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悪徳領主は陽だまりを目指す

作者: SAIKAI

人は私を〈悪徳伯爵グリフォン〉と呼ぶ。

豪奢な黒マントに深紅の裏地を忍ばせ、常に香木の匂いを漂わせながら馬車で城下を見下ろす――そんな絵に描いたような悪徳領主だと人は噂する。



1 捨て子の冬 ――氷のゆりかごと賭けの種――


 最初の記憶は、星すら凍りつく真冬の夜空だ。

 月明かりさえ薄い寂れた市場の裏手、凍えた干し草の上に私は転がされていた。

 まだ声帯もまともに動かない生後三日──泣こうとすれば吐くような息が白く散り、わずかな温もりを奪われる。かすれる啼き声は吹き荒ぶ夜風にかき消え、誰にも届かなかった。


 間もなく、酔いどれの男がふらつきながら路地へ足を踏み入れた。

 薄汚れた毛皮の外套に、安物のナイフを腰に吊るしたその男は、私を見つけると酒臭い息を吐きながら笑った。


「へぇ、変わった拾い物だな……」


 まるで賭場で転がるサイコロを拾うかのような口ぶりだった。

 男の名はリオネル。偶然を装っていたが、後に知るところによれば、彼は“酔漢”などではなく当時の当主、つまり先代伯爵自身である。


 彼は私を抱き上げると、身じろぎひとつしない私の小さな身体をくるりと回して確かめ、無造作に懐へ押し込んだ。

 腕の中は冷え切った鉄よりも硬かったが、その瞬間だけは炎のような体温が私に流れ込んだ気がする。生後三日にして、私が覚えた最初の安堵だった。


 だが、その温もりの正体は善意ではなかった。

 城へ戻ったリオネルは私を召使たちの前に放り出し、上機嫌でこう言い放つ。


「こいつが何歳まで生き延びるか、ひとつ賭けてみるか! 俺は十歳と見るね!」


 付き従う家臣たちは苦笑しながらも金貨を卓上に積み、執事は困惑顔のまま小さな私を抱き上げた。一夜の賭けの種、それが“養子”となった私の出生理由だった。


 翌朝、侍女たちが決めた私の部屋は、北階段のさらに奥、ほこりが積もる物置の隣──夜になれば雪より冷え込む石造りの小部屋だった。

 ベッド代わりの粗末な寝台と、使い古した毛布が一枚。名前すら与えられず、呼ばれ方は「子供子供(ガキ)」。それ以外の称号は与えられなかった。


 朝は厨房の余りパンを冷たいスープに浸し、昼は侍女のつまみ食いで削られた干し肉の欠片、夜は暖炉の灰を掃除するまで水も飲めない。

 それでも泣けば「賭けの結果が狂う」と叱られ、熱を出して寝込めば「十歳より前にくたばるな」と氷水を浴びせられた。


 名を持たぬまま、私は自分を「息をするだけの荷物」と認識した。

 そんな私にとって、窓外にちらつく雪片だけが唯一の友だった。

 淡い月明かりに照らされた雪は、誰とも馴れ合わないまま空から落ち、静かに地面へ融けて消える。まるで私の運命そのもののようで、不思議と親近感を覚えたのだ。


 だが、雪は土の中で春の芽吹きを支える。

 私もまた、冷たい城の片隅で静かに根を張り、十歳の賭けが終わる日をじっと待つことになる。

 いつか自分で自分を名付けるために──そして、悪徳と呼ばれようとも、二度と他人の賭け駒にはならぬと心に誓いながら。



2 母という光、そして闇 ――鍵の言葉と血のレッスン――


 八歳の春、城の菜園にようやく雪柳が芽吹き始めたころ――私の世界を照らしていた唯一のランプが、静かに消えた。


 義母エルヴィラは、華奢な身体に似合わぬ朗らかな笑顔を持つ人だった。

 侍女が小言を漏らせば代わりに俯いて謝り、厨房の子どもがパンを焦がせば「焦げ目も芸術よ」と笑って抱きしめる。

 冷たい石の城で彼女だけが春の陽だまりだった。


 だが――その光は肺病に蝕まれ、少しずつ色を失っていく。

 薬草師は高熱を冷ます氷嚢を取り替え、侍医は枕元で祈祷を唱えるが、病魔は聖句すら嘲笑った。

 私の小さな手を握る彼女の指は、折れそうなほど細くて冷たく、それでいて不思議なほど安心できた。


 そして運命の夜。

 寝台の天蓋を揺らす風が、わずかに香る花の匂いごと蝋燭の炎を歪ませる。

 彼女は苦しげな呼吸の合間に私を招き寄せ、震える声で囁いた。


「グリフォン……。誰にも奪われない“心の鍵”を持ちなさい」


 心の鍵――幼い私には曖昧な言葉だったが、母の目に宿る光は確かで、涙越しに映ったそれを私は決して忘れない。そして、いつだったか気が付くと銀色に輝く小さな鍵を握りしめていた。


