真実の嘘《2-2》
暗い暗い廊下を一人歩いていた。
季節は初秋を迎えたばかりで、涼しくなった――とは云えない残暑特有の暑さが厳しい。太陽はもうすぐ真上にくるらしく燦々とした日差しが校舎内にも伸びている。時は刻一刻と過ぎていくのに僕の中の時間は止まったままで、動き出そうとしない。
そう。あの日から僕の心の時間は止まっている――。
「ここ、どこだろう…」
誰からも返事はない。
暑い筈なのに長く続く廊下は何故か寒くて、少し汗ばんでいた肌をひんやりとした冷気が纏う。午後の授業の移動のために教室を出た時には賑やかだった校内が、まるで別世界のように静まり返り怪しい雰囲気を醸し出している。怖い――と思った。
「とりあえず…誰かに道を」
前方をきょろきょろ、後ろを振り返っておろおろ。
辺りを見回したところで人はおろか、物音一つしない。今までだって何度も通ってきた道の筈なのに戻れない。そんな気がした。
――やばい。
苦手なホラー映画を突き付けられたような、将又嫌いなお化け屋敷を歩かされているような“恐怖”と“緊張感”が襲う。半端なく打つ自分の鼓動の音が、より一層恐怖を囃し立てている。
前も後ろも続く長い廊下の先は闇の世界。そんな気がして進むのも戻るのも戸惑った。
「……」
――これ、進まない方がいいのかな? でも、戻るのも違う気がするんだけど…。
溜息一つ、自分に落として足元を見つめる。
背中には窓。目の前には教室の壁。頼れるものもなく少年はその場に座り込むと、不意に窓から覗く高い日差しに彩られた青い空を見上げた。その眉が些か顰められる。
俯いて溜息を零すと脳裏に一人の女性の姿が浮かんだ――。
――やっぱり、僕一人じゃダメなんだ。 姉さん。
少年はそのまま目を閉じ、意識を沈めた。
*
『どうしてですっ。手術をすれば治るって言ったじゃないですか!?』
『手は尽くしましたが―――残念です』
『―――っ』
――ああ、またこの夢だ。
白い廊下を走る。
途中怪訝に眉を顰めた看護士さんにぶつかって「走らないでください」と、声をかけられる――でも振り返ることもしなかった。いや、できなかった。
心の中は“嘘だ。そんなはずがない”って繰り返した。
声には出せない叫びで次第に目の前が翳む。それが涙なんだってわかるけど、どこか他人事のようで感情が麻痺する。息を切らして、非常階段を駆け上れば空がどんどん近づいた。代わりに地面は果てしなく遠くなって人や車がゴミのようにちっぽけに見えた。
ちっぽけで儚い大切な人の命の灯が――消える。その事実が悲しくて空しくて、成す術もなく冷たいコンクリートに膝をついてフェンスを揺らす。誰にこの思いをぶつければいいのかも分からずに、少年は握りしめたフェンスに頭をぶつけて短く吐き捨てるように啼いた。
「っそ……畜生――」
ふり仰げばどこまでも続く青い空があるのに、世界はこんなに光に満ちているのに、どうして何も悪いことをしていない命が失われなければいけないんだろう。まだこれからなんだ。楽しいことも、嬉しいことも。悲しみや怒りだって幾らも知らない。
年頃の女性がするような化粧だってしたことなくて―――初めてする化粧が“死化粧”なんてあんまりじゃないか。どうしてもう少しだけ待ってくれないんだ…。
怒りと悲しみで胸が張り裂けそうで、嗚咽交じりに天を仰ぐ。これ以上涙が零れないように。これ以上世界を憎んでしまう前に――。
失われた“姉”の命が、迷うことなく天へ昇れるように――。
*
「――っい、おいっ」
「――っ!?」
肩を揺すられて現実に引き戻される。
先ほどまで恐怖と緊張感でいっぱいだったのに、知らない間に転寝をしていたなんて意外に図太い自分自身に呆れる。もう一度声をかけられて、ようやく顔を上げた。
――この人、誰?
