真実の嘘《1-1》
気が付けば暗闇の中に一人立ち尽くしていた。
前も後ろも分からない様な、手探りで進む感覚。自分自身とその他との境界線が分からなくて不意に自分の頬に触れてみる。その頬に何かが触れた。
「――っ?」
持ち上げた右手と頬に当たる柔らかくも固くもない繊維。それが何だったのか思い出せずに彼は眉を顰めた。左手の指でそれに触れてみる。細かな繊維が絡まり合い、編み込まれたもの――それがミサンガだと理解して初めて、あの日の言葉が脳裏を過った――。
――ねぇ、一喜。約束しよう。
誰の言葉かなんて聞かなくても分かっている。
一番近くて、一番大切な友達・瑠衣。
確か先刻までは一緒に居たはずの彼が隣に居ない事に違和感を覚えた。どうして自分一人がこんな処に居るのか、それも分からない。ぼんやりとする意識の中に彼の姿を探すが、どうしてだろう彼の顔が思い出せない。姿も。その声も。
覚えているのはキミの名前――駆城瑠衣――だけで、徐々に記憶まで奪われて行く。
そんな気がした。
――俺まで忘れてしまうのか…?
一緒に笑った日々も、話した将来も、あの日の約束も。駆城瑠衣という一人の人間を形成していた情報が頭の中から泡のように掻き消えていく。まるで最初からそんな人物が存在しなかったかのように。
学校の教室からも、近所の商店街からも、そして瑠衣の家族の記憶の中でさえも――。どうしてこんな事になってしまったのか分からない。
俺たちはただ一緒に笑って、平凡な毎日を過ごしていただけなのに。
父親のいない一喜と、母親のいない瑠衣。小さい頃から当たり前のように一緒に過ごし、育ってきた。まるで兄弟みたいに仲が良くて、知らないことなんて何一つないと勝手に思っていた。それが付けあがりだなんてことも知らずに。
「……」
平凡な毎日が音もなく、砂のように突如奪われて行く。
俺たちの築いてきた世界は、こんなにも脆く儚いモノだと初めて思い知った。
一人で苦しんできた瑠衣。誰にもその苦悩を告げられずに一人居なくなってしまった親友を、どうして忘れる事ができる――どうして俺は気付いてやれなかったんだろう。後悔だけが胸に痛みを残す。
また明日ね。
そう言った日の夜に、瑠衣は姿を消した。
瑠衣の家の前には警察の車両が何台もあって、赤色灯とサイレンの音が煩いほど耳についていたのを覚えている。野次馬どもの間をすり抜けて行った先の立ち入り禁止の黄色いテープを眼の前に、一喜はその眼を疑った。古い木造の平屋建ての玄関先に、夥しい数の紅い何かがこびりついている。遠目からでもそれが何かなんて分かっていた。血だ。誰のものかは分からない血液がひび割れたコンクリートの玄関先に紅い水溜りを作る。信じたくなかった。
「おばさんっ、何があったの!?」
「あっ――いっちゃん!! それが―――」
野次馬の中に見慣れた中年女性を見つけて人の波を掻き分け、声をかける。瑠衣の近所に住んでいて母親のいない「駆城家」にとっては、頼れる存在なのだと前に瑠衣が笑って話してくれたおばさんだ。一喜のあまりの形相に一瞬彼女はギョッと目を見開いて、それから困ったように息を吐く。必死だった。瑠衣の身に何が起こったのか、それが知りたくて――。でも。
「サイレンの音で気が付いてね、まだ何も分からないのよ」
「――っ」
「瑠衣はっ――瑠衣は何処にいるのっ!?」
縋る様な少年の目に、おばさんは一瞬息を呑んで眉を顰める。
瞬きすらも忘れて食い入るように見つめる少年の真っ直ぐな瞳を受け止められなくて、彼女はその目を逸らした。それが何を意味するのか分からない程子供じゃない。
急激に目の前から光が失われていく。
「――っ」
「芽衣ちゃんも瑠衣ちゃんも姿が見えなくて――」
「……」
「いっちゃん、瑠衣ちゃんと一緒じゃなかったの!?」
凄惨な現場を見れば彼女や、この家の者を知るご近所の人は行方を知りたいと思うのが道理だ。聞いたつもりが逆に聞き返されてしまっては、それ以上言葉は紡げなかった。どうしてこんな時に自分は彼の傍にいなかったのだろうと、後悔の念が拭えない。
これが事件なのか、事故なのか――そんなことはどうでも良かった。
ただ大切な親友の顔をもう一度見たくて、抑えきれない衝動を抱えて飛び出す。
「あっ――いっちゃんっ」
