佐藤さわりの霊障事件簿 口曲がり女の人生相談
この物語はなかなか書けなかった。
構想は頭の中にあっても、形にするまでにずいぶん時間がかかった。
やっと一週間たって、ようやく完成した。
魔女という存在は、昔から私にとって魅力的で、どこかユーモラスでもある。
しかし、今回の主人公・佐藤さわりは超能力者ではない。
ただの若い記者であり、霊障事件に巻き込まれる側の人間だ。
だからこそ、最期の展開には苦労した。
昔、『事件記者コルチャック』というテレビ番組があった。
単なる新聞記者が、怪奇事件や霊障事件を追いかけ、時に命がけで真相に迫る。
あの番組の空気を思い出しながら、
「普通の人間が、普通ではない闇に立ち向かう物語」を書きたいと思った。
そんな気持ちで、この作品を紡いだ。
第一章:人生相談の寺
横浜市の外れ、古い住宅街の坂を上りきったところに、延命寺はひっそりと腰を据えている。昼間は近所の主婦や老人が散歩がてらに立ち寄る程度の、どこにでもある小寺だ。しかし、日が沈むと様相は一変する。
山門の左右に据えられた鉄製の篝火台に、寺男の松本ごんが火を入れる。乾いた薪が爆ぜ、橙色の炎が夜気を押し返すように揺れ立つ。火は参道の石畳を照らし、影を長く引き伸ばしながら、まるで訪れる者の魂の奥底まで覗き込むかのようだった。
「火はね、明るい魂を照らすんですよ」
庵主・須田久子は、そう言って微笑む。
その笑みは柔らかいが、どこかで歪んでいる。口元がわずかに右へ曲がり、光の角度によっては、笑っているのか、嘲っているのか判別がつかない。小柄で上品な六十代の女性。日本女子大学を出た才女で、近所の評判はすこぶる良い。
だが、延命寺を訪れる者の多くは、彼女の“外側”しか知らない。
夜の篝火を見て「ゾロアスター教みたいだ」と揶揄する者もいるが、そんな声はごくわずかだ。むしろ、久子の人生相談目当てに、若者から老人まで幅広い人々が列をなす。寺での対面相談に加え、YouTubeでも人気を博し、彼女の動画は常に高評価で埋まっている。
その人気の理由のひとつが、本堂の右下に置かれた“魔女人形”だった。
黒ずんだ木で彫られたその人形は、異様に長い指と、裂けたような口元を持ち、誰が見ても不気味だった。初めて目にした者は決まって身をすくめる。
「魔女人形は魔除けで縁起が良いんですよ」
久子はそう言って笑う。
しかし参拝者たちは、阿弥陀如来の前に魔女人形が鎮座していることに、どうしても違和感を覚えるのだった。
もちろん、彼らは知らない。
須田久子の正体が“魔女スーダ”であることを。
悩みを抱え、心が弱った者ほど、彼女にとっては格好の獲物だった。
相談に訪れた者が涙をこぼし、声を震わせるほど、久子の口元はわずかに深く歪む。
そして、ある瞬間——
魔女スーダは相手の頭を両手で包み込み、そのまま影のように呑み込む。
肉体は抜け殻となり、魂だけが吸い上げられる。
亡骸は寺の裏手にある無縁仏の土葬地へ放り込まれる。
魂は壺に封じられ、一ヶ月に一つ食べれば満足するという。
久子にとって、延命寺は“食糧庫”であり、“狩場”でもあった。
寺男の松本ごん。
身長二メートルの巨体に、スキンヘッド。眉も目も鼻も口も、顔の中央にぎゅっと寄った奇妙な造作。だが性格は素朴で、久子を「庵主様」と呼んで慕っている。
朝になると、信者や久子に好意を寄せる者たちが差し入れを持ってくる。
野菜、肉、魚……。久子が食費に困ることは一度もなかった。
近所の美容院では、彼女が来ると無料で散髪してくれる。
その美貌と品の良さは、年齢を重ねても衰えず、むしろ神秘性を増していた。
「現人阿弥陀如来だ」と持ち上げる者まで現れ、信者は増える一方だった。
さらに月に一度、久子は教会の炊き出しのようにホームレスへ食事を振る舞う。
差し入れの食材でなんとか賄うその姿は、慈悲深い庵主として評判を高めるばかりだった。
