真実の嘘《1-2》
何も変わらない。
人一人居なくなったくらいでは、この世界は色も温度も変えることはない。お前など存在しなくなったところで痛くも痒くもないのだと、そう言われているようで世界が憎らしく感じる。
一人の人間にとって大事な誰かが居なくなれば、こんなにも痛みを伴うのにどうして世界はこんなにも優しくないのだろうか。
――瑠依。 どうして連絡を寄越さない?
寄越せない状況ならばまだいい。
それが故意に寄越さないのだとしたら、親友という二文字に何の意味があるのだろうか。それとも俺は塁にとって“親友”ではなかったのだろうか。
時が経てば経つほどに、心の内に生まれた疑念は膨らむ。
信じていないわけじゃない。
連日流れるニュースの報道では、息子が刺した――と、親殺しの罪を瑠依の名に着せる。父親である駆城正登は一命を取り留めたが、今もチューブでその生命を繋ぎ止めているらしい。面会謝絶の札がかけられた病室の前には入れ替わり立ち代わりに警察官が警備していた。多分、瑠依に襲わせないために…。
目を閉じれば、あの日の瑠依の笑顔が浮かぶのに、世の中が彼を悪人だと告げる。優しい彼を思い出したくて一喜は過去の記憶に思いを馳せた。
『ねぇイチ。この子犬連れて帰っちゃダメかな?』
『……』
しゃがみ込んだ瑠依の見つめる先には、小包ほどの大きさの段ボール箱があり、箱の中には茶色の――薄汚れて黒にも見えるが――毛並みをした生まれてひと月ほどの子犬が入れられていた。
捨て犬だとすぐに分かるソレは、通りがかる者の同情を引くためか人目に付きやすい場所に置かれていて――でも雨よけも風よけも何もない殺風景なところだった。
ぽつり呟いた彼の言葉に一喜は言葉を失う。
『このままここに居たら、保健所に連れて行かれちゃうよ』
暫しの沈黙の後待ちきれずにまた一言瑠依が呟いて、ようやく一喜は言葉を返した。
『芽衣、動物アレルギーだろ?』
『……うん』
『彼女に苦しい思いをさせたいのか?』
瑠依には少しきつい言葉かもしれない。
“芽衣”は瑠依の三歳年上にあたる姉の名。瑠依にとって頼れる優しい姉であり、また女のいない駆城家の中で“母親”のような存在の――大切な――女性だから。
一喜の言葉に息を呑んで振り返り、その瞳が傷ついたように揺れて小さく俯く。
縋るように見上げる円らな瞳には、どこか寂しげな瑠依の姿が映り「くう~ん」と鳴いて鼻を摺り寄せる子犬の頭をそっと撫でてやった。
『……』
穢れなく綺麗な眼に移る自分は、どう見えたのだろうか。
学校の帰り道。
家に帰っても誰もいない片親の俺たちは、日が暮れるまで二人で遊ぶことが多かった。そんな毎日の中のありふれた風景。
捨てられた子犬を放っておくことも出来ずに、でも抱き上げることも出来ない不器用な少年。
一度捨てられた子犬にとって、差しのべられた手は絶対だ。だから束の間の優しさを、温もりを与えることを躊躇う。
連れていけないのなら手を差し伸べること自体が残酷な行為だと――少年は「ごめんね」とぽつり呟いて、キョトンとして尻尾を振る子犬から逃げるように走り去った。
その後ろ姿を今でも思い出す。
――瑠依じゃない。俺はあいつの優しさを知っている。
あんなに心優しい少年が、人を殺めるなど到底思えない。だから――
――そうだ。俺だけは信じよう。決して世界が彼を悪者にしても。
瑠依のことが好きだった。
彼が居なくなってみて改めてそう思う。恋愛感情とかそういうものじゃないけれど、大切だったし、彼の優しさや強さ、弱さ。人間として“駆城瑠依”という人物を尊く思っていた。
真実がどこにあるのかなんて、子供だから分からない。でも、瑠依を信じている。彼が何も言わずに居なくなったなら――何も連絡を寄越さないのなら――そこにはきっと理由がある。いつか――。