 次の瞬間、蝋燭がぱたりと消えた。

 世界から色が抜け落ち、私の耳に残ったのは風の音と、父リオネルの足音だけ。


 喪の布さえ乾かぬうちに、父は新たな“教育係”を雇い入れる。

 剣術指南役のロッジは、私の手の皮が剥け血がにじむまで木剣を振らせ、「痛みは甘えだ」と笑った。

 算術教師のヴァルナは、真夜中まで蠟燭を灯し計算盤の珠を弾かせ、「眠気は怠惰の証です」と机に縄で縛り付けた。

 礼法の師である未亡人セルマ夫人は、背筋が緩むたび鞭を振るい、「涙は下民の装飾よ」と嗤った。


 朝は鉄の匂い、昼はインクの匂い、夜は皮革の焦げる匂い。

 日が替わるまで続く苛烈な訓練と罵声の中で、泣けば鞭が増え、泣かなければ課題が増える。

 私は学んだ――涙は敵に見せる弱点だと。


 だから、泣く代わりに心の奥底へ涙を沈める術を覚えた。

 義母が授けた“心の鍵”で蓋をし、いくら叩かれても開かない小箱に閉じ込めた。


 鍵の内側で、幼い私の心臓がひび割れる音がした。

 だがその割れ目から、やがて紅い炎が滲み出すことを――この時の私はまだ知らない。



3 友情の死、誇りの喪失 ――折れた剣と凍る誓い――


 十六の春、私は〈ローゼンベルク侯爵家学問所〉へ留学した。

 そこは貴族子弟と王都騎士候補が同じ屋根の下で暮らし、剣術と学芸を競い合う名門――だが私には「借金取りからの疎開先」という、少々みっともない裏事情があった。


 豪奢な寮の四人部屋。最上級貴族の子は個室を占領し、下級貴族は廊下を挟んだ向かい、残り一角が“雑色”の学生の割り当てだ。

 そこで私が同室になったのがヴェルト・サビーノ。

 錆びた革鎧を着込み、実家の農地で鍛えた肩と腕を持つ貧乏騎士の三男坊。

 粗野な物腰とは裏腹に、誰より早く礼を述べ、誰より遅くまで修練場に残る誇り高き男だった。


 夜更けのランタンの下、私が渋面でラテン語の詩を解せば、ヴェルトは音読に耳を澄まし、発音を直してくれた。

 剣術の実習では、私の踏み込みの甘さを指摘しつつ自分より重い盾を差し出した。

 何度も「グリフォン」と本気で呼ばれ、そのたびに心の鍵の小箱が微かに震えた。

 そして期末試験――私とヴェルトのコンビは、貴族部門と騎士部門の同時首席という前代未聞の快挙を成し遂げる。

 学問所は沸き、侯爵家は私を祝う晩餐会を開いた。


 だが、祝杯の泡は長くは続かなかった。

 卒業式の一週間前。

 父リオネルから届いた密書は、凍りつくような一文を含んでいた。


《負債、二万ルクス。清算のため、グリフォンを公爵令嬢との婚姻として売り渡す。合わせて“サビーノの忠犬”を買い取る手筈を整えよ》


 私は炎のような羞恥と氷柱のような恐怖に同時に貫かれた。

 ヴェルトはその夜、私の部屋で手紙を叩きつける。


「貴様の父は俺を“忠犬”と呼んだそうだな。俺の誇りを穢すような言葉をよくもぬけぬけと!」


 瞳に宿る烈火が私の血を灼き、逃げ遅れた言い訳が喉で燻った。

 彼は剣を抜き、静かな声で言い放つ。


「いいだろう。決闘を申し込む…もし貴様が勝てば、俺は大人しく伯爵家の犬となろう。だが俺が勝てば、この話は白紙だ」


 学問所の儀礼中庭。満開の白薔薇が夜気に揺れる中、二本の鋼が交差した。

 剣尖が火花を散らし、砂利の上を滑る靴音が月明かりを切り裂く。

 私は幼い頃の血のレッスン――ロッジの木剣と鞭の痛み――で身についた残酷な手首の返しでヴェルトの刃を弾き、彼の脇腹を打ち砕いた。


 金属が鈍い音を立てて地面に落ちる。

 彼は驚くほどあっさりと膝をつき、折れた剣を拾い上げ、自らの右手の健を切りつけた。


「――っ…これではお前の家の犬にすらなれんな、犬どころか、ふ…ははっ」


