佐藤さわりの霊障事件簿 戦国時代の武者の霊が出る村
佐藤さわりシリーズも、これで三作目になりました。
今回、彼女を「普通の人」として描こうとしたところ、どうしても最期の場面が書けず、しばらく筆が止まってしまいました。
そんな折、ケーブルテレビで偶然目にした中国映画――霊幻道士が、お札を額に貼って霊を封じる場面が映り、
「あ、これだ」
と、妙に腑に落ちたのです。
そこから一気に物語が動き出しました。
また、今回はできるだけ文字数を抑え、読み切りとしてのテンポを意識して書いています。
短い中にも、佐藤さわりらしさと、土地の空気が残るように工夫しました。
第一章:山で16人の武将が惨殺される
戦国の世も末期、織田信長が本能寺で倒れる少し前のこと。
備中高松城は、羽柴秀吉の水攻めによって、周囲一帯が湖のように変貌していた。
水面は静かだが、その下には、戦の緊張と怨念が渦巻いていた。
しかし、この戦の裏で、もっと暗い影が動いていた。
石川田村介。
高松城に属する武将でありながら、己の保身と野心のために、秀吉を巧みに欺いた男である。
「毛利との間道を教えましょう」
そう言って秀吉に近づいた石川は、16人の優秀な諜報武将を山中へと誘い込んだ。
山は深く、昼でも薄暗い。
苔むした岩、湿った土、獣の気配。
その奥で、石川は突然刀を抜いた。
悲鳴は、木々に吸い込まれて消えた。
16人の武将は、逃げる間もなく斬り伏せられた。
血が土に染み込み、腐葉土の匂いと混ざり、山はその日、怨念の棲家となった。
――四月一日のことである。
石川はそのまま高松城に戻り、城に立てこもった。
秀吉は清水宗治に対し、「宗治以外には危害を加えぬ」と約束したため、石川の命は奪われなかった。
*
高松城内。
水面に揺れる灯火の前で、城主・清水宗治は静かに言った。
「宗春殿、わしも腹を切らねばなりませんか」
「秀吉殿は、わし以外には指一本触れぬと約した。安心してくれ。住人たちのために働いてくれ」
そう言い残し、宗治は潔く自害した。
その血の匂いがまだ消えぬうちに、石川田村介は生き延びた。
その後、石川がどうなったかは定かではない。
秀吉の家臣になったという説もあれば、どこかへ逃げ延びたという噂もある。
ただ、この地方にはひとつの伝承が残った。
*
「毎年四月一日、山には16人の武者の霊が徘徊する。外に出れば、連れていかれる」
水攻めの城ではなく、
山中で惨殺された16人の怨念が、春の山に現れる。
村も市も、四月一日だけは外出を禁じる。
その日、山に近づく者は、二度と戻らない。
*
正恵温泉旅館は、山あいの細い道を抜けた先にひっそりと建っている。
古い木造の建物は、春の湿気を含んだ風に軋みながら、どこか人の気配を吸い込むような静けさをまとっていた。
こんな辺鄙な場所にもかかわらず、近年は外国人旅行者が増え、旅館の帳場には多国籍の言語が飛び交うようになっていた。
その日の夕刻、旅館のロビーでは数名の旅行者が大声で騒ぎ、従業員たちは困惑した表情を隠せずにいた。
温泉の利用マナーを知らない客も多く、従業員はその対応に追われていた。
旅館の女将はため息をつきながら、帳場の奥で頭を抱えていた。
村役場の畠山元親は、旅館の前に新しい立て札を設置していた。
「四月一日は外出禁止。村の伝承に基づく警告」
多言語で書かれた注意書きには、村の由来と“16人の武者の霊”の伝承が簡潔に記されている。
畠山は真剣な表情で杭を打ち込み、立て札を固定した。
旅館の前でその様子を眺めていた旅行者たちは、興味深そうに写真を撮る者もいたが、内容を深く理解している様子はなかった。
むしろ、どこか観光地の怪談話のように受け取っているようで、畠山は胸の奥に小さな不安を覚えた。
*
夜が深まり、旅館に泊まり客が戻ってきた。
玄関に入ってきたひとりの男は、全身が泥だらけだった。
「お客さん、どうされたんです? そんなに汚れて……」
仲居が声をかけると、男は笑いながら言った。
「だいじょうぶ、山菜。山で採ってた」
その言葉にしては、泥の量が異様だった。
まるで斜面を転げ落ちたかのように、背中まで泥がこびりついている。
仲居がふと男の首筋に目をやると、細長い黒い影がぬらりと動いた。
蛭だった。
吸い付いたまま、じわりと血を吸っている。
「ちょ、ちょっと失礼しますね……!」
仲居は震える指で蛭をつまみ、ようやく引き剥がした。
蛭が落ちた瞬間、男の首筋から赤い血がつっと流れた。
