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エレベーターの女性

都市には、記憶がある。

人が忘れても、建物は忘れない。

東京・新大塚の一角にある古い雑居ビル。そこに残るのは、誰かの未練か、それとも土地に染みついた痛みか。

この短編は、日常の裂け目から顔を覗かせる“何か”との遭遇を描いた都市怪談です。

静かな夜に、ふと背筋が冷えるような感覚を覚えたことがある方へ――。

新大塚の夜は、昼間の喧騒が嘘のように沈んでいた。護国寺の方から吹く風が、六階の窓をかすかに揺らす。

田村誠は、残業の区切りをつけようとパソコンを閉じた。時計は二十二時を回っている。

その瞬間だった。

視界の端で、白い影がすっと落ちていった。

――人だ。

反射的に窓へ駆け寄る。

だが、地面には何もない。人影も、悲鳴も、ただ冷たい風が吹き抜けるだけだった。

背筋がざわりと粟立つ。

気味が悪い。今日はもう帰ろう。

鞄をつかみ、エレベーターのボタンを押した。

下からゆっくりと上がってくる音がする。

チン、と軽い音を立てて扉が開いた。

――女が立っていた。

長い黒髪が顔を覆い、白いワンピースが蛍光灯の光を吸い込むように沈んでいる。

このビルは六階までが貸しオフィスで、七階は大家の住居だ。こんな時間に女性がいるはずがない。

女はゆっくりと髪をかき分けた。

その動きは、まるで壊れた人形のようにぎこちない。

顔の右半分は、完全に崩れていた。

皮膚は剥がれ、骨が露出し、黒い穴のような眼窩が田村をまっすぐ見ている。

左半分だけが生者のように残り、そこだけが微かに笑っていた。

「……ヤマギシさんは、いますか」

声は、複数の人間の声が重なったように濁っていた。

田村の喉がひゅっと鳴る。言葉が出ない。

女は一歩、こちらへ踏み出した。

その足音が、なぜか床に響かない。

よく見ると――足が床に触れていない。

わずかに浮いたまま、滑るように近づいてくる。

「……ヤマギシさん……」

崩れた半顔が、すぐ目の前まで迫った。

田村は反射的に後ずさりし、エレベーターを飛び出した。

非常階段へ転がり込むように逃げ、六階から一階まで一気に駆け下りた。

一階のイタリアレストランの前まで来て、ようやく足が止まった。

夫婦で営む店で、田村は昼によくランチを食べている。

すぐ帰る気にはなれず、店に入った。

「ビールと……スパゲティを」

震える声を隠すように注文する。

ビールを持ってきた奥さんに、田村は思わず聞いた。

「新しい人、雇ったんですか」

「え?」

田村の視線の先、厨房には店主の夫と、もう一人、若い女性が立っていた。

だが奥さんは首をかしげる。

「誰も雇ってませんよ」

「じゃあ……あの女性は」

「女性なんて、いませんよ」

田村の額から汗が落ちた。

奥さんは苦笑しながら言った。

「幽霊でも見ましたか。この店、たまに出るんですよ」

奥さんの話によれば、この場所は以前バーだった。

人気が落ち、共同経営者同士の仲も悪くなり、ついには一人が飛び降り自殺をしたという。

共同経営者の名は――山岸。

「そういえば、今日は月命日ですね」

その言葉が、田村の背骨を氷のように冷やした。

さっき見た落下する影。

エレベーターの女の崩れた顔。

厨房の若い女性。

すべてが一本の線でつながる。

田村は震える手でビールを飲み干し、逃げるように店を出た。

翌日、社長に頼み、ビル全体で除霊をしてもらった。

その後、幽霊が出たかどうかは――誰にもわからない。

ただ、田村は二度と夜の新大塚で残業をしなくなった。

(完)

この話は、私の友人より聞いた話です。

似たような空気を感じたことがある人は、きっと少なくないはずです。

エレベーターの中、誰もいないはずなのに誰かが立っている気がする。

窓の外、何かが落ちていったように見えた。

それは、記憶の錯覚か、都市の残響か。

「月命日のビル」は、そんな“見えないもの”を描いた物語です。

読んでくださった方が、ほんの少しだけ夜の静けさに敏感になってくれたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

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