。何か言おうとして、言えない。言えないまま口元だけがほんの少し揺れた。
陽葵がクレーンゲームの前に立つ。
狙いは相変わらずぬいぐるみ。今日は小さな海の生き物シリーズで、青いイルカが中央にいる。陽葵はそれを見て目を輝かせた。
「これ……! これ取る!」
透葉は即座に言う。
「……イルカ欲しいの?」
「欲しい。海、行けないから」
軽い言い方。
でも、陽葵の“行けない”は単に予定がないという意味じゃない。行けない理由が家の中にある。ルールの中にある。期待の中にある。透葉にはそう聞こえてしまう。
陽葵はコインを入れ、真剣な顔でアームを動かし始めた。
真剣すぎる。陸上のスタート前みたいな顔。透葉はその顔を見ると、少しだけ胸が痛む。遊びなのに、遊びまで”求められる結果”にしてしまう癖。結果が出ないと、自分が許されないと思い込む癖。
アームが降りる。
イルカの胴を掴む。持ち上がる。揺れる。落ちる——惜しい。ほんの少しだけ位置が変わった。
陽葵が悔しそうに唇を噛む。
「……くっ」
透葉は突っ込む。
「声出てる」
陽葵がちょっと睨む。
「黙ってて」
柚羽が思わず小さく息を漏らした。
笑いかけた息。透葉はそれを聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなる。
陽葵が柚羽を振り返った。
「真壁さん、やる?」
柚羽は慌てて首を振る。
「……いえ、私は……」
断り方がまだ謝罪に近い。
“いえ”の前に“すみません”がつきそうな空気。透葉はそれが嫌で、わざと雑に口を挟んだ。
「やりたくなったら言えばいい。やらなくても全然いい」
柚羽の目が少しだけ丸くなる。
自分から言い出すことが、柚羽には遠いのかもしれない。そういう経験が少ない顔。
陽葵は再チャレンジする。
今度は持ち上がって、少しだけ運ばれて——落ちた。けど、出口に近い位置に転がった。
陽葵が目を輝かせる。
「見て、いける!」
透葉は無表情で返す。
「まだ取れないやつ」
「取れるまでやる」
「それ、財布が死ぬやつじゃん」
陽葵が口を尖らせる。
「透葉さん、ほんと水差す」
透葉は肩をすくめた。
「……現実担当なもんで」
柚羽が、今度はちゃんと笑った。
声は出ない。口元だけ。でも、確かに笑った。透葉はそれが嬉しいと感じてしまって、すぐに自分の胸を押さえたくなった。それを自覚すると、怖くなるから。
結局、陽葵はイルカを取った。
取った瞬間、陽葵が小さくガッツポーズをして、透葉は思わず口にする。
「子ども」
陽葵は勝ち誇った顔でイルカを掲げた。
「ほら、取れるやつだった」
透葉は負けた気がして、雑に返す。
「……運」
「運も実力のうち」
柚羽が小さく頷いて言った。
「……すごいです」
声は小さい。
でも“すごい”が、今日はちゃんと陽葵に届いた。陽葵はその言葉に少しだけ照れたみたいに笑った。
「ありがと。……真壁さん、これ、いる?」
柚羽は驚いて首を振る。
「……いえ、私、そんな」
“そんな”の続きが言えない。
“そんなの、もらえません”。“そんなの、私が持っていいわけがない”。そういう言葉が柚羽の喉に詰まっている気がした。
陽葵は少し考えてから言った。
「じゃあ、預ける。透葉さんに」
透葉は即座に睨む。
「……なんで私?」
陽葵が笑う。
「透葉さん、意外と物大事にするから」
「意外とって何」
「見た目は雑なのにね」
透葉は言い返しかけて、やめた。
見た目が雑。そう言われることには慣れている。慣れているのに、今日は少しだけ引っかかった。陽葵の口から出ると、ただの事実以上の何かがある気がするからだ。
透葉はイルカのぬいぐるみを受け取って、柚羽の方に向けた。
差し出すのではなく、見せるだけ。距離を詰めすぎないためのやり方。
「触る?」
柚羽が目を見開いた。
ほんの一瞬、触りたい、が顔に出た。けれどすぐに、怖い、が上書きする。
「……大丈夫です」
また“大丈夫”。
胸の奥がざわつく。大丈夫は便利だ。便利だから、柚羽はそれにしがみつく。
透葉は事実で返す。
「……ふわふわ」
柚羽が少しだけ笑った。
その笑いはさっきより長かった。透葉はその不器用な笑顔に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ゲームセンターの外へ出ると、空気が少し冷たかった。
騒音が背中から遠ざかるだけで、世界の輪郭が戻る。透葉は息を吐く。吐いた息が白い。
陽葵が言った。
「カフェ寄ろ。温かいの飲みたい」
柚羽が一瞬だけ躊躇した。
その躊躇を透葉は見逃さない。
「無理なら、帰ってもいい」
透葉の言い方は相変わらず雑だった。
でも柚羽はその雑さに助けられたみたいに、小さく首を振った。
「……少しだけ」
少しだけ。
柚羽の“少しだけ”は、昨日より深い意味がある。透葉はそれを胸の奥にしまう。
カフェはショッピングセンターの端にある小さな店だった。
ガラス越しに見える店内は柔らかい光で、座席の間隔が広い。混んでいるのに、息ができるタイプの空間。透葉はそういう場所を選ぶ癖がある。ひとりで来るときも、なるべく角の席を取った。出入口が見える席。逃げられる席。
今日は窓際の席に座った。