見たこともない銀色の髪に、碧い瞳がキラキラと揺れている。
まるで死人のような熱のない白い肌に少しだけ色づいた口唇が、やけに印象的で目が逸らせない。この世の者ではないような――そんな表現の似合う人だった。
「お前、迷子か?」
「――えっ」
突拍子もない言葉に思わず言葉を失う。儚い印象を受けたのに存外口が悪いことや、そういえば思ったより声が高い――そんなどうでもいいことを考えて少年はようやく自分の置かれていた状況に気が付く。
そう。目の前には待ち望んでいた他人がいる。
その事実がどれだけ嬉しいか――。
「たまにいるんだよな~。黄泉と現世の狭間に迷い込んじゃうやつ」
「――えっ?」
突然の言葉に思わず聞き返す。
まるで独り言でも呟くような銀髪の人の声に抑揚はない。むしろどこか面白がっているような表情だけがやけに目を引いている。この人、楽しんでいる…。
その表情の意図を汲み取ることが出来なくて、いつの間にか聞きたかったはずのことは頭の隅から掻き消えていた。
彼は膝を折ると廊下に腰を落ち着けて同じ目線で微笑む。
その笑顔はどことなく懐かしいような気がした。どうしてだろう。
――この人、知ってる?
同じ学校の制服に身を包んでいるあたり知らないというのも変な話なのだが、顔見知り程度の感覚ではなくて、もっとこうなんていうか。
――この笑顔…。
空を背に二人は肩を並べる。
背丈は殆ど変らないか、もしくは銀髪の少年の方が小さく華奢に思えた。
「こっちは今や誰も使わない“旧校舎”。お前が行きたかったのは新校舎の方だろ?」
「旧…校舎?」
「そ。しかも誰も使ってないくせに人影が見えたり、声が聞こえたりっつー曰くつきのな」
語尾に音符でもついていそうな程に楽しげに、軽やかに笑う。わざと強調していうあたり確信犯なのかもしれない。
「い…曰くつきって……なんですか」
急激に寒くなる背筋に思わず自分の腕をきつく掴むと、一際暗くなったような気がする校舎内を見渡す。そういえばどことなく不気味な雰囲気を醸し出しているような気がしないでもない。
暗さと静寂が余計に人の恐怖を煽り、目の前にいる人が本当に生きているのかさえも怪しくなってくる。廊下の先の闇と、隣にいる白い人を見比べて息を飲んだ。その刹那――。
「―――…」
「――っ!?」
遠くで誰かの叫び声が聞こえる。思わず隣に座る自分よりも華奢な男の人に抱きついていた。不意に襲いくる圧迫感に瞠目する――。
「…つっ!?」
「わりぃ、つい――……」
彼の声が徐々に遠くなる。
白くなる視界の隅に、あの日失くした姉の姿を見たような気がした。
――ほぼ同時刻。
「どーすんですかっ!?」
「ウルサイ」
「五月蝿いなんて、子供じゃないんですから……来て早々これじゃ困りますよ」
「……」
仁王立ちでJの言葉をものともしない彼はどこかばつが悪そうに視線を逸らす。その足元には先ほどの少年が倒れていた。まだあどけなさの残る横顔には殴られたせいだろうか苦悶の表情が浮かんでいる。
言うまでもなく思わず抱きついてきた少年に拳を食らわせたのは彼――雪――だ。驚いたからとか、あまりにも不躾だったからとか彼なりの言い分はあるのだろうが、あっけらかんと開き直る雪をみると些か腹が立つ。渋面で大げさに溜息をつくJを後目に彼の眼は少年へと向けられている。
頬にかかる髪を除けてやれば伏せられた瞳のまつ毛が微かに震え、怖い夢でも見ているのだろうか、目元にうっすらと涙が浮かぶ。それを指で掬った。
「…雪さん?」
小言をぶつぶつと呟いていた新米管理補佐官のJが、訝しげに振り向いて、その光景に驚く。倒れた少年の髪に触れ、その幼い横顔を見つめる瞳の優しさに思わず言葉を失った。そんな表情は一度も見たことがない。きっとJにはこんな表情してくれない。
些細なことかもしれないが、それが少しだけ寂しかった――。