さいしょ、まんなか、さいご
地元から東京に出てきて10年になる。
最初のうちは長期休みの度に帰っていたが、仕事が忙しくなり、段々と帰らない年が増えていった。
休めないわけではない。
休みは休みとしてちゃんとある。
ただ、帰るのが億劫だった。
することは色々とある。
取らなきゃいけない資格もあるし、勤続年数が長くなってきた分、自分のことだけではなく後輩のことも考えなければいけない。
のんびりしている時間はない。
ないんだけど──。
『今年のお盆も帰ってこないの?』
夏のこと。
母からさびしそうな声でそんな電話がかかってきた。
「ああ、うん……」
マンションの一室。
風呂上がりの胸元まである髪をタオルで乾かしながら、携帯電話片手に私はそう答えた。
『そう……』
「…………」
『…………』
ああ、これは……。
「……今年は、帰ろうか?」
『え、帰ってきてくれるの?』
「うん……」
『わ~、うれしい。いつ帰ってくる? 時間も教えてね。お父さん、駅まで車で迎えに行くからね。あのね、お母さん、好きなものいっぱい作って待ってるから』
さっきまでの声が嘘のように母の声が弾む。
「うん、ありがとう。また連絡する」
『うん、ありがとう。ありがとうね。またね。またお盆にね』
切れる電話。私は携帯電話を見ながらひとつため息を吐く。
仕方ない。ああ答えなければあのままずっと無言が続いていただろう。
何よりあんなに喜ばれたら……うん、たまには親孝行するか……。
新幹線の切符を取るべく私は携帯画面をインターネットに切り替えた。
久しぶりに帰った実家は驚くほど以前と同じだった。
ただ、母と父が少しだけ小さくなった気がした。
母には「髪、伸びたわね」と言われた。
私は「そう?」と答えた。
以前会った時の自分の髪の長さを覚えていなかった。
私の部屋も昔のままだった。
母がこまめに掃除してくれているのだろう。
綺麗に保たれており、勉強机も昔好きだったアイドルのポスターもそのままだった。
それがなんだかくすぐったかった。
食卓には私の好きだったものが食べきれないほど並んだ。
母と父はにこにこしながら頬張る私の姿を見つめていた。
ただ、帰ってきたはいいものの──
「することが、ない……」
ベッドにごろんと寝転がりながらぼそりと呟く。
14日。まだ帰ってきてから1日しか経っていないのだが、すでに手持ち無沙汰だ。
地元の友達は私と違ってみんな結婚して家庭を持っている。連絡するのも気が引ける。
「……勉強するか」
持ってきた資格の本をキャリーバッグから取り出す。
そのまま勉強机に座るが、昔のままのこの場所は逆になんだか居心地が悪い。
「……よし」
鞄に本とノートパソコンを押し込む。
「あら、出かけるの?」
1階に下りると台所で料理をしていた母が振り向いた。
「うん、ちょっと」
「外は暑いぞ。どこか行くなら送っていこうか?」
「いや、大丈夫。行ってきます」
『いってらっしゃい』
合わさった2人の声が背中から聞こえてきた。
私はバタンと玄関の扉を閉めた。
父の言うとおり日中の太陽は痛いほど暑かった。
さすが夏。夏の暑さって毎年更新している気がするのだが気のせいだろうか。
指先で額の汗を拭いながら歩く。
さて、どこに行こうか。喫茶店とかってここらへんにあったっけ? そもそもお盆に開いてる店なんてあるかな?
