『貴重品を預からせてください』
昨夜、YouTubeで語り手の怪談を聞いていたときのことだ。
語り口の静けさと、じわじわと迫る不気味さに耳を傾けているうちに、ふと、ある記憶がよみがえった。
それは、1980年代後半、福島への出張で泊まった旅館での出来事。
当時は「妙なことがあったな」くらいにしか思っていなかったが、今振り返ると、あれはただの偶然ではなかったのかもしれない。
これは、そんな私自身の体験談である。
1980年代後半のことだ。
私は福島へ出張に向かっていた。いつもならビジネスホテルを取るのだが、その日に限ってどこも満室。仕方なく、駅から少し離れた古い旅館に泊まることにした。
玄関をくぐった瞬間、湿った空気がまとわりつくように感じた。案内された部屋は薄暗く、畳もどこか冷えている。
「まあ、古い旅館だから仕方ないか」
そう思いながら荷物を置いたとき、ふすまが静かに開いた。
入ってきたのは、黒髪が肩にかかる四十代ほどの仲居だった。どこか影のある、沈んだ表情をしていた。
「貴重品を……預からせてください」
低い声で、まるで決まり文句のようにそう言う。
私は出張のとき、財布を二つ持ち歩く。一つは上着のポケット、もう一つは鞄の奥に五万円ほど。
「特に預けるものはありませんよ」
そう断ったのだが、彼女は同じ言葉を繰り返した。
「貴重品を……預からせてください」
何度断っても、壊れたテープのように同じ言葉。
その声には、どこか悲痛な響きがあった。
背筋が冷え、私は観念して財布から千円札を一枚抜き取って渡した。
彼女はそれを受け取ると、無言のまま部屋を出ていった。
「……なんだか妙だな」
胸騒ぎがして、もう一つの財布は肌身離さず持っておくことにした。
しばらくすると、再びふすまが開いた。
今度は、まんまるとした明るい雰囲気の仲居が、ポットと湯呑を持って入ってきた。
「お客さん、貴重品があるなら預かりますよ」
「さっき預けたじゃないか」
「えっ? あたし、預かってませんよ」
「いや、あなたじゃなくて……さっきの仲居さん。肩まで髪のある人」
彼女は一瞬、目を丸くした。
「えっ……」
それだけ言うと、黙ってお茶を入れ、そそくさと部屋を出ていった。
その夜は落ち着かず、入浴を済ませて早めに布団に入ったものの、何度も目が覚めた。
部屋の空気が、どこかざわついているように感じた。
翌朝、出発の準備をしていると、畳の上に千円札が一枚落ちていた。
「……昨日の千円だ」
そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。
気になって仕方がない。
チェックアウトのとき、昨日のまんまるの仲居に尋ねてみた。
「ここ、肩まで髪のある仲居さん、いるの?」
彼女は首を横に振った。
「うちは皆、髪を結ってますよ。肩までの人なんて……いません」
そして、声を落として続けた。
「昔ね、お客さんの財布がなくなったって騒ぎになって……小島圭子って仲居さんが疑われたことがあったんです。
でも後で、そのお客さんが勘違いだったって謝りに来て……
けど、小島さんはその前に……お客さんが泊まったその部屋で、首を……」
言葉を濁したが、十分すぎるほど伝わった。
「それ以来なんです。ときどき、『貴重品を預からせてください』って声を聞いたっていうお客さんがいて……」
私は苦笑した。
「そんな話、最初に言ってくれれば、その部屋には泊まらなかったのに」
旅館を出たあとも、背中に残るあの湿った空気の感触だけは、しばらく消えなかった。
(完)
語り手の怪談を聞いていなければ、きっとこの記憶は埋もれたままだっただろう。
あの旅館の湿った空気、肩までの髪の仲居、そして「貴重品を預からせてください」という声。
今でも、あの部屋の畳の冷たさと、落ちていた千円札の感触が、妙に鮮明に思い出される。
人は、忘れたと思っていた記憶を、思いがけない瞬間に拾い上げる。
そしてそれが、物語になる。




