前編
私は侯爵家の長女、アンジェリカ。次期当主として背負うものは色々とあるけれど、はっきり言ってそんなものはどうでもいい。
それより遥かに大切なものが私にはあった。まさに神が授けてくださった天使、妹のエミリアよ。五つ歳が離れていることもあって、私は昔からあの子を目に入れても痛くないほどに可愛がってきた。
ところが、そんな大切なエミリアに大変な不幸が。
あの子の婚約者である公爵家長男のオリバーが、他の女の色目にひっかかり、急に婚約破棄をつきつけてきた。しかも、色目を使った女というのがよりにもよってエミリアの友人であるマリリスだった。
私にとってはこの上なく憎い存在となったオリバーとマリリス。後日、社交の場で二人とばったり遭遇したことがあった。
部屋全体に気まずい空気が流れ、私に対して申し訳なさそうな表情を見せる浮気男と色目女。
「ア、アンジェリカ様、このようなことになってしまい、本当にすみません……」
オリバーは昔から私を苦手としている。今日はとりわけ縮こまって見えるわね。
とりあえず微笑みながら嫌味の一つでも返しておこうかしら。
「お気になさらず、オリバー様。幼い頃からの許嫁で一途にあなたをお慕いしてきたエミリアを袖にしてまで選んだ結婚なのですから、どうぞお幸せになってください。あなたもですよ、マリリス様」
私から視線を向けられて彼女はビクッと体を震えさせる。
「これまで姉妹のように接してきた私とエミリアを裏切ってまで掴んだ幸せなのですからね」
「……お、お二人には大変よくしていただいたのに、申し訳ありません……」
すごすごと退散していくオリバーとマリリスを見送りながら、私は顔に貼りつけていた微笑みを剥がして小さく呟いた。
「大切な妹を傷つけられた姉としては、こんなところかしらね」
これを隣で聞いていた私のパートナー、夫のケヴィンが呆れたように。
「……まったく、よくやるよ。君は本当に怖い」
「きちんと応対しなければならないでしょ、ここは社交の場なのだから。さあ、取引先の挨拶回りに行くわよ」
こう彼を急かして私達も仕事に戻った。
はっきり言ってあんな浮気男と色目女のこともどうでもいいのよ。私にとって一番大事なのはやっぱりエミリアのこと。
婚約者からも友人からも裏切られて可哀想なエミリア……。
これは私が慰めてあげないと、と思っていた矢先に異変が起きる。
それまで物静かでおっとりした性格だったエミリアが豹変した。別人のように積極的な性格に変わり、活発に動き回るようになってしまった。
……裏切りがよほどショックだったのかしら?
こちらのエミリアも元気で可愛いのだけれど、私は心配でたまらなかった。
さらにあろうことか、エミリアは世界を旅して回りたいと言い出す。それに向けての準備をサクサクと進めていった。
な、なんて行動力……。以前は私や家の者がいなければ自分では何も決められなかったのに……。本当にもう別人だわ。
……いけない、このままでは私の天使が飛んでいってしまう。
こうなったら、……エミリアを部屋に閉じこめて監禁するしかない。
安心して、旅を諦めるならすぐに出してあげるし、それ以外のことなら何でも自由にさせてあげるから。家は私がしっかりと維持して商売の方でも頑張ってお金を稼ぐわ。一生何不自由ない暮らしをさせてあげるから一生私の隣にいて!
よし、そうと決まれば早速エミリアを捕まえにいきましょ。
自分の執務室にいた私は決意と共に席から立ち上がった。ちょうどその時、扉をノックする音が室内に響く。
「お姉様、少しお時間よろしいですか?」
エミリアの声! 飛んで火に入る何とやらだわ!
「入って、私もちょうどあなたに話があったのよ」
椅子からは立ったままで、いつでも飛びかかれる準備をして妹を招き入れた。
しかし、入ってきたエミリアを見て意表を突かれる。彼女は手に見慣れない食べ物を持っていた。それを私の執務机の上に。
「……エミリア、これは何?」
「サバの味噌煮定食です、お姉様」
どうやらサバを煮込んだ料理のようだけど……、定食?
私が謎の料理を前に固まっていると、執務机の前にやって来たエミリアが語りはじめた。
「私の前世はこの世界の人間ではありません」
「え……、どういうことなの?」
「異世界からの転生者なのです」
「い、異世界……? 転生者……?」
私はもう一度エミリアが持ってきた謎の料理を見つめる。それから、彼女の顔に視線を戻した。
「……エミリア、大丈夫? いくら婚約破棄がショックだったからってそんな妄想を……」
「妄想じゃありませんって。とにかく、このサバの味噌煮定食を食べていただければ分かります」
……私に、この得体の知れない料理を食べろと?