 血まみれの顔に浮かんだ笑みは、不思議なほど澄んでいた。

 翌朝、学問所は敗者に騎士籍剥奪の通告を出し、ヴェルトは夜霧の中へ姿を消す。

 そして私は、父から“勝利の証”として令嬢との婚約状と負債免除の証文を突きつけられた。ヴェルトのことは戯れ程度のことだったのか一言も書いてはいなかった。


 その紙切れが、友情の棺に釘を打ち込む音に聞こえた。

 私は唯一の友を、己の剣で殺したのだ。

 誇りという名の灯火が胸で弾け、冷たい灰になって心の鍵の小箱に降り積もる。


 ――その灰を、後に私は「悪徳」という名で磨き上げ、黒い宝石のように胸元へ掲げることになる。



4 血まみれの継承 ――黒いマントと鉄の帳簿――


 十八の冬至。

 令嬢との婚約も当家の負債により破談となり、当家もいよいよかという時だった。

 雪明かりに照らされた狩猟路で、一発の銃声が森を震わせたという。

 父リオネル伯爵――あの強欲な笑みと酒臭い息しか記憶に残らない男が、その夜、猟犬すら吠えるのをやめた断崖へ真っ逆さまに落ちて帰らぬ人となった。


 公的な報告書には「足を滑らせた不慮の事故」と記される。

 しかし遺体は頭だけが妙に潰れており、背には矢羽が一本残っていたと噂された。

 暗殺か自作自演か――真相を知る者は墓の下で口を閉ざし、城に残されたのは巨額の借用書と誰も住まぬ広間だけだった。


 ――そして伯爵位の継承文書。

 冷たい封蝋を割き、書面に躍る私の名を見た瞬間、背骨に氷水を流し込まれたような感覚に襲われた。

 領地の借金総額は三万ルクス。利息だけで年間二千。

 支払い猶予は半年。滞れば領地は競売、私は“詐欺伯爵”として法廷行き。


 葬儀も終わらぬうちから、城門前には金貸しと取り立て屋が黒い列を成し、銅鑼を叩いて債権者会議を要求する。

 大広間で読み上げられた負債額に蒼白となった家臣たちは、翌朝には私の印章を偽造して辞表をしたため、雇っていた傭兵は鎧ごと質屋に消えていった。

 就任式の舞踏会は、燭台の火だけが踊る無人のホール。

 宰相代理が読み上げる継承宣誓書を、私はエコーのような吐息で復唱するしかなかった。


 ――生き残る道は、ただ一つ。

 血と涙が詰まった領民の懐から、さらに血を絞り取ること。


 私はまず税率を前年度の二倍に設定し、徴税官には未払いの家から家畜と家具を差し押さえる権限を与えた。

 次に街道の要所に関所を増設し、旅人と商隊から通行料を徴収。

 市場には武装兵を立たせ、価格統制と称して物価を恣意的に釣り上げ、差額をごっそり城の金庫へ運ばせる。


 冬麦の収穫が半分を切った農民は呻き、職を失った鍛冶屋は策の零れ火で炉を閉ざし、井戸端の噂は「悪徳伯爵グリフォン」の四文字であふれた。

 だが私は耳を塞いだ。

 父の負債を雪崩のように背負ったこの身を、悪徳の鎧で覆わなければ心臓が粉々に砕けると分かっていたからだ。


 黒檀色のマントを仕立て直し、胸元に義母の形見である銀の鍵を隠す。

 香木の煙を部屋じゅうに満たし、強欲を示す香りだと笑われても構わない。

 夜ごと帳簿に数字を書き込み、金庫へ金を叩き込む金属音だけを子守歌に眠る。


 ――私はもう、誰かの賭け駒でも借金の質草でもない。

 この城と領民を、絞り尽くしてでも生き延び、倒れた父すら超える“黒い王”になる。


 それが、私が選んだ血まみれの継承――

 そして、悪徳伯爵グリフォンという名を自ら名乗り始めた夜である。


5 運命の邂逅 ――白き修道衣と紅きワイン――


 ――あれは今から十年前、初夏の終わりを祝う晩餐会。

 私は天井画が無駄に豪華な大広間で、退屈という名の毒を飲まされていた。