「お客さん、明日は四月一日ですから、外出は控えてくださいね。村の決まりなんです」
男は曖昧に笑い、気にも留めない様子だった。
*
そして翌日――四月一日。
旅館の女将が何度も注意したにもかかわらず、数名の旅行者が外に出て、旅館の前で花火を始めた。
ぱちぱちと火花が散り、山の静寂を破る。
春の夜気は冷たく、火薬の匂いが風に乗って漂った。
旅行者たちは大喜びで、夜空に向かって火花を打ち上げていた。
だが、旅館の者たちは誰も笑っていなかった。
女将は玄関先で手を握りしめ、震える声でつぶやいた。
「……どうか、何も起きませんように」
しかし、山の奥から吹き下ろす風は、どこか湿って重く、まるで何かが近づいてくるような気配を孕んでいた。
*
翌朝。
旅館の廊下は異様なほど静かだった。
朝食の時間になっても、昨夜花火をしていた客たちは誰ひとり姿を見せない。
女将が不安を抱えながら部屋を開けると、布団は乱れたまま、荷物もそのまま。
ただ、窓だけがわずかに開いていた。
16人。
伝承と同じ数の旅行者が、跡形もなく消えていた。
地元紙は大騒ぎとなり、村は騒然とした。
しかし東京の新聞では、ただ一行。
「旅行者16名行方不明」
それだけだった。
山の奥で何が起きたのか。
誰も知らない。
ただ、村人たちは知っていた。
第二章:西日暮里の影
東京・西日暮里。
山手線の高架をくぐると、夕刻の光がビルのガラスに反射し、街全体が淡い橙色に染まっていた。
駅前の雑踏は絶え間なく流れ、古い商店と新しいオフィスビルが混在するこの街は、どこか時間の層が重なり合っているように見える。
その一角に建つ近代的なオフィスビル。
外観はガラス張りで洗練されているが、内部の一室だけは別世界のように鬱蒼としていた。
書類の山、古い資料棚、取材用の録音機材、そして壁に貼られた選挙区地図。
政治専門誌の編集部は、都会の喧騒とは裏腹に、重く沈んだ空気をまとっていた。
その部屋の片隅に、佐藤さわりはいた。
身長160センチの痩せ型。
肩にかかるダークブラウンの髪は軽く内巻きで、細縁の眼鏡越しの視線は冷静そのもの。
紺のジャケットの左ラペルには、小さなバッジがひとつ光っている。
大学を出たばかりとは思えない落ち着きと、若さゆえの鋭さが同居した佇まいだった。
彼女はラテを片手に、地方紙の記事に目を通していた。
そこには、またしても“行方不明”の文字が並んでいる。
以前は年に一度だけだったはずの失踪事件が、ここ数ヶ月、毎月同じ日に起きている。
だが、記事は淡々としており、東京の編集部では誰も深刻に受け止めていなかった。
編集長・田野倉伝兵衛が、金歯を光らせながら笑った。
「こいつらはさ、日本旅行で行方不明になって、そのまま住み着くんだよ。常套手段なんだよ、こういうのは」
田野倉は50代。
橋本龍太郎故総理が愛用したというポマードをつけ、真ん中分けの黒髪は白髪ひとつない。もちろん染めている。
金ボタンのジャケットに、でっぷりした体。
笑うたびに前歯の金歯がぎらりと光る。
佐藤は記事を閉じ、ラテを置いた。
編集長の軽口には反応せず、視線は別の資料へと移っていく。
彼女の関心は、まったく別のところにあった。
――地方都市で起きている、女市長の学歴詐称問題。
そこから始まった、市長への不信任案、市議会の解散、市長の失職、そして市長選挙。
政治ジャーナリストとして、佐藤さわりが追うべきはそちらだった。
地方政治の歪みと権力闘争。
それこそが、彼女の仕事であり、信念でもある。
ただ、そのとき彼女はまだ知らなかった。
地方紙の片隅に載った“毎月の失踪事件”が、
やがて自分の運命を大きく揺るがすことになるとは――。
第三章:山が数える夜
備中岡山・子持村。
山々に囲まれた小さな集落は、春の陽気に包まれながらも、どこか湿った影を抱えていた。
舗装の甘い細い道、田んぼの水面に映る雲、夕暮れになると遠くでカエルの声が重なり合う。
都会の喧騒とは無縁の、ゆっくりと時間が沈んでいくような村だった。
佐藤さわりは、その村に取材で訪れていた。
女市長の学歴訴訟から始まった政治騒動は、市議会の解散、市長の失職、そして市長選挙へと発展し、全国的な注目を集めていた。
彼女が泊まったのは――
あの正恵温泉旅館だった。
一ヶ月前、16人の旅行者が忽然と姿を消した場所。
事件から日が経ち、旅館は営業を再開していたが、どこか空気が重い。
廊下の照明は明るいはずなのに、光が床に落ちると薄暗く沈んで見える。
佐藤は取材を終えると、部屋に戻り、ノートPCを開いた。