YouTubeの冒頭で、久子はいつもこう言う。
「わたしも独身税を払っています」
その一言で視聴者は大笑いし、コメント欄は温かい言葉で溢れる。
だが、画面の向こうで笑う人々は知らない。
その笑顔の裏に、どれほど冷たい飢えが潜んでいるのかを。
第二章:餌食
延命寺へ向かう者は、誰もが「自分の意思で来た」と思っている。
だが実際には、もっと早い段階から、魔女スーダの細い糸が彼らの心に絡みついていた。
その糸は、悩みの隙間から入り込み、静かに、確実に、延命寺へと導く。
男も女も、寺へ足を運ぶ前から、すでに“餌”として選ばれていた。
*
【男の恐怖 ——三浦啓介】
三浦啓介は、昇進してからというもの、胸の奥に重い石を抱えたような日々を送っていた。
課長という肩書きは、彼にとって誇りではなく、鎖のように感じられた。
ある夜、仕事から帰宅した啓介は、部屋の電気をつけた瞬間、背筋が凍りついた。
窓の外に、真っ白な顔が浮かんでいた。
頬の肉が削げ落ちたように白く、口元が右へ大きく歪んでいる。
目は黒い穴のようで、啓介をじっと覗き込んでいた。
瞬きをした次の瞬間、その顔は消えていた。
風も吹いていないのに、カーテンだけがゆっくり揺れていた。
「……疲れてるんだ」
そう自分に言い聞かせたが、胸の鼓動はしばらく収まらなかった。
翌日、入浴中に天井の灯りが突然落ちてきた。
ガラスが湯船に散らばり、啓介は裸のまま浴室の隅に逃げ込んだ。
電球は割れていない。
ただ、ソケットから“抜け落ちた”だけだった。
——誰かが、上から引き抜いたように。
その夜、YouTubeを開くと、なぜか須田久子の人生相談動画が自動再生された。
彼女の口元の歪みを見た瞬間、啓介は背筋に冷たいものが走った。
だが同時に、胸の奥の重さが少しだけ軽くなるような気がした。
「……この人に、話を聞いてもらいたい」
そう思ったときには、すでに延命寺の住所を検索していた。
*
【女の恐怖 ——高梨美咲】
高梨美咲は、仕事も恋愛も、そして家族との関係も、すべてが揺らいでいた。
外資系企業で働き、数字も結果も出しているのに、周囲からの「結婚は?」という圧力が彼女を疲弊させていた。
ある夜、帰宅して部屋の明かりをつけると、鏡台の前に“誰か”が座っていた。
黒い髪を垂らし、白い顔を伏せている。
肩が細く、背中が異様に曲がっている。
美咲が息を呑むと、その女はゆっくりと顔を上げた。
口が、裂けたように右へ曲がっていた。
美咲は悲鳴を上げ、部屋の電気を消した。
再びつけたときには、鏡台には誰もいなかった。
翌日、シャワーを浴びていると、突然、浴室の電気が落ちた。
真っ暗な中で、背後に“誰かの気配”が立った。
振り返る勇気はなかった。
ただ、冷たい指が背中をなぞったような感覚だけが残った。
その夜、スマホを開くと、YouTubeのおすすめに須田久子の動画が並んでいた。
見た覚えもないのに、サムネイルが何度も表示される。
久子の微笑みは、どこかで見た“あの女”の顔と重なって見えた。
「……この人なら、わかってくれるかもしれない」
気づけば、美咲は延命寺の地図を開いていた。
*
【延命寺へ吸い寄せられる影】
啓介も美咲も、恐怖を振り払うようにして延命寺へ向かった。
だが、二人は知らない。
その恐怖こそが、スーダが“呼び寄せるために与えた印”であることを。
山門の前に立つと、篝火の煙がゆらゆらと揺れ、まるで二人を歓迎するように形を変えた。
煙の中に、一瞬だけ白い顔が浮かんだ気がした。
本堂の奥では、須田久子が静かに座していた。
口元の歪みは、朝の光の中で妖しく輝いている。
その背後の魔女人形は、まるで生きているかのように、二人の到着を待っていた。
柱の陰では、寺男・松本ごんが影のように佇んでいた。
分身としての本能が告げていた。
