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カレント・ヴァリュー  作者: マスカットつぶ子
第2章:無価値な俺と3億の虚無
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第1章:レベル0からの転落

東京の夏は、蒸し風呂のようだった。アスファルトから立ち上る熱気が、全身の毛穴という毛穴からじっとりと汗を噴き出させる。俺、田中タロウ、30歳。ついさっき、長年勤めた会社を辞めてきたばかりだ。上司との大喧嘩の末の退職。正論をぶちまけたつもりだったが、結局は「使えない奴が逆ギレした」とでも思われているんだろう。開放感なんて微塵もない。あるのは、社会から放り出されたような、底なしの不安と、じっとりとした後悔だけだ。


「ちくしょう…」


アスファルトに唾を吐き捨てた瞬間、視界の端に黄色い閃光が走った。バナナの皮。なぜこんなところに。一瞬の思考の停止。次の瞬間には、俺の体は重力に従って宙を舞い、後頭部からアスファルトに叩きつけられていた。


「いってぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


頭蓋骨にヒビが入ったんじゃないかと思うほどの激痛が走り、視界が真っ白になる。通行人の冷たい視線が突き刺さるが、それどころじゃない。朦朧とする意識の中、なんとか立ち上がり、ふらふらとアパートの自室へとたどり着いた。


激しい頭痛にうなされながら、半日ほど眠っただろうか。目が覚めると、部屋は薄暗く、頭の痛みはまだ残っていた。重い体を起こし、ぼんやりと天井を見上げる。その時だ。


視界の端に、奇妙なものが映り込んだ。


天井の照明器具に、半透明の数字が浮かんでいる。「1200」。


「…は?なんだこれ?」


目を擦るが、数字は消えない。次に、ベッドサイドのテーブルに目をやると、そこにも数字が。「800」。壁の時計には**「3500」**。


俺は混乱した。熱でもあるのか?頭を打ったせいか?恐る恐る、目の前のテーブルに手を伸ばす。数字は、触れることはできない。まるで、AR(拡張現実)のように、実体がない。


部屋中の物を手当たり次第に触りまくった。服、本、ゴミ箱、空のペットボトル。ありとあらゆる物に、それぞれ意味不明な数字が浮かび上がっている。


そのうち、うっかり手を滑らせてしまった。ガシャン!と鈍い音を立てて、お気に入りのブランド物のマグカップが床に落ち、無残にも粉々に砕け散った。


「うわっ、マジかよ…」


買った時は1万円はしたはずの、奮発して手に入れたマグカップだ。割れた破片に目をやると、そこには**「200」**と数字が浮かんでいた。


「せっかく気に入ってたのに、もう使えない…」


そう思った瞬間、割れたマグカップの破片に浮かんでいた**「200」という数字が、スッと「0」**になり、そのままフッと消えて見えなくなった。


「…え?」


冷たい床に散ったコーヒーを拭こうと、ティッシュの箱に手を伸ばす。箱から2枚のティッシュを引き出すと、箱に浮かんでいた数字が、**「188」から「184」**に変わった。


「…まさか」


俺は、ティッシュの箱を手に取った。箱には「320枚(160組)」と書かれている。


「…物の数が見えるだけ?なんて馬鹿な能力だよ、俺にはお似合いだぜ、ハハッ」


自嘲気味に笑い、ベッドに横になる。激しい頭痛と、この奇妙な現象に、もう考えるのも疲れた。


寝返りを打ち、机の上にある財布が目に入る。「7642」。隣の通帳に目を向ける。「1457039」。


「…まさかな」


あえて我慢した。もし、これが俺が思っている通りの能力なら、とんでもないことだ。ゆっくりと、心の奥底で踊りたくなるような高揚感を抑え、震える手で財布を開く。


千円札が7枚。小銭が…142円。


「…がっかりだ」


数字と金額が一致しない。やはり、ただの幻覚か、頭を打った後遺症か。俺は、失望して財布を床に投げ捨てた。


その時、財布のサイドポケットから、何かが飛び出した。コロコロと転がったのは、500円玉だ。パチスロで使いすぎても、煙草が買えるように、いつも隠しておく「へそくり」の500円玉。


その500円玉に、はっきりと数字が浮かんでいた。「500」。


「…っ!」


俺の脳裏に、マグカップの**「200」、ティッシュの「188」がフラッシュバックする。そして、財布の「7642」**。千円札が7枚で7000円。小銭が142円。合計7142円。隠し持っていた500円玉を足すと、7642円。