呼び止めるおばさんの声も、その声に振り向いて声を上げる野次馬の声も聞こえない。警告を告げる黄色いテープを飛び越えて、見慣れた玄関へと一目散へ走る。警官が何事かと気が付き、一喜の前に立ちはだかっては静止を求める怒号が響く。それをひらりとかわして一人、また一人と屈強そうな青い制服の男たちの間を駆け抜けた。鉛がついてるんじゃないかと思うくらいに足が重くて、もっと速くと思えば思うほど縺れて上手く地面を蹴ることが叶わない。自分の呼吸を繰り返す音が耳に響いて煩い。
不意に目の前に黒い人影が覆いかぶさり、急に止まることが出来ずに勢いよく男の体に体当たりする――その腹に鈍い衝撃が走った。
「そこまでだ」
「――っ!?」
「悪いがガキは捜査の邪魔なんでね、大人しく家に帰りな」
「……かっ…ぁ」
突然の痛みに目の前がちかちかと明滅を繰り返し、上手く呼吸がつげない。腹部を圧迫されたせいだろうか、肺がうまく機能せずに噎せこんだ。膝から地面に崩れ落ちて砂の上を転がる。悔しさと怒りで立ちはだかる男を睨み上げると、なんともガラス玉のように色も温度もない視線が睨み返していた。目が合って、男が小馬鹿にしたように鼻で笑う。言いようのない怒りが込み上げて――でも、それ以上男に近づくこともかなわずに、数人の警察官によってテープの外へと追い出されてしまった。
「いっちゃん、大丈夫!?」
「……おばさん」
すぐに駆け寄ってきてくれたおばさんの顔を見れずに、思わず地面を見つめる。口を開けば涙が零れてしまいそうだった。何もできない無力な自分が情けなくて、腹立たしい。
「中に入ろうなんて無茶よ。それに、瑠依ちゃんは家の中にはいなかったみたい」
「――っ?」
おばさんの言葉に勢いよく顔を上げる。
困ったように微笑んで、彼女は先ほど関係者から聞いたという情報を教えてくれた。
『事件は閑静な住宅街で起こりました。○月×日陽も暮れた夕方17時過ぎ、何者かが住居に侵入し、中に居た駆城正登さんを刺したということです――――――尚、事件当時には駆城正登さんの長女・芽衣さんと、長男・瑠依さんが居たということですが、現在・瑠依さんの居場所が分からなくなっており、なんらかの事件に巻き込まれたか、もしくは事件の真相を知っているものとして捜索を開始しています。目撃情報は――』
ニュースは駆城家に起こった凄惨な事件と、息子・瑠依の行方について日々情報を求める呼びかけをしている。瑠依の父親・駆城正登は四十八歳のどこにでもいる普通の真面目なサラリーマンだった。
瑠依の誕生とともに母親は他界し、男手一人で二人の子供を育てた彼からはいつも石鹸の匂いがしていた記憶がある。不器用で口下手な人だが温厚で、優しい人物だと思った。
瑠依からも不満や悪口を聞いたことがない。それくらい仲の良い家族だった。
――瑠依、何があった?
どこにいるかも分からない親友に問いかける。
記憶の中の彼は今もあの日の笑顔のままで、じゃあねと大きく手を振って背を向け駆けて行く。屈託のない笑顔が一喜は好きだった。
きっとあの笑顔の下には辛いことも、悲しいこともあった筈だ。それでもいつだって瑠依は笑顔を絶やさなかった。強くて、弱い――瑠依。
――どうして、俺に何も言わずにいなくなった?
お互いに何でも話しているものだと思っていた。
大きな事件も、些細な出来事さえも。でもそれは違っていたのかもしれない。
瑠依は一人で居なくなった。それが何を意味しているのかは分からないけれど、連日続くテレビのニュースが、徐々に瑠依を犯人に仕立て上げていく様が見ていられない。腹立たしくテレビの電源を切って、一喜は学校に行く準備を始める。
いつも待ち合わせしていた交差点の前まで来て、辺りをキョロキョロと見回す。二人で他愛無いことを話しながら登った校門まで続く坂道も、校門の横に聳える桜の大樹も――歩きながら瑠依の姿を探した。眼を閉じれば今でも面影が宿るのに、目を開いた世界の中には彼の姿が見つけられない。どうして、なんで。そう幾度も自分に自答したけれど、瑠依の答えは見つからなかった。
――パチッ
「――っ?」
坂を上りきって門を潜ると、一瞬だけ足元にチリッとした静電気のような感覚が走る。
驚いて後ろを振り返るが別段何でもない光景が広がっていた。訝しむようなものは何一つとしてない。
――気のせいか?
違和感を感じたのはほんの一瞬。それに辺りを見回しても他の生徒に変わった様子はない。
誰一人として立ち止まり振り返る者はいない。だからこれは気のせいだ――そう、思っていた。