——今日の餌は、二つ。
——どちらも、よく熟れている。
第三章:霊障人・佐藤さわり
佐藤さわりは、黒髪をチューリップのように丸く整え、黒縁のメガネをかけていた。
黒いスーツに身を包んだ姿は、どこか学生の延長のようでもあり、妙に大人びても見える。
身長は百六十センチと小柄。
令和大学経済学部を卒業したばかりの二十二歳で、彼氏はいない。
だが、彼女のメガネの真ん中には小さなレンズが埋め込まれており、視界に入るものはすべて録画されていた。
本来は政治ジャーナリストとして活動しているが、裏では“霊障人”を名乗り、不可解な事件の調査を請け負っている。
その日の夕方、近所の大手スーパーから帰ってきたさわりは、手に提げたビニール袋を揺らしながら上機嫌だった。
「最近は物価が高くて、高市総理にも見てもらいたいわ……おお、今日はひれかつ弁当があった。ひれかつ弁当は人気があるからすぐなくなってしまうのに」
半額シールが貼られた弁当を見て、彼女は満足げに頷いた。
そのとき、スマホが震えた。
画面には、見覚えのない番号。
「もしもし、佐藤さわりさんですか。名刺を見て……お願いがあるんです。妹が行方不明で……」
さわりは眉をひそめた。
名刺には“政治ジャーナリスト”と書いてあるが、裏面には小さく“霊障人”と記してある。
その裏面を見た者からの依頼は、たいてい普通ではない。
「詳しい話を聞かせてください」
*
【行方不明者の影】
翌日、さわりは依頼人の家を訪れた。
行方不明になった女性は二十六歳。
仕事の悩みを抱えていたらしく、最後に家族へ送ったメッセージは「相談に行ってくる」という一文だけだった。
「どこへ相談に?」
「延命寺です。横浜の……」
その名を聞いた瞬間、さわりの胸に冷たいものが落ちた。
最近、妙に耳にする寺の名前だった。
「延命寺……須田久子。今度、衆議院選挙に出るって噂されてる人よね」
政治ジャーナリストとしての興味も刺激された。
だが、それ以上に、胸の奥にざらつくような違和感があった。
行方不明者の“最期の足跡”が、すべて延命寺に向かっている。
*
【延命寺への訪問】
延命寺の山門に立つと、冷たい風が吹き抜けた。
篝火の跡が黒く残り、どこか焦げた匂いが漂っている。
さわりが呼び鈴を押すと、巨体の寺男が現れた。
松本ごん。
スキンヘッドに、顔のパーツが中央に寄った奇妙な造作。
「うぅ……うぅ……」
奥から声がした。
「ごめんなさいね。ごんちゃんは唖なのよ。どうぞこちらへ」
現れたのは、庵主・須田久子。
上品な六十代の女性で、口元がわずかに右へ曲がっている。
案内されるまま本堂へ入ると、さわりの視界に“それ”が飛び込んできた。
魔女人形。
黒ずんだ木で彫られ、裂けた口元が異様に歪んでいる。
「不気味ですね」
「えぇ、しかしね。欧米では魔女人形は厄除けなんですよ。欧米には一家に一個はあるんです」
「へぇ……勉強になりました」
さわりはメガネのレンズをわずかに触り、録画を開始した。
*
【政治と慈善の顔】
取材の名目で、さわりは久子の政治信条を尋ねた。
「移民反対、消費税廃止……そういった政策を掲げる予定ですの」
「なるほど。支持層は広がりそうですね」
「それに、月に一度炊き出しをしてホームレスを救済していますのよ」
久子は柔らかく微笑んだ。
「こんな話があるんですよ。光明皇太后が炊き出しを乞食に施されていた。ある日、あまりの汚さにお風呂に入れてあげたら、その乞食が光だし阿弥陀如来になった……阿弥陀如来の全てはお導きです」
さわりはICレコーダーを置き、メモを取った。
そして、核心に触れた。
「ところで、庵主様の人生相談を受けた人が行方不明になっていることをご存知ですか?」
久子の眉がわずかに動いた。
「えっ……知りませんわ」
さわりは家族から預かった写真を差し出した。
「この方をご存知ですか?」
