第9話 新生活
ディアナの別館での生活が始まった。
「んん~。これで注文品の制作は終了~」
茶色のドレスに薄茶色のエプロンを付けたディアナは椅子に座ったまま大きく手を広げて伸びをする。
カナン男爵家に移り住んで数日。
慣れない環境のなかで、ようやく仕事がひと段落ついた。
ディアナがエプロンを外していると、マリーが声をかけてきた。
「お疲れさまです、お嬢さま。お茶をおいれしましょうか?」
「お願いするわ」
マリーがいそいそと紅茶をいれに下がると、入れ替わりにサミエルがやってきた。
「こんにちは、ディアナ。仕事の進み具合はどうだい?」
「こんにちは、サミエル。今ちょうど仕上がったところよ」
ディアナは揃えた指先を、ピンク色の瓶の並んだケースに向けた。
「おお。お疲れさま~。これはお得意先の奥さま方、大喜びだね」
「ふふ。そうだといいけど」
おどけるサミエルに、ディアナは機嫌よく笑った。
そこにティーワゴンを押してマリーが入ってきた。
「いらっしゃいませ、サミエルさま。サミエルさまも、こちらでお茶を飲んでいかれますか?」
「そうだね。そうしようかな。今日は天気もいいし、せっかくなら庭でお茶を飲むのもいいよね」
サミエルの提案に従い、急遽、庭でのお茶会が開催されることとなった。
以前の住人であるサミエルの祖母が使っていた庭には、椅子やテーブルを置いたり、日よけのパラソルを立てたりできる場所がキチンと用意されていた。
椅子やテーブルの設置は、ミーティア伯爵家対策に配置された警備の男性がマリーと共に行っている。
庭に出たディアナはそれを眺めながら、隣に立っているサミエルに話しかけた。
「警備やシェフの手配をしてくれてありがとう、サミエル。余計なことを考えずに済むから、仕事がはかどったわ」
「どういたしまして。でも気は使わなくていいよ。この別館は門と本館の間にあるから、ここに警備員を置くのは屋敷全体の警備を考えても効果的なんだ」
「あら、そうなのね。私は、そういったことに疎くて……」
ディアナはミーティア伯爵家でのことを思い返してみた。
改めて考えてみると、ミーティア伯爵家の別館は警備が手薄だったかもしれない。
(魔法薬は私が作らないと、レシピだけあっても意味がないと思っていたけど。よくよく考えてみれば、出来上がった魔法薬の保管もしていたわけだから防犯対策が必要だったのよね。そこまで気が回っていなかったわ)
用意が出来た席に腰を下ろしながら、ディアナは自分のことばかり考えていて色々と気が回っていなかったと反省した。
正面に座ったサミエルへ向かってディアナは口を開いた。
「ごめんなさい、サミエル。あなたから依頼を受けた魔法薬も、盗まれたりしたら大変だものね。これからは用心するわ」
サミエルは驚いた表情を浮かべると、ディアナの手を取って言う。
「ディアナ。君の作る魔法薬には価値がある。だけどね。君自身には、もっと価値がある。ねぇ自分を大切にしてよ、ディアナ」
「え? えぇ、分かったわ……」
サミエルがあまりにも真剣に言うので、ディアナはちょっと引いた。
ディアナの無自覚さにマリーも溜息を吐いた。
「ええ、そうですよ。お嬢さまには価値があるのです。だから、もっともっと御自分を大切にされていいのです。その自覚がないのは、ミーティア伯爵家がお嬢さまのことを雑に扱ったからですよ。お嬢さまには、丁寧に扱う価値があるのですから自覚を持ってくださいませ」
マリーがテーブルの上に美味しそうな食べ物の載った美しい銀のティースタンドを置くと、ディアナの目が輝く。
「まぁ、随分と美味しそう。見た目も綺麗で可愛いし、美味しそうないい香りがするわ。本格的なアフタヌーンティーね」
初めて見たとでもいうようなディアナの反応に、マリーは呆れた。
「お嬢さま。こちらに来てから別館で働いてくれているシェフは、毎日のようにこのくらいの物を作ってくれていましたよ」
「え?」
ディアナは驚いてマリーを見上げた。
マリー溜息を吐きながら、紅茶のカップを主人の前に置いた。
「お嬢さまは1つのことに集中してしまうと、他が見えなくなってしまいますから。作業の合間に召しあがった物のことなど、覚えていらっしゃらないのでしょう」
「あっ……」
紅茶のよい香りが辺りに漂っている。
ミーティア伯爵家で嗅いだ香りとも、レーアン子爵家で嗅いだ香りとも違うのに、この香りをディアナは知っていた。
(作業の合間にササッと食べたり飲んだりしていたから、記憶に残ってないんだわ……)
「お嬢さまのお仕事は、素晴らしいお仕事です。ですが、もうちょっと周りの……ほかのことにも目を向けてくださいまし」
マリーはディアナをしっかりと見た後、意味深にサミエルへと視線を動かした。
それの意味するところに気付いたサミエルは頬を赤くそめ、それを見たディアナも少し遅れて赤面した。