毎日行っているYouTubeのライブ配信だ。
美しい容姿と冷静な語り口で人気を集め、彼女のチャンネルには多くの視聴者が集まる。
「こんばんは、佐藤さわりです。今日は話題の市長選について――」
画面越しのライトが、彼女の細縁の眼鏡に反射する。
その背後、窓の外には、黒い山影が静かに沈んでいた。
*
【五月一日の三日前の夜】
配信を終え、佐藤がベッドに横になった頃だった。
窓の外から、風とも虫の声とも違う、湿った響きが聞こえてきた。
「……ひとり……ふたり……」
囁くような、しかし耳元で数えられているような声。
佐藤は身を起こし、窓を開けた。
外は真っ暗で、月明かりが山の稜線をかすかに照らしているだけだった。
翌晩も、またその翌晩も、声は続いた。
数は毎晩増えていき、前日の夜には必ず――
「……じゅうろく……」
そこで止まった。
佐藤は、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
*
二日前、廊下の足跡
翌朝、旅館は騒然としていた。
廊下に、泥の足跡が点々と続いていたのだ。
山の湿った土。
踏みしめた形がはっきり残っている。
しかし、監視カメラには誰も映っていない。
足跡は玄関からではなく、山側の窓の外から始まっていた。
女将は震える手で雑巾を絞り、足跡を拭き取った。
だが翌朝、また同じ場所に足跡が現れた。
佐藤は取材ノートに小さく書き込んだ。
――これは、市長選とは別の“何か”だ。
*
【前日、倒れる立て札】
五月一日の前日。
村役場の畠山元親が立てた注意書きの立て札が、夜のうちに倒れていた。
風では倒れないように深く打ち込んである。
だが、土はえぐれ、まるで誰かが引き抜いたようだった。
旅館の従業員が立て直すが、夜になるとまた倒れる。
村人たちは四月一日の呪われた日を知っていたが、
まさか一ヶ月後にも同じことが起こるとは思っていなかった。
佐藤は胸騒ぎを覚えながら、取材メモを閉じた。
*
【五月一日、日付が変わる瞬間】
深夜0時。
旅館の空気が、突然ぴんと張りつめた。
その瞬間、旅館に泊まる客や仲居たちが、一斉に目を覚ました。
まるで何かに呼ばれたように、無言で部屋を出ていく。
裸足のまま、山へ向かって歩き出す。
月明かりだけが、彼らの足元を淡く照らしていた。
佐藤は物音に気づき、廊下に出た。
しかし、彼らの背中はすでに闇に溶けていた。
山の奥から、霧が流れてくる。
その中に、ぼんやりと影が浮かび上がった。
甲冑をまとった男たち。
骨のように痩せた輪郭。
手には刀。
霧の中で、彼らは静かに刀を構えた。
そして――
山に、短い叫びがいくつも吸い込まれていった。
翌朝、山道には動かぬ人影がいくつも横たわっていた。
警察は「鋭利な刃物による通り魔事件」と断定し、山狩りが始まったが、
何の手がかりも見つからなかった。
佐藤は、ただひとり、旅館の前で立ち尽くしていた。
胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。
――これは、調べなければならない。
ここから、彼女の“調査”が始まる。
第四章:山祠の記憶
佐藤は、旅館の一室で湯気の立つ茶を前にしながら、女将・大方正恵の語る古い話に耳を傾けていた。
「――あれは、天正十年。1582年のことです」
正恵の声は、まるで遠い時代の底から響いてくるようだった。
「この村では、四月一日に侍たちが無残に討たれたと言い伝えられています。その怨念を鎮めるため、江戸の頃に祠が建てられました。以来、四月一日は外に出てはいけない、そういう迷信が残っているんですよ」
佐藤は静かに頷いた。
迷信――しかし、女将の表情には軽い冗談の影もない。
「今では、知っている人もほとんどいません。祠も山奥にあって、誰も行きませんし……」
その言葉が、佐藤の調査心を刺激した。
*
翌朝、佐藤は山道を登っていた。
地図にも載らない細い道。木々が重なり合い、昼でも薄暗い。
やがて、苔むした祠が姿を現した。
「……誰も来ないはずなのに」
祠の前の地面は、まるで何度も踏み荒らされたように乱れていた。
倒れた賽銭箱、折れた木札、散乱する落ち葉。
「そのわりには随分荒れているわね」
佐藤はしゃがみ込み、足元に落ちていた一枚のお札を拾い上げた。
そのときは気にも留めず、バッグに滑り込ませただけだった。
祠の裏手には、木に刻まれた落書きがあった。
――黄巣参上!