 宰相は山高帽を揺らして冗談を繰り返し、吟遊詩人は私の懐具合を計るように即興でゴマすりの詩を歌う。

 金に飢えた曲芸師たちは、頭上で火の輪を回しながら喝采を乞い、貴族令嬢たちは宝石の重みで首を傾けつつ媚びた笑みを貼り付けている。


 私は深紅のワインを揺らし、〈悪徳伯爵〉という仮面であくびを噛み殺していた。

 香ばしい肉の香りも絢爛たる管弦も、心には届かない。

 唯一おもしろいのは、芸人の投げる火の輪に怯えて腰を抜かす執事の顔色くらいだった。


 そのときだ。

 大広間の扉が軋むような音を立て、異質な白が視界を裂いた。


 ――見る者すべてを静かにさせる白。


 絹でも羊毛でもない、粗布の修道服。

 見習い用の簡素な十字ブローチを胸に付け、裾には洗っても落ちない土の染み。

 それを纏った少女が、孤児らしき子どもを四、五人連れて、絵画のように立っていた。


 宰相が眉をひそめ、詩人はリュートの弦を弾く手を止め、火の輪は虚空で揺れながら落ちた。

 その静寂の中心で、少女――まだ修道見習いのリュシアが、一歩踏み出す。


「雨を防げず…冷たくなった石の床で過ごすことしか出来ず、子どもたちの咳が止まらないのです…」


 澄んだ声が、水面に小石を落としたように広がった。


「伯爵さま、せめてもの情けをください。屋根の修理費として、この調度品を買い取っていただけませんか」


 彼女の背には、壊れた肘掛け椅子や割れた燭台――修道院から持ち出した“価値になりそうなガラクタ”が積まれた荷車があった。

 子どもたちは互いに袖を握り、くしゃみを噛み殺しながらこちらを見上げている。


 無意識に私はワイングラスを傾け、紅い液面を揺らしていた。

 ――慈善など趣味ではない。むしろ金を取る側だ。


「慈善は趣味ではない」


 冷笑を浮かべ、私は手首だけで追い払う仕草をする。令嬢たちは安心したように小さく息を漏らし、詩人はリュートを抱え直した。


 だが、その瞬間だった。

 孤児のひとり、まだ六歳ほどのフェイという少年が、私のマントの裾を掴んだ。


「おじさま……ぼく……おなかがすいて……泣きたくないのに涙が出るの……なんで?」


 震える声が胸骨を震わす。

 見下ろせば銀の燭台に映る自分の顔――酒と脂の光沢で歪んだ怪物が、紅いワインをこぼしながら嘲笑していた。


 羞恥なのか憤怒なのか、自分でもわからない熱が頬を焼く。

 次に意識に上ったとき、私は銀貨をひと握り、まるで罪を投げ捨てるように子どもたちの足元へ散らしていた。


 ――チャラン……。


 冷たい銀の雨音に、大広間の誰もが息を飲む。

 リュシアは深々と頭を下げた。だが、その唇に媚びはなく、長い睫毛の奥で青い瞳がまっすぐ私を射抜いていた。


 誇り高く――けれど、助けを請う手を決して離さない強さ。

 その一瞬、胸の奥で凍りついていた何かが、チリ、と音を立てて溶けた。


 私は気づかぬふりで視線を逸らし、ワインを飲み干した。

 けれど香木の甘い煙の下、微かな金属音とともに心臓で小さな火種が生まれ、赤々と燻り始める。


 高慢と孤独で鎧を固め続けた私の中に――

 リュシアという名の白い光が、確かに差し込んだ瞬間だった。


リュシアが去った晩、私は酔狂な祝宴の残響を振り払うように、大浴場の蒸気へ身を沈めた。

 真紅の絨毯と金糸のタペストリーが残した甘い香料の混ざった空気は、石造りの壁の内側でもなお粘つく。私は蛇口をひねり、氷水を滝のごとく肩へ叩きつけた。


 ひりつく冷たさが何度往復しても、耳の奥に焼き付いたあの少女の声――

 「子どもたちの咳が止まらないのです…」

 透明な響きは消えない。


 香油を重ねて磨き抜いた肌の下で、鼓動だけが不釣り合いに熱を帯びる。

