真実の嘘《1-4》
Jが管理局に戻ることになったのは突然の出来事だった。
あの依頼の解決が分かった直後、一緒に居たイチは突如意識を失った。まるで生気の宿らない青白い顔に、呼吸も浅く微弱なものへと変わる。一目でこれが異常な事態であるということが分かるのにJには対処のしようがない。名前を呼んでも、肩を揺すっても何ら反応のないイチを前に彼には成す術がなかった。
「イチさん――、一喜さん!?」
「―――」
倒れこんだ身体を支えて、木のベンチに座らせるが返事を返すどころか徐々にその体温が冷えていく。想像もしなかった“死”がそこに垣間見えて、Jの身体は知らず震えた。
――どうする? どうすればいい?
辺りを見回して人を呼ぶか考える。
ここは病院内の庭なのだから具合が悪ければ手当を受けるのが普通だ。でも――果たしてそれは本当に適当なのだろうか。直観的に管理官である彼らにとっての“手当”とは違うもののような気がした。だから躊躇う。
その刹那――。
「――?」
黒い服を着た――見たこともない――少年と目が合う。
その瞳は左右非対称で、右目が赤、左目が金色をしていた。
きょろきょろと周囲を見回しても他に人はおらず、向こうも真っ直ぐにJのことを見つめていることを理解する。まるで射るような、値踏みでもするような不躾な視線が胸に痛い。
言葉もなく息を呑むと相手が微かに口角を吊り上げる――。嘲笑するように…。
――誰? なんだろう、なにかが……違う。
纏う空気が違う。まるでそこには何もないかのようにすれ違うものが吹き抜けていく。
木から零れ落ちた名もない葉が風に飛ばされ、その人物の頬を掠めようとした――なのに、葉はぶつかるでもなく彼の身体を通り抜けてしまう。そこで初めて違和感の正体に気が付いた。
「――っ!?」
男には“影”がなかった。
音もなく、重さも温度もない。生きていると感じられるものが何一つとして感じられないモノがそこには居た。一瞬でJの目の前まで迫る。ほんの瞬きをする間に。
「お前、ボクが見えるんだ?」
「――??」
「ふぅん……人間のくせに面白い」
その瞳は興味深げに細められ好奇に輝く。
新しい玩具を手に入れたようなそんな目をした少年は、こめかみに指を当てると腕を組んで楽しそうに頬を緩める。こめかみに当てていた手を音もなく下し、そっとその指をJへと向ける。その指先は倒れたイチに向けられていた。
「そいつの身柄をボクにくれるかな? 消耗した子猫は保護しないといけないんだ」
「――っ?」
――子猫? ミーシャって誰のことだ?
聞きなれない言葉に驚いてJは目を見開く。
どうみても一喜や自分よりも年下の――子供のような無邪気さはない――少年が、超絶上から目線でモノを言うことが俄かには信じられなくて、思わず「えっ?」と間抜けにも聞き返してしまった。刹那模られた笑顔は失せ、少年は色を失くした瞳で蔑むようにJを見下す。
その瞳の冷たさにゾクリと背中に冷たいものが這う感覚がして、思わず息を飲んだ。眼を逸らすことも出来ずに見つめていると、突如少年の姿を見失う――逸らせずに見つめていたはずなのに見失ってしまうのも可笑しなことだ――が、その姿は鮮やかに耳についた。
――ガッ。ジャリッ。
Jの耳スレスレに黒塗の革ブーツが飛び込む。
何やらジャラジャラと装飾の施されたソレは微かな風と共に、大きな音を立てて木陰を作り出していた木の幹へと刺さった。驚きと動揺で声も出せやしない。なんて非常識な子供なんだろう。
「――っ」
「聞こえなかったの? そいつを寄越せって言ってんの」
「君……誰?」
見下ろす少年を訝しく見上げて、その瞳に自分の姿が映っていることを確認する。彼は本当にココに存在るのか、それすらも分からない。まるで管理官たちの様に曖昧な不確かで不安定な存在に思えた。
触れようと手を伸ばす――。
「――っ!?」
その手に激痛が走り、少年の足がJの手を捉えて踏みつける。
明らかな嫌悪を向けられて、さすがのJも戸惑いを隠せずに眉を顰めた。その瞳が楽しそうに輝く。
「…面白い色をしているね」
「――??」
「何、その色? どこで落としてきたの?」
少年の言っていることが理解できずにJは瞬きを繰り返す。色とか落とすとかいったい何の話をしているのだろう…。
興味深げにJの瞳を覗き込んでいた金色の瞳が不意に顰められ、何かを見つける。その瞳にはJの困惑した顔が映っていた。
少年の口唇が声もなく何かを呟き、溜息と共に身体が離れていく。音もなく草の上に舞い降りて俯く少年の髪が不意に揺れる。一瞬だけ風が舞い上がり目を開けていることも叶わない強さにJは思わず目を閉じた。竜巻のように一陣の風が吹き抜け、すぐに治まる。
安堵の息を吐いて目を開けたJは周囲の異変に気付く。
「――っ? なんだ、これ」
世界の色がない。音も、風も、温度も。
すべてがセピア色に染まり、何もかもが時間を止めていた。生きるもののない“死”の世界。いや、違う――これは“眠り”だ。
すべてが眠りについた世界――それが目の前に広がっていた。言葉を失わないわけがない。
腕に抱くイチの身体をそっと自分に引き寄せる。無意識にも彼を守ろうと思ったのかも知れない。
守る術も、力も持たないくせに…。
「お前、なに?」
「えっ?」
「人間なのに違う匂いがする」
セピア色の世界でもなお煌く金色と赤色の瞳がJの瞳と交差する。見つめていればどこまでも吸い込まれてしまいそうな不思議な力が働いて目を逸らすことが出来ない。
彼が何を言おうとしているのか分からないが、すべてが時を止めたはずなのにどうして自分の時間が動いたままなのかJにも疑問だった。
お互いの距離を保ったままで少年が淡く微笑む。悪戯を仕掛ける前のような始めて見せた少年の笑顔に思わず鼓動が跳ねる。こんな表情も出来るのだと瞠目した。
「お前、面白いよ」
「面白い?」
「うん。とてもね……その匂いも、存在もとても興味深い」
「……」
返す言葉を持たずに呆然と少年を見上げていると、不意に彼がその手をJの額付近まで上げる。くつくつと笑う少年の瞳が微かに細められ、歌うように声が紡がれる。
「キミに力を上げる――きっと、すぐに役に立つ」
「……?」
「覚えておいて、ボクは―――」
その声に乗るように世界が緑の葉で覆われる。吹き荒れる風とむせ返るほどの新緑で声が聞こえない。遠くなる少年の姿と、セピアだった世界が色を取り戻すのは殆ど同時で、Jは目を開けていることも出来ずに意識を手放した――。