通帳の数字、1457039円。これも、銀行の残高と一致する。


「この能力は…本物だ!これは、物の価値がわかる能力なんだ!」


そう確信した時には、もう俺は部屋の真ん中で踊っていた。心の底から湧き上がる興奮に任せて、奇妙なステップを踏む。だが、すぐに冷静になった。


まずやるべきことは決まった。


「駅前に行こう!」


女性の下着は高いと聞く。もし、この能力が「価値」を示すなら、服装の合計が低い人はノーパンに違いない。俺は天才だ!…そう、俺は童貞だった。


「いや、待てよ…」


しかし、すぐに我に返る。正解が分からないんじゃ面白くない。透視能力がよかったな、と心の中で呟く。やはり俺はクズだった。


そこから、俺は街中を一日中物色して回った。すれ違う人々の持ち物、スマホ、服、靴。ありとあらゆる物に数字が浮かび上がり、俺の視界は情報の洪水に晒された。


ブランドショップの前では、高級バッグに浮かぶ「1000000」の数字に「ボッタクリだろ!」と心の中で叫び、カフェのコーヒーに浮かぶ「500」に「こんなもんが500円もするのかよ!」と毒づいた。


時には、通行人の女性の持ち物に浮かぶ数字を凝視しすぎて、不審な目で見られたり、露骨に嫌な顔をされたりもした。


「おいおい、そんなに見つめるなよ。変態か?」


「…す、すみません。ちょっと、物が…」


しどろもどろな言い訳をして、足早に立ち去る。ああ、俺はなんてクズなんだ。


太陽が傾き始め、街がオレンジ色に染まる頃、俺は宝くじ売り場の前を通りかかった。疲れた足を引きずりながら、ふと視線を向けたその時だ。


売り場で宝くじを買い求めている若者が持っている券から、一瞬、大量の**「0」**があふれたのが見えた。


「…っ!」


それは、まるで光の粒子のように、若者の手から溢れ出し、すぐに消えた。だが、俺にははっきりと見えた。それは多分、そういうことなんだろう。


急いで駆け寄る。


「すみません、今買った宝くじを買わせてもらえませんか?怪しいものじゃないんです!実は、あの売店のおばさんは私の母なんですが、ギャンブルが大好きで誕生日に宝くじをあげたいんですが、サプライズにしてあげたくて。父が死んでからギャンブルにハマって、好きすぎるあまりついには売り始めて…」


もちろん、嘘だ。流石にこの言い訳は怪しすぎる。自分でもそう思った。だが、この若者はとてもいい人だった。


「ああ、いいですよ。おばちゃん、いつもお世話になってるんで。どうぞ、定価でいいですよ」


彼は快く、定価で宝くじを譲ってくれた。俺は震える手で、その宝くじの包みから見える1枚目をそっと確認する。


「300000000」


3億だ。


俺が震える間に、青年は宝くじ売り場に戻っていった。


「おばちゃん、もう1連番おねがい!」


「あんた好きだね~、くじなんてやめときな~」


「いいんだって!今日は絶対に当たる気がするんだよ!」


「バカ言うんじゃないよぉ!ギャンブルなんてしたことないよあたしゃ!」


その叫び声で、俺は我に返った。青年と目が合う。俺は、何も言わずに走った。後ろを振り返らず、決して握った宝くじを離さずに、家までまっすぐ走った。


それから、宝くじの結果発表まで、だらだらとした1週間が過ぎた。


俺の部屋は、床には脱ぎ捨てた服、カップ麺の空容器、読みかけの漫画が散乱し、異臭を放っていた。窓を開けることすら億劫で、カーテンは固く閉ざされたまま。その薄暗い空間で、俺はただひたすらにゴロゴロと過ごした。


「あー、腹減ったな…」


冷蔵庫を開けても、中にあるのは賞味期限切れのプリンと、干からびた野菜だけだ。コンビニまで行くのも面倒くさい。かといって、貯金残高が145万円あることを忘れてしまっているタロウは、感覚的に「金がない」と勘違いしている。