 “悪徳伯爵”の鎧で覆ったはずの心臓の隙間に、焚き損ねた火種がじりじりと燃えていた。


 * * *


 東の塔の鐘が六つを打つ頃、私はほとんど眠らず執務室へ向かった。

 机いっぱいに広げたのは、屋根用の石板や防水油膜の見積書。

 金額を確認する指先がひどく軽い。銀貨の山では測れない価値に、懐が揺らぐ感覚を恐れていた。


 そこでベルを鳴らし、侍従長ハーゲンを呼びつける。

 背筋を定規のように伸ばした老人がドアを開けると同時に、私はペン先を跳ねさせながら命じた。


 「――“余った”石板を修道院へ寄付しろ。領主が恩着せがましく施す、格好の宣伝になると宣っておけ」


 火打石で弾いたように短い口調。

 侍従長は一瞬だけ細い眉を揺らしたが、すぐ面差しを石像のように戻し、深々と一礼した。


 「かしこまりました。『余剰資材の有効活用』として布告文を整えましょう」


 紙を抱えて退室する老執事の背を見送りながら、私は椅子の肘掛けを強く握りしめた。

 慈善ではない、と言い張ることでしか、胸の火種を正視できない。

 もし“感謝”を真正面から受け取ったら――

 鎧の継ぎ目から、熱が一気に体内を灼き尽くしてしまう気がしたのだ。


 だが窓を打つ朝の雨は、石板の寄付を待ちわびるあの子どもたちの咳を、今日も遠慮なく濡らしている。

 煩わしく資料を束ね直す手を止め、私は低く吐き捨てた。


 「……まったく、火種一つでこのざまだ」


 ただ、その呟きにはほんのわずか――

 炎が灯ることを恐れながらも、消えることをもっと恐れている男の、情けない震えが混じっていた。


三日後の昼下がり。

 紺碧の空を風切り鳶がかすめる頃――修道院の背より高く、木組みの足場が組み上がった。

 未乾燥の梁が陽を浴びて軋み、その上で職人たちが金槌を打つたび、澄んだ音が丘の向こうへ転がっていく。


 私は黒マントに作業用のくるぶし靴という、奇妙な格好で様子を見に来ていた。

 石工頭の怒鳴り声が飛び交う中、汗ばんだ白衣が一本の柱を抱えてよろめくのが見える。


 リュシア――。

 華奢な背に木材の重みがのしかかり、肩口に汗じみが花弁のように広がっていた。

 思わず歩み寄り、頭上の鳩除けネットを潜る。


「おい、君の腕には重過ぎる。危ないだろう」


 振り向いた彼女は、前髪に貼り付いた木屑を拭いながら、ほんのり目尻を下げた。

 だが返ってきたのは、気安い冗談を受け流すような口調。


「領主さまが手伝えば、明日の朝刊に“慈悲深き伯爵、孤児のために汗を流す”と載りますよ」


 私は鼻で笑い、気恥ずかしさを誤魔化す。


「それは良い宣伝になるな」

 語尾を濁し、代わりに右手を伸ばす。

 リュシアが抱えていた梁を受け取り、片肩に担いだ。


「領主さまが転んで骨でも折れば、もっと賑やかな見出しになりますよ」


「それは笑えない冗談だ」


 言葉とは裏腹に、彼女の唇は柔らかく綻ぶ。

 白衣の袖をまくった手首は燃えるように熱く、触れた瞬間こちらの鼓動が早まるのを隠せなかった。


 梁を所定の位置へ押し上げ、楔で仮止めすると、石工頭が「領主様がいれば大人二人分の戦力だ」と唸った。

 作業の合間、私はふと漂ってくる香りに気づく。


 湿った木と発酵途中のパン生地が混じった素朴な匂い――

 雨漏りを防ぐため新しい木枠を取り替え、食堂では祭の余り粉でパンを焼いているのだろう。

 その温かな匂いは、ずぶ濡れの孤児たちから聞いた“夜ごと屋根を叩く雨の音”を、そっと上書きしていく。


「宣伝でも構いません」

 リュシアが、道具箱の影で小さな水筒を差し出した。

 「領主様のおかげで子どもたちは今夜、雨音ではなく子守歌で眠れますから」


