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1 放課後の邂逅

 放課後の校庭は風の音しか残っていなかった。

 チャイムから十分は経っているはずなのに、まだ熱の名残が空気に貼りついている。昇降口のガラス扉を押し開けた瞬間、ほこりっぽい光が舞い上がり、靴の裏にまとわりつくような感覚がした。


 彩瀬透葉あやせとうはは、そのまま階段を下りずに踊り場で立ち止まった。

 視線が勝手に引き寄せられていく先に気づいたのは、それからだった。


 誰もいないはずのトラックに、ひとつだけ影があった。


 細く長い影は夕陽の向こうへ伸び続けている。

 黒い髪が揺れ、まるで走るたびに光とすれ違っていくみたいだった。汗を払う仕草さえなく、呼吸の乱れも見えない。ただ、前だけを見て走っている。


 どうして目が離せないのか、自分でもわからなかった。


 透葉は柵越しに、しばらくその姿を眺めていた。

 トラックを周回するたびに耳元を風が通り抜ける。砂が混じった独特の匂いと、まだ冷えきらないアスファルトの熱気が校庭の端まで漂ってくる。


(あの子、まだ走ってたんだ)


 昼休みにも一度見かけたことがある。

 誰も気に留めなかった。クラスメイトはおしゃべりに夢中で、先生はプリントを配ることで精一杯だった。でも、透葉は気づいてしまったのだ。黒髪の先が、ほんのわずかに揺れていたことに。

 靴音がほとんど土に吸い込まれていることに。


 いつもならこんなふうにじっと誰かを見ることなんてない。

 透葉にとって、見られることは恐怖だった。誰かを見れば、自分もまたその誰かに見られる恐れがある。


 昇降口の陰に身体を寄せ、視線をごまかすようにイヤホンを耳に押し込む。音楽は流れていない。ただ、それがあるだけで世界が薄くなる気がした。自分の輪郭さえ曖昧になっていく。

 それなのに――目だけが離れなかった。


 黒髪の少女はまだ走り続けている。

 腕の振りは正確で、無駄がない。けれど、どこかぎこちなさがあった。

 ほんのひとつ、呼吸のリズムが遅れたように見えた。足が土の上でわずかに滑った。


(……転びそう)

 そう思った瞬間、透葉は息を詰めていた。


 だが少女は転ばなかった。何事もなかったように体勢を戻し、また前を向いた。そのしなやかさに胸の奥がざわつく。


 夕陽の光が彼女の横顔を一瞬だけ照らした。

 汗が光り、肌の白さが浮かび上がる。まるで、校庭にひとりきりの世界を作っているみたいだった。


(どうして、そんなに必死なんだろう)


 問いは浮かんでも、答えはどこにも落ちていなかった。

 やがて透葉は視線をそらし、校舎へ戻ろうとした。


 そのとき、ふと気づく。自分の靴音がやけに響いている。放課後の廊下の静けさは、誰もいない家の音とよく似ていた。


 靴箱に向かいながら、透葉は小さく息を吐いた。

 ローファーを手に取ると、革の匂いがかすかに鼻をつく。周囲には誰もいない。女子たちの笑い声は、もう校庭の向こうに消えていた。


 靴箱の扉を閉めると、金属の音がひどく大きく響いた。

 思わず肩が跳ねる。こんな音でさえ、今の自分には過剰だった。


(帰らなきゃ)

 そう思っても、足取りは重かった。

 家には誰もいない。

 母は夜の仕事で朝方に帰ってくるし、父はすでに別居している。兄はずっと前に独立して家を出た。透葉が帰る時間帯、リビングにはテレビの音も生活音もない。

 玄関の鍵を回した瞬間の静けさが、何より苦手だった。


   *


 その夜、透葉は机の引き出しを開けた。

 古い画用紙が一枚だけ残っている。角が少し折れていて、ところどころ指の跡が薄く残っている。見たくないのに、どうしても目に入ってしまう。


 中学の頃、気まぐれで描いた絵――

 『南の海』と題名をつけられた作品。


 描いたあと、誰にも見せるつもりなんてなかった。

 だけど、美術の先生が勝手に応募して、気づけばコンクールで佳作になっていた。家にも学校にも褒められる場所なんてなかった透葉にとって、それはただの「偶然」に過ぎなかった。


(あの日のことなんて、覚えてない)

 そう思おうとしても、脳裏に焼き付いた光景が離れない。

 美術館の展示室。

 白い壁に掛けられた、ひとつの絵。


 ――田中一村『アダンの海辺』


 南の海の光。

 青とも緑とも言えない色。

 波の気配と、風の静けさ。


 絵の前に立ったとき、透葉は初めて自分の胸が動いているのを感じた。

 押しつぶされそうでもなく、泣きたくなるほどでもない。ただ、息ができなくなるほどの「何か」が自分の中に流れ込んできた。


 それが何だったのか、今でも言葉にはできない。

 透葉は画用紙から目をそらし、そっと引き出しを閉めた。


 部屋の時計の針が静かに動いている音だけが聞こえる。


(明日も、あの子は走ってるのかな)

 考えるつもりなんてなかったのに、思考はそこへ戻ってしまう。

 名前も知らない。クラスも違う。話したことすらない。ただ、校庭のど真ん中で、誰よりもまっすぐ走る姿だけが目に焼き付いていた。


 透葉は布団に潜り込み、イヤホンを耳に押し当てた。

 音楽は流していない。世界のノイズだけが遠くなっていく。


 まぶたを閉じる前、校庭の光景がふたたび浮かんだ。


 夕陽の中で揺れる黒髪。

 止まらない影。

 呼吸の音さえ聞こえない静かな走り。


 なぜか胸のあたりが、じんわりと熱くなる。


(知らなければよかったのに)

 そう思った。


 でも、もう遅かった。


書き溜めていたものを不定期で投稿します。

つたない文章ですが、よろしければお読みください。


しばらくお邪魔しますね。

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