孤独の音《10-3》
塁の身体を前に雪は一つ溜息を吐く。
清浄なる地下祭壇に横たわるのは今の塁の躯の筈なのに、どうしてだろうか、あの日の幼い瑠衣の姿が重なって見えた。
首筋に浮かぶ憎しみの痕は今も尚その爪痕を彼の心に残し、沈めたはずの彼自身の記憶をいつの間にか浮かび上がらせている。本当はこんな爪痕消してやりたかった。辛い事も、哀しい事も憎しみも、瑠衣という心優しい少年を苛むすべてのモノを失くしてあげたかった。出来る筈もない――。
――塁自身が、その憎しみを手放そうとしないからな…。
瑠衣が塁で在る為に必要なもの。
そして瑠衣が塁であるが為に手放さなければいけなかったモノを、雪は知っている。
契約を交わしたのはもう一人の自分。彼を一人にしない為に、戒人と出会わせたのも――。
その判断が正しかったかどうかなんて、今は判断できない。
――少なくとも俺はソレを判断できる立場にはいない。そうだろう?
さらさらと耳触りの良い水の流れる音が、時を静かに彩る。
この場所は憎しみも怒りも、そういう負の感情全てを遠ざける唯一の安らぎの場所。疲れ果てた歴代の“管理官”達が眠る為に作られた場所。それでも…。
「塁、お前を眠らせたくない」
それはただの我儘かも知れない。
彼の為を思うならばこの場所で静かに眠らせてやる事が優しさなのか――と。彼が眠る事を望んでいるとは言わない。でも、望んでいないとも思いたくない。
憎しみや怒りに染まってしまうくらいならば、ここで彼の生きる意味に終止符を打つ。そう思って塁をこの場所に導いた。
――俺は、お前の幸せを祈るよ。瑠衣。
静かに触れる指先の温度は冷たい。
そっと髪を梳いて、頭を撫でて、まるで愛しむように彼の輪郭をなぞる。冷たい石の上よりも温かみのある草木の方が彼に似合うだろうと横たえた地に一つの小さな花が咲く。丁度彼の瞳と同じ紫の小さな可愛らしい花。その花を手折りて口元へと近づければ微かに甘い匂いがした。そっと塁の掌に置く。
「憎しみに染まるモノ。抗えぬその爪痕に魂を縛られるモノ。約束の地にて誓いを交えしモノの名において彼の者を呼び覚ます為に管理官―雪―が告げる」
それは約束だった。
遠く色あせてしまった――けれども一番古く残された――記憶の景色。
塁の身体に文字を描くように雪の指が宙を舞っては、その文字が塁へと降り積もる。浅く薄く呼吸を繰り返す口唇に手を翳して、ゆっくりと塁の額に自分の額を合わせる。
瞳を閉じれば自然に合わされた額から映像が流れだし、そうしてゆっくりと合わされた記憶の欠片を抜き取っていくのだ。容易なことではない。数多くある塁の記憶の中から“憎しみ”だけを抜き取るのは、どうにも手間も時間もかかった。
それでも、彼を救うには他に方法が無かった――。
――閻魔庁に知られれば、ただでは済まない。
もとより塁は閻魔庁に拾われた人間ではない。
当時の記憶管理事務所の最高責任者だった男に拾われたのだ。閻魔庁にとって、有益でも無益でもない存在。それが塁だった。
“価値”があるのではなく、そこに不具合が生じればすぐにでも捨てられる。まるで飽きた玩具のように――。
そんなことにはしたくなかった。
――塁、聞こえるか?
意識下に下り塁の記憶を辿る。
過去と現在と未来が潜む場所に、塁の意識を探す。
時折耳につく甲高い音に眉を顰め、何もない“虚無”の中を彷徨った。ここは色も温度もない“冷たく”て“寂しい”場所。塁の中に存在する彼の“孤独”を秘めた場所――。
――俺の声が聞こえてるんだろ?