 飲み口から流れ込む井戸水の冷たさが、胸にこもる熱と混ざり合う。

 見上げれば、青空の真ん中に白い雲が千切れ、その向こうで鳶が輪を描いていた。


 ――この瞬間だけは、たとえ見出しが嘘くさく飾られようとも構わない。

 リュシアの微笑みが屋根と同じく、雨から彼女たちを守る本当の盾になるのなら。


 そんな初めての確信が、静かに胸へ刻み込まれた。


 それからというもの、私は「治安巡察」「帳簿監査」など、それらしい名目を取り繕っては――実質“月に二度”の頻度で修道院へ足を運ぶようになった。

 瓦礫だらけだった中庭は仮設の花壇に姿を変え、雑草と一緒に植えたハーブが風に揺れるたび、薄荷と土の匂いが鼻腔をくすぐる。


 夕刻になると、リュシアは縫製室の奥で針と糸を握りっぱなしだ。

 破れた靴下を繕い、ほころんだぞうきんを補強し、最後に一日の帳簿までつけ終える頃には、蝋燭は半分以下。

 ──そんな彼女の代わりに、私は礼拝堂の白壁をスクリーン代わりにして、子どもたちへ影絵芝居を見せることにした。


 片手にランタン、もう片手に黒革の手袋をはめたまま指で鳥や龍の形を作ると、天井に映った影がくるくる回り、子どもたちは「わあっ!」と声を弾ませる。

 木の椅子を叩きながら笑う少年、両手で頬を挟む少女、その輪の後ろでリュシアが疲労の色を薄くして微笑む。

 温もりが返ってくるたび、私の指先は震えた。

 その震えをごまかすために、黒い手袋は欠かせない鎧になった。


 ――しかしある晩、鎧はあっけなく剥がれ落ちる。


 仕立て直した人形を動かそうとした瞬間、誤って縫い針が中指を貫き、手袋ごと血が滲んだ。

 「痛っ」――思わず上げた声に、子どもたちは心配そうに近寄り、リュシアは縫い籠から小瓶を取り出して駆け寄る。


 「動かないで。傷薬、塗りますね」

 逃げ腰になった私の袖を、彼女の細い指がそっと掴んだ。

 滑らかな絹手袋は拍子抜けするほど簡単に外れ、血のにじむ生の肌があらわになる。


 薬草の香りが混ざった軟膏を塗り込む彼女の指先は、不思議なほど温かかった。

 「伯爵さまの手、思ったより……温かい」

 柔らかな声とともに、私の胸板の裏側で小さな花弁がふわりと開く音がした。


 黒い手袋では塞ぎきれない亀裂。

 それでも怖くはなかった。

 ひび割れから差し込む光が、雨上がりの朝のようにやさしかったからだ。


減税から半年――領都フィオレルナは、久しぶりに真夜中も灯が消えない季節を迎えていた。

 夜祭の前夜、市場の石畳には彩り豊かな屋台が軒を連ね、蜜菓子と香辛料の匂いが交わって甘い霞をつくる。私は顔の下半分を布で覆い、あくまで“視察”の名目で人波へ紛れ込んだ。


 屋台の裏手にある納屋では、リュシアと孤児たちが紙ランタンを作っていた。

 麦藁帽を伏せた簡易テーブルを囲み、子どもたちは墨と銀粉で思い思いに文字を描いている。私が覗き込むと、一番年長のエリオが得意げに黒いランタンを差し出した。


「これ、伯爵さまの分です!」

 黒紙に走る銀の筆跡――“グリフォン”の五文字が、蝋燭の炎にキラリと光る。

 覆面の下で喉が詰まり、私はむりやり咳払いで誤魔化した。

 ふと横を見ると、リュシアの頬に朱色の絵の具が跳ねている。指先でそっと拭うと、彼女は林檎のように顔を赤くして俯いた。世界が一拍だけ息を潜め、蝋燭の灯が小さく揺れた。


 * * *


 夜祭当日。

 衛兵隊長の肩章を外套で隠しつつ、私は見回り役として人波を縫った。通りには金糸の灯籠が垂れ下がり、踊り子たちが花弁のようなスカートを翻す。白い修道衣のリュシアが、子どもたちと手をつなぎながら屋台を巡っているのが見える。