そんな時、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。


「…誰だよ」


居留守を使おうかと思ったが、しつこく鳴り続けるチャイムに観念して、ドアを開けた。そこに立っていたのは、大家のおばあちゃんだ。


「タロウくん、元気にしてるかい?最近顔が見えないから、心配でねぇ」


「あ、はい、元気です…」


大家さんは、俺の部屋の異臭に気づいたのか、一瞬顔をしかめたが、すぐに優しい笑顔に戻った。


「この間、蛍光灯が切れちゃってねぇ。手が届かなくて困ってて。悪いけど、交換してもらえないかい?」


面倒くさい。そう思ったが、断るのも気が引けた。渋々、大家さんの部屋までついていくと、彼女は「ありがとうねぇ」と何度も言ってくれた。蛍光灯を交換するだけ。たったそれだけなのに、大家さんの「本当に助かったよ」という言葉は、俺の心にじんわりと染み渡った。


自分の部屋に戻り、再びベッドに転がると、俺はぼんやりとスマホをいじっていた。エロサイトを眺めながら、「こんなのより、リアルな女と…」と虚しいことを考えている。だが、その頭の中の妄想は、結局、何も実行に移せないまま終わる。だって、俺は童貞だ。口ばかりのクズ野郎だ。


「はぁ…」


と、ため息をついた時、窓の外から猫の鳴き声が聞こえてきた。嫌な予感がして、カーテンを少しだけ開けてみる。


「やーいやーい、逃げろ逃げろ!」


3人組の小学生が、段ボール箱に隠れている野良猫に向かって石を投げている。猫は怯えきって、ミャー、ミャー、とか細い声で鳴いている。


「ったく、クズばっかじゃねぇか、この世は…」


そう呟いた瞬間、俺は窓を開け、声を荒げた。


「おい!やめろ、お前ら!」


小学生たちはビクッと肩を震わせ、俺の方を見た。その顔には、驚きと、少しの恐怖が浮かんでいる。俺はそのまま窓から身を乗り出し、さらに大きな声で怒鳴った。


「そんなことして、楽しいのか!?猫が可哀想だろ!さっさと帰れ、クソガキども!」


小学生たちは、俺の剣幕に怯えたのか、そそくさと逃げていった。俺は舌打ちをし、窓を閉めた。猫はまだ、段ボール箱の中から震えている。


「ふん、別に…」


誰に見せるわけでもなく、俺はそう呟いた。

そんなクズで、だらしなくて、童貞で、でもどこか少しだけ、優しい自分に嫌気が差す。そして、またベッドに転がり、宝くじの結果発表のニュース番組をぼんやりと見始めた。


それから、情熱的な恋人ならろくに寝れないであろう1週間が過ぎた。俺は爆睡していた。起きては適当なものを食べ、また寝る。家畜のような生活をしつつも、テレビだけはつけっぱなしだ。


「おはようございます!」


朝のニュース番組で、綺麗な女性アナウンサーが元気に挨拶をしている。この日がついに来た。あれからずっと、宝くじの数字は変わっていない。「300000000」。3億。正直、現金よりも、この力の「答え合わせ」に興味津々だった。宝くじに当たる確率は、飛行機が墜落して生き残る確率よりも低いと聞いたことがある。到底自分には縁のないことだと思っていた。


銀行へ向かう。普段着のまま、場違いな高級感のあるロビーに足を踏み入れると、周りの客がちらりとこちらを見る。俺は、きょどる田舎者のように、ぎこちない足取りで窓口へ向かった。


「あの、宝くじの換金をお願いしたいんですが…」


窓口の女性は、にこやかに対応してくれた。手続きは滞りなく進む。身分証明書がないことには、さすがに少し手間取ったが、なんとか対応してもらった。数十分後、俺の口座に、確かに「300,000,000円」という数字が記帳された。


銀行を出て、俺は再び走った。3階建て、月6万のアパートに帰り、服のまま風呂場に駆け込み、シャワーを頭からかぶる。冷たい水が、興奮で火照った体を冷やしていく。


そして、震える声でつぶやいた。


「…本物だ」


全身から力が抜け、タロウはその場でへたり込んだ。冷たいシャワーの水が、興奮で熱くなった頬を伝い、床に落ちる。それはまるで、熱い涙のようだった。

喜びと安堵。そして、どうしようもない不安と恐怖が、津波のように押し寄せる。自分の人生を変える大金を手に入れたことへの興奮と、同時に、この力が本物だと証明されてしまったことへの恐れ。

彼は、濡れた髪をかきむしり、ヒステリックに笑い、そして声を上げて泣いた。3億円という数字は、ただの金額ではない。それは、タロウの世界が、もう二度と元には戻らないことを告げる、確固たる現実だった。

シャワーを止め、びしょ濡れのまま天井を見上げる。そこには、いつものように、**「1200」**という数字が静かに浮かんでいた。

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