いつも何を言わなくても分かってくれる君。
呼ばなくても、言葉にしなくても不思議に雪のことを見つけて傍にいてくれた君。辛い時、哀しい時、いつだってキミが傍にいてくれた――。
一緒に生きようと言ってくれた。
その言葉にどれだけ支えられてきただろう…。
「塁、お前が必要なんだ…」
掠れた声で呟いた言葉は、キミに届くのだろうか。
一つ、また一つと胸を刺す様な痛みが雪を襲う。“憎しみ”が胸に突き刺さる。こんなにも痛くて、苦しくて、哀しいモノを塁が抱えていたのだと今更ながらに気がつく。もっと早くに気にかけていれば良かった。異変を感じ始めた時に手を伸ばせば良かった。
キミはそこに居たのに…。手が届く位置に、触れる事が出来たはずなのに――。
「塁、ごめんな」
もう二度と“後悔”はしない――そう決めたはずなのに、またこうやって“後悔”を繰り返している。そんな自分が嫌でたまらなかった。
触れる胸元の小さな金属が冷たい。意識が遠のいて、沈んで行く。その先で塁の声が聞こえた様な気がした。
*
声が聞こえる。
暗闇の中に居るのは“瑠衣”なのか、それとも“塁”なのか。
どちらとも区別のつかない――元より“自分”とその他を区別する境目なんて見当たらない――世界で、彼は目を閉じていた。
聞こえるのは孤独の音。
大地を、心の泉を凍らせる――死の音。
今度こそ僕は死ぬのか、そう思って何だか不意に可笑しくなる。
噛み殺した笑いが微かな息となって辺りに散らばる。その隙間に僅かな光が宿った。
――る…い。
どこか懐かしい声に、閉じていた瞼越しに映る光。
煩くて、煩わしくて、塁はその手で目を覆った。そうでもしなければ、また現実へと引き戻されてしまう気がした。残酷な世界へと――。
もう憎しみに溺れたくない。誰かを憎むことで繋ぎとめる生命なんて無力で、なんとも虚しかった。
それでも、もう一人の自分が笑う。
お前は憎むことでしか“存在”出来ないのだ――と。
紅い目をした自分がその口角を吊り上げて、楽しそうに笑う。いつか支配されてしまうだろう“憎しみ”に、その身体が震えた。
――塁、ごめんな。
刹那、聞こえる声に振りかえる。
小さく芽生えただけの光が、その大きさを増していく。
気がつけば自分の姿を確認できるようにまでなっていた。バラバラと自分から剥がれ落ちる“何か”が、大地を埋めて――そこに紅い花が咲く。
凍っていた大地が、泉が、息を吹き返して辺りに色を戻した。その景色に眼を奪われる。
「――っ」
呼吸さえも忘れて佇んでいた塁の掌に不意に何かが触れた。花だ。
小さくて、少し力を込めたら潰してしまえる程の――けれども優しく力強い――紫の花がその手に握られていた。胸が震える。
「……せ…つ?」
声の主を思い出して、不意に言葉に乗せれば小さな花が揺れた様な気がした。
分かっている。
生きていくことは楽しいだけじゃない。辛い事も、哀しい事も、この世界には沢山渦巻いている。憎しみだって、きっと――。
――逃げちゃダメだ。
“一緒に生きよう”
あの日の言葉が塁の脳裏に蘇る。その言葉を、約束を忘れたりしない。キミと一緒に結末を見届ける為に…。
手にした花にそっと口唇を付ける。瞳を閉じれば、その花からは見ただけでは感じる事の出来ない甘い香りがした。大丈夫。また、もう一度キミと歩きだす為に――。
「静かなる闇に潜む者。憎しみを糧に生きる者。二つの心と、一つの魂が交えし躯に告げる。孤独の音に耳を傾けるな――自分の名を呼ぶ者の為に生きろ」
目の前に居た過去の自分が、曖昧に微笑んでその姿を失っていく。泡の様に掻き消えていく自分に苦い気持ちがこみ上げた。グッと拳を握りしめて、前を向く。
感傷に浸る暇などない。
「雪。キミの声が聞こえたよ――」
――自我と無意識の狭間で、いつだって僕を照らすのはキミなんだ。
「管理官、塁。お前に立ち止まることなど許さない。お前の在るべき場所へ還れ――」
何も無かった世界に風が舞う。塁の髪を巻き上げ、言葉を空へと連れて行く。
その声は塁が自分に向けた、初めての“誓約”だった――。
二年以上続いた「孤独の音」編も、あと数話で終わります!
最後までお付き合いくださいm(__)m