 その瞬間――背後で酒樽の栓が爆ぜ、歓声に紛れて嫌な金属音がした。振り返ると、短いナイフを握った賊が人垣をすり抜け、一直線に彼女へ向かっている。


 考えるより先に身体が動いた。

 外套を翻して飛び込み、刃を肩で受け止める。厚手の布ごしでも鋭い衝撃が突き抜けたが、刃は浅く逸れた。賊は目を剥き、逃げようと人波をかき分ける。

 私は剣の柄を引き抜き、後頭部を一撃で叩き伏せた。


 「伯爵さま……どうして」

 リュシアの震える声。

 「手柄稼ぎだ。領主が怪我人を出せば面子が潰れる、あと…恨みを買うのには慣れてる」

 吐き捨てるように言ったものの、胸の鼓動は耳が痛むほど速かった。


 * * *


 夜祭の喧噪が遠ざかり、深更の聖堂に蝋燭が揺れる。

 孤児たちを寝かしつけたリュシアは祭壇横の長椅子で膝を折り、指を組んで静かに祈っていた。私は石床に忍び足で近づき、背凭れに手を添えて問いかける。


「……私の名を、君はどう思う」

 彼女は驚いて振り向き、そのまま静かに答えた。

「誇り高いお名前です」

「悪徳伯爵と呼ばれても?俺を殺したい人間は無数にいるんだ」

「伯爵さまは……ご自分の影を背負える方です、それに…胸に炎を抱えてる…きっとそれは他人を幸せに出来るものです」


 その言葉は、底なしの闇に差し込む一筋の光のように温かかった。

 気づけば私は、義母の形見――小さな銀の鍵を取り出していた。手の内で微かに震えているのは鍵か、それとも自分の指か。


 窓ガラスを打つ雨脚が強まり、屋根を叩く音が聖堂の静寂を満たす。

 「これは母の形見……“心の鍵”だ。これを君に預けたい」

 リュシアは両手を差し出し、そっと鍵を受け取る。瞳が蝋燭の輝きを映して揺れた。


「ええ。でも私の心の鍵も、もう伯爵さまのものですよ」


 言葉より早く、雨に濡れた唇が重なる。

 硝子細工のように壊れやすいくせに、どんな焔より熱い口づけだった。

 震える指先を彼女の頬にすべらせると、銀の鍵がカランと音を立てて揺れた。

 その音はまるで、凍った心臓の錠前がほどけ、二人の胸に同じ炎がともった証のよう――


 ――私は初めて知った。

 金庫に積んだ銀貨でも買えなかった“奪われない温もり”が、この世に確かに存在するということを。


――そして今日。

季節外れの暖かい雨が降る黄昏、私は古い聖堂の屋根裏でリュシアと向き合っていた。

税の半減宣言と孤児院への銀貨千枚――あの“偽りの善政”から三年。領民が少しだけ笑顔を取り戻した夜祭の喧噪が、遠く鐘の音と混じる。


「ありがとう、伯爵さま。みんな、本当に救われました」

リュシアがそう言って微笑むたび、私は自分の影が濃くなるのを感じた。