「……いえ。いったい、何人がここを訪れていると思いますか?」
その言葉に、さわりは追及を断念した。
*
【帰り道の異変】
寺を出ると、突如として北風が吹きつけた。
さわりは肩をすくめた。
「風邪を引いたかな……」
ふと空を見上げると、遠くに小さな黒い影が浮かんでいた。
延命寺の魔女人形と同じ、裂けた口元。
影はゆっくりと、さわりの背中へ近づいてくる。
振り向く。
しかし、何もいない。
「早く帰って半額弁当、食べて寝るか」
読者は不思議に思うかもしれないが、さわりの冷蔵庫には半額弁当が常に数個ストックされている。
*
【夜の怪異】
入浴中、ふと窓を見ると——
魔女人形の顔が張り付いていた。
「……っ!」
シャワーの蛇口をひねった瞬間、熱湯が降り注いだ。
「何よ、これ!」
肌が赤く腫れ、痛みが走る。
再び窓を見ると魔女人形の顔はもうない。
風呂から出て、お気に入りの半額ひれかつ弁当を電子レンジに入れた。
数秒後、破裂音が響いた。
「……延命寺ね」
その夜、眠りにつくと、魔女人形が夢に現れた。
裂けた口が、さわりの耳元で何かを囁く。
がばっと起き上がった。
「そういうことか……」
*
【翌朝、調査開始】
翌朝、さわりは黒いスーツに袖を通し、メガネのレンズを確認した。
「魔女人形……あなたの正体を暴いてやる」
霊障人としての本領を発揮する時が来た。
第四章:須田久子の正体
佐藤さわりは、黒いスーツの襟を整えながら、雑居ビルの一階にある「小島商店」の看板を見上げた。
看板は色褪せ、赤い文字は半分剥がれ落ちている。
店の前には、悪魔教やオカルトのグッズが無造作に並べられ、どれも埃をかぶっていた。
ドアを開けると、鈴の音が乾いた空気に響いた。
「いらっしゃい……おや、若いお嬢さんだね」
店主の小島弘之が、奥から顔を出した。
前歯が二本抜け落ちており、笑うと妙に間の抜けた表情になる。
しかし、その目だけは妙にぎらついていた。
「お安くしておきますよ。今日、初めての来店者だ」
さわりはうんざりした表情を隠さず、黒縁メガネを押し上げた。
メガネの中央に埋め込まれたレンズは、店内の様子を静かに録画している。
「魔女について教えてください」
小島は一瞬、目を細めた。
その反応を見て、さわりはスマホを取り出し、延命寺で撮影した魔女人形の写真を見せた。
「これ、見覚えありますか?」
小島は写真を覗き込んだ瞬間、息を呑んだ。
「おぉ……スーダ」
「えっ、スーダ?」
「こいつは悪い魔女でね。人に寄り添うふりをして、真逆の方向に導く。最期は魂を抜き取り、食べるんだ。精神的に追い詰めた魂は、特に美味しいらしい」
小島は棚の奥から古びた本を取り出した。
表紙は破れ、紙は黄ばんでいる。
「これは悪魔事典。カトリックとプロテスタントが協力して書いた珍しい本だ。ここにスーダが載っている」
ページをめくると、黒いインクで描かれた魔女の姿が現れた。
裂けた口、逆立つ髪、赤い目。
延命寺の魔女人形と酷似していた。
「弱点は……?」
小島は丹念にページをめくったが、首を振った。
「書いてないね。魔女にも階級があってね。スーダは上位の魔女だ。弱点は簡単には見つからんよ」
「そう……弱点はわからずじまいか」
そのとき、小島の視線が店の透明なドアに向いた。
そこに——白い顔が張り付いていた。
裂けた口が、笑っている。
「ひっ……!」
小島が瞬きをした瞬間、顔は消えていた。
「……気のせいか」
小島は震える手で奥からペンダントを持ってきた。
「ヒルデブラント……グレゴリウス七世のペンダントだ。魔除けになる」
「高いわね。もっと安くしてよ」
「高いが、魔除けとしては抜群だ」
さわりは藁にもすがる思いで購入した。
*
さわりが店を出たあと、店内は急に静まり返った。
小島は胸を撫で下ろし、棚に戻ろうとした。
その瞬間——
ドサァッ!