中国人旅行客・黄巣。
旅館の仲居からも、前日に「中国人らしき客が山に入った」という話を聞いていた。
佐藤は眉をひそめた。
ただの悪戯にしては、荒らされ方が異様だ。
*
さらに奥へと進むと、空気が変わった。
湿り気を帯び、風が止まり、鳥の声すら消える。
その静寂の中で、佐藤は“それ”を見つけた。
山肌の窪地に、白いものが散らばっている。
近づくにつれ、それが何であるかが分かってしまう。
――四月一日に行方不明となった十六人。
骨だけになった彼らが、山の闇に埋もれるように横たわっていた。
佐藤は震える指でスマートフォンを取り出し、警察へ通報した。
その瞬間、胸の奥に冷たい確信が生まれた。
次に“何か”が起こるのは――六月一日。
幽霊が現れる周期。
毎年だったのが毎月になった一ヶ月後の“日”。
佐藤は山を下りながら、背後に視線を感じた。
風もないのに、木々がざわめく。
村はその日を境に、「惨殺事件の村」として世間の注目を浴びることになる。
だが、佐藤だけは知っていた。
これはまだ、始まりにすぎない。
第五章:山のざわめき
前市長は再び返り咲くために、ぎりぎりまで迷った末に立候補を表明した。しかし、かねてより燻っていた学歴詐称疑惑が正式に訴訟へと発展し、市民の怒りは一気に噴き上がった。
街頭演説では罵声が飛び、支持者の姿は日に日に減っていった。結果は火を見るより明らかだった。開票日の夜、前市長はあっけなく敗れ、無名の新人候補が当選を果たした。
だが、佐藤さわりは選挙の喧騒とは無縁だった。
彼女は有給を取り、あの山の麓にある旅館に留まり続けていた。あの夜以来、胸の奥に沈殿したざらついた不安が、どうしても離れなかったからだ。
そして、五月二十九日。
深夜、日付が変わった瞬間だった。
――山の方角から、かすかな声がした。
風の音とも、獣の鳴き声とも違う。人の声に似ているが、どこか湿り気を帯び、地の底から響くような低さがあった。
「……思った通りね。また、霊がざわめいているのね」
佐藤は窓を閉め、胸元を押さえた。
今回の事件の噂は瞬く間に広がり、旅館には一般客が一人も来なくなっていた。泊まっているのは新聞記者やテレビ局のスタッフなど、取材関係者ばかりだ。
旅館全体が、まるで息を潜めているようだった。
そして、六月一日。
午前零時を告げる時計の音が、静まり返った廊下に乾いた金属音を響かせた。
佐藤はすでに準備を整えていた。
松明、護符、そしてあの夜に拾った小さな木片。
胸の奥で、何かが「来る」と告げていた。
日付が変わった瞬間だった。
旅館のあちこちの部屋で、同時に布団がはね上がる音がした。
新聞記者、カメラマン、仲居――計十六人が、まるで糸で引かれたように立ち上がり、無言のまま玄関へ向かって歩き出した。
全員、裸足だった。
佐藤は松明を手に、彼らの後ろについた。
誰も振り返らない。
ただ、山へ向かって歩き続ける。
山道に入ると、空気が急に冷たくなった。
霧が足元を這い、木々の影が揺れるたびに、何かが潜んでいるような気配がした。
祠の前にたどり着いた瞬間だった。
――白い影が、霧の中から浮かび上がった。
鎧をまとった武者の霊。
骨だけになった顔に、空洞の眼窩がぎらりと光る。
その姿は半透明で、風に揺れるように揺らめいていた。
武者はゆっくりと刀を抜いた。
そして、十六人のうちの一人を指し示すように、手招きをした。
「駄目! 行っては!」
佐藤が叫んだが、男は止まらない。
足は地面を離れたようにふらつき、霊に吸い寄せられるように前へ進んでいく。
あと一メートル。
佐藤は咄嗟に松明を振り上げ、男の腕をあぶった。