「……違う。救われたのは私の方だ」

ようやく口にした本心に、彼女は目を見開き、恥じらうように視線を伏せる。

木組みの天井から漏れる雨だれが、二人だけの間奏曲を奏でた。


「…リュシア、君さえ良ければ私の事はグリフォンと呼んで欲し…」


だがその瞬間、聖堂の重い扉が弾け飛び、闇の中から飛来した十字弩の矢が、白い修道衣を朱に染めた。


「……え?」


リュシアの瞳に驚きの色が浮かび、暖かい血が私の腕に落ちる。

背後では夜祭に紛れた賊が火を放ち、屋根裏に黒煙が渦を巻く。



「リュシア!」



私は叫び、治癒の薬瓶を割り、布で傷口を押さえる。

だが彼女は首を振り、震える指で私の胸をそっと叩いた。


「だめ……泣かないでくださ…。あなたの炎は……きっと陽だまりに……」

語尾が溶け、ふわりと笑みだけを残して光が消える。


世界から色が抜けた。


「やってやったぜぇ、領主のお気に入りの娼婦を殺してやった!」


瓦礫の下で賊の笑い声が遠ざかり、鐘の音がゆっくりと歪む。


そのとき、頭蓋の奥で何かが砕け、怒涛の記憶が流れ込んだ。


――薄暗いオフィス、山積みの書類、ブルーライトの海。

「おっさん、今日もソシャゲ課金しすぎだぞ」と後輩に笑われ、終電の満員電車で持ち歩いていたのは、スマホの短剣と魔法の恋愛RPG――

ゲーム内の“悪徳伯爵ルート”を攻略中に、そのまま心臓を掴むように倒れた記憶。


「……俺は……斎藤浩二、四十五歳、ただの社畜だった……?」

崩れる聖堂の梁越しに、夜空がゲームのポリゴンのようにザラつき、視界にヒビが走る。

“BAD END”という赤い文字が、空の上に浮かび上がった。


「なんで今思い出すっ! もっと早く……もっと上手くやれた……!俺は…」


私は血塗れの鍵を握りしめ、炎の中で泣き崩れた。





後悔と絶望が臨界に達した瞬間――崩壊音とともに世界が白い光へと反転する。





◆ ◆ ◆


 ――雪。

 冷たい藁。


「おぎゃ……?」

声帯も未発達の泣き声が漏れ、私は凍てつく夜空を見上げる。

数歩先、酔った男がふらりと現れ、赤ら顔で私を拾い上げた。


ああ、ここは……始まり――


 でも今度は違う。

 心の鍵は手の中にあり、リュシアの笑顔も、ヴェルトの友情も、あの失敗の涙も全部覚えている。


(待っていてくれ、リュシア。

今度こそ、君を――この世界を――陽だまりに変えてみせる)


 小さな胸で鼓動が鳴る。

 炎のような決意が、再び始まる物語を照らし出した。

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