売れ残りの在庫の山が、小島の背中に崩れ落ちた。
棚が倒れ、鉄製の置物が頭を直撃した。
「ぐっ……!」
小島は床に倒れ込み、動かなくなった。
そのまま三十分後、息絶えた。
倒れた棚の隙間から、魔女人形と同じ裂けた口が、じっと小島を見下ろしていた。
*
【延命寺へ】
翌日、さわりは横浜市へ向かった。
午後のはずなのに、延命寺に近づくにつれ、空は異様に暗くなっていく。
寺に着いたときには、すでに夜のような闇が広がっていた。
山門をくぐると、須田久子が本堂の前に立っていた。
口元の歪みは、もはや隠そうともしていない。
「待ってたわよ、佐藤さわり」
声は低く、湿っていた。
「私は魔女スーダ。中国の富裕家がハンガリーから連れてきてくれたの。もちろん、彼の魂はいただいたわ。あなたが何をしても無駄よ」
その言葉を聞いた瞬間、さわりの意識が暗転した。
*
【本当のスーダ】
気がつくと、さわりの体は宙に浮いていた。
見えない力が、須田久子——いや、スーダのもとへ引き寄せていく。
スーダの髪は逆立ち、目は真っ赤に染まり、鼻は異様に高く伸びていた。
口は耳まで裂け、黒い舌が蠢いている。
「あなたの魂……美味しそうね」
両手でさわりの肩を押さえ、頭をすっぽりと飲み込もうとした。
その瞬間——
グレゴリウス七世のペンダントが眩い光を放った。
「熱い! 熱いぃぃ!」
スーダが絶叫し、さわりは意識を取り戻した。
さわりは本堂の反対側へ走り、魔女人形を掴んだ。
篝火の炎が揺れ、影が踊る。
「これが……あなたの核ね!」
魔女人形を篝火に叩きつけた。
炎が大きく揺れ、篝火台が倒れた。
魔女人形は下敷きになり、黒い煙を上げながら燃え始めた。
スーダは両手で首を押さえ、苦しみもがいた。
「やめてぇぇぇ!」
松本ごんも同じように首を押さえ、地面に倒れ込んだ。
魔女人形が完全に燃え尽き、灰になった瞬間——
スーダもごんも、足元から砂のように崩れ、消えていった。
「須田久子は……魔女人形スーダが作った幻影だったのね。ごんも」
延命寺は一瞬で無人の寺となり、
美しかった本堂は、みるみる朽ち果てていった。
エピローグ:湯けむりの中で
延命寺が崩れ落ちた翌日、佐藤さわりは、近所の古い銭湯「旭湯」の暖簾をくぐった。もちろん、佐藤の部屋にはお風呂があるが、銭湯が好きで事件解決後には、よく行く。
夕方の空は薄い橙色に染まり、冬の冷たい風が頬を刺す。
だが、銭湯の中は湯気が立ちこめ、外の寒さとは別世界のように温かかった。
脱衣所でスーツを脱ぎ、タオルを肩にかけると、さわりは大きく息を吐いた。
「……疲れたわね、ほんと」
湯船に足を入れた瞬間、じんわりと熱が足先から体の芯へと染み込んでいく。
肩まで沈むと、全身の緊張がふっとほどけた。
湯気の向こうで、常連らしきおばあさんたちが世間話をしている。
その声が、妙に心地よかった。
「須田久子……あれだけの怪物が、まさか人形の幻影だったなんてね」
独り言のように呟き、湯面を指でなぞる。
昨夜の出来事は、夢だったのではないかと思えるほど現実味が薄れていた。
延命寺の本堂で見つけた壺。
蓋を開けたとき、透明な風船のような魂がふわりと飛び出し、土葬の墓地へ吸い込まれていった。
しかし、帰ってくる者はいなかった。土葬された肉体は全て朽ち果てていた。
「つらいわね……」
佐藤は湯の中で膝を抱え、静かに目を閉じた。
救えなかった命の重さが、湯気の中でゆっくりと胸に沈んでいく。
だが、同時に思う。
——生き残った自分が、また次の誰かを救えばいい。
湯船から上がり、脱衣所で髪を拭きながら、さわりはふっと笑った。
「さて……帰って半額弁当、食べよ」
銭湯を出ると、夜風が頬を撫でた。
空には雲が流れ、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。
スーパーの袋を提げ、アパートへ向かう足取りは軽かった。
魔女スーダの影はもうどこにもない。
ただ、静かな夜が広がっているだけだった。
佐藤さわりは、湯上がりの温かさを胸に抱きながら、ゆっくりと家路についた。
(完)
ここまで読んでくださった皆様に、まず心から感謝を申し上げたい。
延命寺の闇、魔女スーダの正体、そして佐藤さわりの孤独な戦い。
書きながら、私自身も彼女と一緒に暗い森の中を歩いているような気持ちになった。
佐藤さわりは、特別な力を持っているわけではない。
霊を祓う術もなければ、魔女と戦う武器もない。
ただ、真実を知りたいという意志と、
逃げずに向き合う勇気だけを頼りにしている。
だからこそ、彼女が銭湯で湯に浸かり、
「やっと終わった」と息をつく姿を書いたとき、
私自身もほっと肩の力が抜けた。
物語はここでひと区切りだが、
佐藤さわりの人生はまだ続いていく。
またどこかで、彼女は新しい事件に出会うかもしれない。
そのときは、今回とは違う闇が待っているだろう。
この作品が、読んでくださった方の心に
少しでも不思議な余韻を残せたなら、
作者としてこれ以上の喜びはない。
ありがとうございました。