考えているとふと目にとまるものがあった。
木造の小さなお店。
昔ながらの喫茶店がそこにはあった。
扉には「営業中」の札がかかっている。
ここでいいか。
扉を押す。
カランカランと鐘が鳴る。
あ、涼しい。
外の空気にさらされた身体に冷房の風が心地よく染みる。
「いらっしゃいませ」
男性の声がする。
見るとカウンターの中に店長と思われる60代ほどの男性が立っていた。白シャツに黒ベスト。カフェエプロンを着けている。
「お好きな席にどうぞ」
お店の中にはカウンターと4人掛けのテーブルが2つあった。
私以外にお客さんはいない。
少し考えてカウンターの端っこに腰掛ける。
コトン。
お水が置かれる。
「ご注文はお決まりですか?」
「アイスコーヒーをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
本とノートパソコンを取り出すと下の荷物かごに鞄を入れる。
店内ではうっすらとBGMが流れていた。
流行りの音楽ではない。これはジャズだろうか? とても落ち着く音色だった。
お水を飲む。身体が水分を求めていたのか生き返る心地がした。
資格の本を開く。目を通すが中々理解できない。
まだ試験までは時間がある。ただ、自分の状態に焦っていた。解説を読んでもよく分からない。分からないことに腹が立つ。
立派な大人になるために私はあと何をすればいいんだろう。
昔は大人になれば何でも出来ると思ったのに、年を取れば取るほどに出来ないことは増えていく。
眉間に皺を寄せ、くしゃりと前髪を掻き上げる。
「お待たせいたしました」
声と共に飲み物が運ばれ、私は顔を上げる。
「ありがとうございま、す」
固まる。
目の前にはアイスコーヒー……ではなく、クリームソーダがあった。
戸惑いながら店長を見る。
「あの、私、アイスコーヒーを頼んだのですが……」
店長は「あ、申し訳ありません」とうっかりしていた様子で返す。
「すぐに作り直しますので、よろしければ、こちら、お召し上がりください」
「え、でも……」
「もちろんお代はいただきません。捨ててしまうのももったいないので」
「そうですか? じゃあ……」
戸惑いながら手を伸ばす。
白いお皿にのったクリームソーダ。
しゅわしゅわとメロンソーダが泡立っている。
バニラアイスの上にはちょこんと赤いさくらんぼがのっていた。
クリームソーダなんて飲むの何年ぶりだろう。
私はさくらんぼを手に取るとそっと白いお皿の上にのせる。
スプーンを手に取り、バニラアイスを一口すくって口に入れる。
舌の上でそれはじわりと溶けた。
おっと、飲まないとこぼれちゃう……。
あふれそうになるメロンソーダをあわててストローで吸う。
しゅわり。
喉を炭酸の心地良い刺激が通っていく。
あれ? クリームソーダってこんなにおいしかったっけ?
気付くと眉間の皺は消え、勉強のことなどすっかり忘れ、夢中になって飲んでいた。
「ふう……」
からっぽになった容器を見ながら満足げに息を吐く。
あ、そうだ、
お皿の上、たった一個のさくらんぼを大切に手に取る。
口に入れる。
甘酸っぱい。
種を出してクリームソーダの全てが終わる。
「ふふふ……」
笑い声が聞こえて目を向ける。
そこには微笑む店長がいて、私は首を傾げる。
「なにか?」
店長は笑顔のままこちらを向いて言った。
「いえ、相変わらず、さくらんぼは最後に食べるんだなと思いまして」
相変わらず?
「えっと、私、以前もここでクリームソーダ食べたことありましたっけ?」
店長はにっこり笑う。
「ええ、小さい頃にお父様お母様といっしょに。よく3人でクリームソーダを頼まれていました。覚えておられませんか?」
3人でクリームソーダ……あ!
「さいしょ、まんなか、さいご!」
「ええ。お父様が最初、お母様が真ん中、お嬢様が最後」
そうだ、思い出した。
子どもの頃、よく3人で行っていた喫茶店があった。
1年に3回。父、母、私。ホールのお誕生日ケーキを買った帰り道はいつもここでクリームソーダを飲んでいた。
クリームソーダのさくらんぼをいつ食べるか。私たちはそれぞれ違っていた。
父はさいしょで母はまんなか、私はいつもさいごだった。
たったひとつしかないさくらんぼ。私にはとても大切に思えたから。
「忘れてた……」
3人でこのお店に行かなくなったのはいつからだろう。みんなで買いに行くホールのお誕生日ケーキと共にそれはいつの間にかなくなっていた。
あんなに幸せだったのに。
「大人になられて随分と難しい顔をされるようになりましたね。久しぶりの当店のクリームソーダはいかがでしたでしょうか」
私はからっぽの容器を見た。
それから、心から笑った。
「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
店長は嬉しそうに笑い返してくれた。
結局、アイスコーヒーをキャンセルして、私はクリームソーダのお代を払った。
「明日は営業されてますか?」
そう訊ねると店長は微笑みながら「はい、しております」と答えた。
クリームソーダ、飲みに行かない?
そう言ったら父と母はどんな顔をするだろう。
さいしょ、まんなか、さいご。
さくらんぼの順番は変わらずそこにあるだろうか。
お店の扉を開ける。
相変わらず外の太陽は痛いほど暑い。
それでも、来た時よりも足取り軽く、私は私の家へと帰って行った。