透葉が奥、陽葵が真ん中、柚羽が通路側。通路側は落ち着かないはずなのに、柚羽がそこを選んだのはたぶん、出口に近いからだ。逃げ道の確保。透葉はそれを責めない。責められることでもない。
陽葵がメニューを覗き込みながら言う。
「真壁さん、甘いの好き?」
柚羽は小さく首を振る。
「……わかりません」
「わかんないって何」
透葉が突っ込むと、柚羽がびくっとする。
透葉はすぐに少しだけ声を落とした。
「嫌いじゃないけど、選ぶの苦手、ってこと?」
柚羽は驚いたように透葉を見て、ほんの少し頷いた。
「……はい」
陽葵が嬉しそうに言った。
「じゃあ一緒に選ぼ。選ぶの、楽しいよ」
柚羽の表情が一瞬だけ固まる。
“楽しい”という言葉に反応する顔。楽しんでいいのか、わからない顔。
透葉はわざと軽く言う。
「別に楽しくなくてもいい。飲めれば」
陽葵が笑う。
「透葉さんこそ”何”それ」
柚羽が声を出さずに笑った。
笑いが増える。増えるたび、透葉の胸が少し軽くなる。そして同時に不安も増える。この軽さが続いてしまったら、失うときが怖いから。
注文が届いた。
透葉はカフェラテ、陽葵はホットチョコレート、柚羽はミルクティー。柚羽は最初“水でいいです”と言いかけて、陽葵が「せっかくだから」と笑った。そこで柚羽が頷いたのは、たぶん“断るのが疲れる”からだ。でも、それでいい。まずはここにいることが大事だ。
湯気が立つ。
湯気は柔らかい。視界の端が少し曖昧になる。その曖昧さが、透葉には安心だった。現実の輪郭が少し溶ける。溶けるのに、崩れない。完全に崩れないのは、二人がここにいるからだ。
陽葵がホットチョコのカップを抱え込みながら言った。
「真壁さん、準備室、明日も来る?」
柚羽は少しだけ迷って、頷いた。
「……はい。また先生に、言います」
言える。相談できる。
柚羽が昨日より少しだけ前に進んでいる。透葉はそれが嬉しくて、同時に怖い。前に進んだ人は目立つ。目立てば、狙われる。
透葉は何も言えずにラテを飲んだ。
苦い。苦くて温かい。温かさが胸に落ちて、少しだけ落ち着く。
そのとき、柚羽のスマホが震えた。
机の上に置いてあったそれが、ぶる、と小さく動く。柚羽の肩が硬くなる。画面を見ない。見ずに、息が浅くなる。透葉はその反応でわかる。
連絡じゃない。
呼び出しでもない。
たぶん、見たくない何か。
陽葵も気づいたみたいだった。
でも陽葵はわざと気づかないふりをした。正しい距離の取り方。透葉はそのやり方を真似できない。一度見たら離れられなくなってしまう。
透葉は机の上のぬいぐるみに指を置いて、わざと話題をずらす。
「イルカ、名前つけるの?」
陽葵が即答する。
「つける。えーと……」
「ぬいぐるみに名前つける人、初めて見た」
「透葉さん、そういうこと言う!」
陽葵がむっとして、すぐに笑う。
柚羽がスマホから視線を外したまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
カフェを出る頃には外はもう暗くなり始めていた。
街灯が点き、ガラスに映る自分たちの姿が少しだけぼやける。透葉はそのぼやけ方が好きだった。現実が少し曖昧になると、自分の輪郭が痛まなくなる。
帰り道、柚羽は途中の交差点で立ち止まった。
「……ここで」
陽葵がすぐに頷く。
「うん。じゃあ、また明日」
柚羽は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました」
透葉は言うべき言葉を探して、結局事実だけ言った。
「……寒いから気をつけて」
柚羽の目が少しだけ丸くなる。
それからほんの小さく頷いて、背を向けた。
柚羽の背中はまだ硬い。
でも昨日より少しだけ背中が“人”になっている気がした。透葉はその変化を見て、嬉しいと感じてしまう。
陽葵と二人になり、駅前の道を歩く。
陽葵がふいに言った。
「透葉さん、今日、いい顔してた」
透葉は即座に返す。
「してない」
「してた。真壁さんが笑ったとき、透葉さんも」
透葉は言葉に詰まる。
自分の顔なんて見えない。けれど陽葵は見ている。陽葵の“見る”は透葉を怖がらせる。でも逃げたくない。
透葉はわざと雑に誤魔化した。
「勘違い」
陽葵は笑って、でも少しだけ真面目な声になった。
「真壁さん、何かあるよね」
透葉の胸の奥が冷えた。
陽葵も感じ取っている。柚羽の硬さ。怯え。視線。スマホの震え。落書きの紙。全部が、日常の隙間から滲み出てくる。
透葉は答えなかった。
答えたら現実になってしまう。現実は取り返しがつかない。そう思ってしまう。
陽葵はそれ以上追わず、ただ言った。
「……無理しないでね。透葉さんも」
“も”。
透葉はその“も”に救われる。自分だけが強くなる必要はない。自分だけが支えるわけじゃない。陽葵も一緒にいる。透葉はその事実に少しだけ息ができた。
その夜、家はいつも通り静かだった。
玄関の鍵を回しても台所は暗い。母の気配はない。洗面所に残る香水の匂いだけが、誰かがここにいたことを主張している。
透葉は部屋に入って、制服のままベッドに腰を下ろした。
スマホは見ない。見たら、誰とも繋がっていないことが見えてしまうから。見たくない。柚羽みたいに震える程の通知がないことも、ある意味では救いなのだと、透葉は思ってしまう。――残酷な救いだ。