「熱っ……!」
男が我に返った瞬間、佐藤は確信した。
――火が効く。
彼女は残りの十五人にも次々と松明を近づけ、火の熱で意識を戻していった。
「逃げて! 山を下りて!」
正気に戻った人々は、半透明の武者の群れを見て悲鳴を上げた。
泣き出す者、腰を抜かす者、ただ裸足のまま転げるように逃げる者。
それでも、全員が必死に山を駆け下りていった。
佐藤は全員を逃がしたが、気づけば自分の周囲を十六体の武者の霊が取り囲んでいた。
そのうちの一体が刀を振り下ろした。
刃は佐藤の肩を狙ったが、彼女の鞄に当たって弾かれた。
その瞬間、霊が怯えたように後ずさった。
佐藤は思い出した。
――鞄の中には、あの護符が入っている。
彼女は護符を取り出し、自分の額に貼りつけた。
そして祠へ向かって全力で走り出した。
不思議なことに、霊たちは誰一人として佐藤に触れられなかった。
まるで見えない壁が彼女を守っているかのようだった。
祠にたどり着くと、佐藤は額の護符をそのまま祠の木肌に押し当てた。
次の瞬間――
武者たちは苦しむように身をよじり、白い霧となって崩れ落ちていった。
鎧が砕ける音が虚空に響き、霊たちは一体、また一体と消えていく。
最後の一体が消えたとき、山には再び静寂が戻った。
風の音だけが、祠の周りを寂しげに通り抜けていった。
エピローグ
六月の終わり、村役場の畠山は、佐藤さわりから一連の出来事を詳しく聞いた。
最初は半信半疑だったが、彼女の語る内容はあまりにも具体的で、そして何より、あの夜に呼ばれた十六人の証言が、奇妙なほど一致していた。
畠山は机に肘をつき、しばらく黙り込んだ。
窓の外では、田んぼを渡る風が青い稲を揺らしている。
この村に長く勤めてきた彼には、土地の歴史が時折牙をむくことを知っていた。
だからこそ、佐藤の話を「迷信」と切り捨てることはできなかった。
「……祠は、守らなきゃいけませんね」
静かにそう言うと、畠山は決意したように立ち上がった。
村の予算を使うわけにはいかない。だが、私費でできる範囲なら、やるべきだ。
忘れられた祠が再び荒れる前に、何か形を残さなければならない。
数週間後、山の麓に小さな石碑が建てられた。
苔むした祠へ続く古道の入口に、ひっそりと佇む石碑。
そこには、簡素な文字でこう刻まれていた。
「この山に眠るものを敬い、忘れぬこと」
誰が建てたのか、村人の多くは知らない。
だが、畠山はそれでよかった。
大切なのは、忘れないことだけだった。
*
その頃、佐藤さわりは旅館の露天風呂に浸かっていた。
湯面に映る夕焼けは、山の稜線を朱に染め、どこか懐かしい匂いを運んでくる。
あの夜の恐怖はまだ胸の奥に残っている。
けれど、湯に包まれながら空を見上げると、不思議と心は静かだった。
「……今回は斬られると、本当に思った。明日、帰ろう」
ぽつりと呟くと、湯気の向こうで風鈴が鳴った。
まるで山が、ようやく眠りについたかのように。
佐藤はそっと目を閉じた。
長い旅の終わりに、ようやく訪れた安らぎを噛みしめながら。
一つ書き終えると、次の作品でまた苦しむ――
創作とは、どうやらその繰り返しのようです。
それでも、書き終えた後に残る静かな余韻が、次の物語へと背中を押してくれます。
そして、ここからようやく「佐藤さわりシリーズ」を本格的に始めていくつもりです。
彼女の物語は、まだ輪郭が揺らぎ、行き先も定まっていません。
けれど、その曖昧さこそが、次の一歩を踏み出す原動力になるのだと思います。
佐藤さわりの旅は、これからも続きます。
またお付き合いいただければ幸いです。