――戻ってきたら「理由」を教えろよ。瑠依。
*
「それで、イチはいつから眠ったままなんだ?」
日の当たる屋上に彼は一人佇んでいる。
今日も雲一つない晴天で照りつける陽光が目に痛い。その日差しを遮るように手で庇を作ると眩しさに目を細めた。寄りかかる壁の向こうには、日陰になっていた場所から紙の焼ける匂いと煙草の煙が立ち上る。そこに身を顰める女性が白い煙と共に溜息を吐きだす。彼女は――月子だ。
「お前があいつに地上での仕事を頼んだ後――」
「……」
「正確には仕事を終えて、自分の根城に戻った後からだがな」
「……大丈夫なのか?」
人目につかない場所を指定したのは月子で、雪も二つ返事でそれに応じる。閻魔庁に勤めている月子と、一介の事務所に属する管理官が会うなど間違いにしてもあってはならないことだ。しかも、話している内容が閻魔庁に属するものしか知りえないような機密ともなれば尚更に。
あの依頼の時、漠然とした不安が心に浮かんでいた。
燻っていたものに火が点いたかのように、それは今現実となる。一喜の眠りという形で――。
――嫌な予感がしてたんだ。
急なことだったとはいえ専門的に扱っている“時間屋”に頼むでもなく、一介の管理官に生命の時間を止めさせた。それも一人で地上任務を遂行している一喜にだ。その負担は計り知れず大きい。
「大丈夫…とは言えないだろうな」
「――っ」
「疲弊した分“眠り”で補えるならば良いが、そうでない場合は」
「場合は――?」
彼女の言葉に息を呑む。嫌な汗が背中をつたい胸の鼓動を速めていく。
結論を聞きたいのに、聞くのが怖くて拳を握りしめて地面を睨んだ。最悪の言葉だけが脳裏に浮かぶ。
「眠り続ける――ようするに“死”だ」
「……」
容赦のない彼女の言葉にただ押し黙る。
考えもなく一喜に事を頼んだことを今更ながらに後悔した。今更だと、頭の隅で嘲笑う自分に口唇を噛んで雪はやり場のない怒りにコンクリートの壁を殴りつける。痛みが身体中を襲うのに、頭の中が麻痺して何も考えられない。
もし、もしもこのまま一喜が目覚めなかったら――自分はどうやってその責任を取ればいいのだろうか。謝る術も時間も与えて貰えないなんて、思わなかった。
――ごめん、イチ。俺…。
身代わりになれるのなら代わりたい。それは本当。でも、自分の生命はとうに尽き果てているのだから、それも叶わない。
思いはぐるぐると頭の中を巡るのに、停止した思考じゃ何も良い案は浮かんでこなかった。
コツンッ
「――っおい」
「――っ!?」
影から伸びてきた手が雪の銀色の頭を小突く。女性らしい細く長い指先にシャラっと手首にはめたブレスレットが音を立てる。まるで砂のように滑り落ちるそれに目を奪われ、その向こうに煙草を燻らせながら見つめる月子の姿を見つける。目が合えば、彼女は口角を緩やかに引き上げて見せた。
「そう思い詰めるな」
「……」
「考えがないわけじゃない」
「…?」
「あいつのことは私に任せて、お前は自分の仕事をしろ」
「……だけど」
「イチが仕事を出来ない今、地上に管理官を派遣する必要がある」
「……」
「分かるな?」
月子の言葉の意味を理解して、雪はスッと気持ちを切り替える。真剣な眼差しに口唇を引き結んで静かに頷いた。
――イチの代わりに、俺が地上に行く。
じっとして居たところで気が滅入るだけだ。
ならばイチの代わりにできることをしよう。そう思った。
空を見上げて未だ眠り続けている一喜の事を考える。それと同時に目を閉じれば瑠依と二人笑って映っていた写真のことを思い出す。
瑠依をあの頃の笑顔に戻してやりたかった。
一喜に塁を会わせてやりたかった。
今はただ、遠い日の記憶になってしまったあの日の二人を――忘れることはできなかった。