孤独の音《10-2》
夢を見ていた。
叶うことのない可笑しな夢。
お母さんが居て、お父さんが居て、私が笑って。そこには悲しみも、罪も、罰も、許しも無くて、ただ毎日がある。平穏な時が流れていく。凄く幸せだった。
暖かい日差しの射す廊下を二人は一言も発さずに歩く。
Jはイチに言われた通りに病院の中を歩き、時々少し後ろを歩く少女の様子を窺う。俯き自分の足元ばかり見てる少女は、どこか緊張しているように思えてJは言葉をかけるのを躊躇った。でも。
――きっと、怖いんだろうな。
緊張と不安と、真実と向き合うことの恐怖。
その感情はJもよく知っている。言い表す事の出来ない何かが心の中を渦巻いて、言葉にしてしまうことも出来なくて、きっとそんな感情と彼女は戦っている。
どうすれば彼女の不安を取り除く事が出来るだろうか…。
「あの」
「……?」
「余計な事かも知れないんですけど」
「…はい」
Jは立ち止まると振り返って少女を真っ直ぐに見つめる。
福山 悠里よりも一つ年下に当たる自分は、頼りないかも知れない。言葉が何の救いにもならないかも知れない。でも、同じ気持ちを知っているから、少しでも彼女の心を軽くしてあげたかった。
不思議そうな瞳で彼女が小首を傾げる。
大丈夫。大丈夫。自分の信じるままに。きっと分かり合えるはずだから。
呟くように呼吸を繰り返してJは不意にニコッと笑って見せる。
「不安ですよね」
「……」
「どうしてこんな風に、とか。どうしてを繰り返しているうちは、過去の自分に後悔したり、腹が立ったりします。違う人間だから完全に気持ちを理解することは出来ないかも知れないし、傷つけたくないのに傷つけたり、傷つけられたり、哀しい事ばかり起こる世の中が嫌になって現実から逃げたくなって…」
「……」
「でも」
少女は何も言わずにただ黙ってJの言葉を聞いてくれている。
何を言わんとしているのか、本当はその言葉の意味に気が付いているのかも知れない。それでもこれだけは伝えたかった。
「大丈夫。大丈夫ですよ。生きているから、言葉は届くんです。哀しくても、辛くても、相手が生きていなければ、そこに居てくれなければこの声は届かない。だから……」
「…」
「福山さんの……悠里さんの言葉はきっと届きます。思った事を、ずっと考えていた事を真っ直ぐにぶつけていいんです。もう我慢しなくていいんですよっ」
「――っ」
上手く言えたかなんて分からない。
もとより言葉にするのは得意な方ではないし、きっと大人のようには気遣ってあげられない。それでも笑って欲しかった。元気になって顔を上げて、前を向いて歩いて欲しかった。
Jの言葉に息を飲み俯いた少女が、ゆっくりと顔を上げる。その顔には今にも泣きそうで、今にも折れてしまいそうな―――けれどもどこか安心したような微笑みが浮かんでいる。一つ息を零して、そうして少女はもう一度笑みを作るとこう言った。“ありがとう”――と。
*
病室の前に佇みJは一つ溜息を漏らす。
自分のした事が正しいのかどうかも分からず、半ば後悔を抱きながら白い無機質な天井を見上げた。
「……」
以前ならこの白い天井を見るのが嫌で嫌で仕方がなかった。
目にするだけで、その空間に自分が居ると思うだけで吐気がして具合が悪くなる。病院とはJにとってそういう場所だった筈なのに……。今はそれをなんとも感じなくなっている自分に戸惑う。これも彼らと出会ったからなのだろうか…。
――雪さんのおかげかな。
不意に温かい気持ちが胸に湧き上がる。
管理官にそういった力が備わっているかどうかなんてJは知らない。管理局に居る間、誰も詳しい事を教えてはくれなかったし、きっとその必要性も感じていなかった。本来ならば必要ない存在。Jとの賭けは予想外に起きた出来事であり、それは決して褒められた事ではない。云わば“神谷 雪”という管理官が独壇場で起こした事例に過ぎないのだ。
「……大丈夫かな」
もう一度溜息を零して、背中越しに物音一つしない病室を見つめる。中が気にならない訳ではないが、彼女――福山悠里――は“独りで行きます”と覚悟を決めた瞳でJに告げた。だから、Jはこの場所で彼女の想いが届く事を信じて待っている。
それに確認するまではイチの元に戻る訳にはいかない――管理官でもないのに、何故だが心がそう告げる。うずうずする気持ちを沈める事も出来ずにJは少しだけ扉を明けて中を窺い見た――。
*
白い病室にあの日の父親の姿が浮かぶ。
突然の母親の訃報が哀しくて、寂しくて、縋るような想いで父親の眠る部屋に入ってしまった。きっと父も同じだったのかもしれない。
最愛の人の死を認めることが出来なくて、娘の私に母の幻影を見たのかも知れない。そう思えば思うほど、悲しみと苦しみはこの心に巣食っていった。
“お父さん、私を見て…。違うよ。私はお母さんじゃないっ”
怖くなかった訳じゃない。父親が知らない人に見えて心も身体も悲鳴を上げていた。それでも…。
「お父さん…」
白いベッドに横たわる父親がとても小さく見えた。
痩せたから小さく見える訳じゃない。青白い顔に、少し伸びた髪、笑顔を浮かべる事の無いその無機質な表情に視界が滲む。
こんな姿を見たくはなかった。いつだって笑っていて欲しかった。
あの温かな父の笑顔を、温もりをもう一度知りたかった。生きていて欲しかった。
「お父…さん」
涙が悠里の頬を伝い、父親の顔に落ちる。
少し冷たい大きな手に自分の手を重ね少女は泣き崩れる。
母親のように突然いなくならないで。私を一人にしないで。それだけを伝えたいのに、言葉は声に出せず涙だけが止めどもなく頬を伝っていく。
――目を開けて。笑って。あの日のようにもう一度…。
名前を呼んで欲しかった。
振り向いて、その大きな掌で頭を撫でて欲しかった。
許すとか、許されるとかじゃなく、もう一度悠里と共に生きる道を選んで欲しかった。
涙を自分の手で拭い、悠里は一つ深呼吸をする。
解放の時はすぐそこまで来ている。雪はそう言った。その呪文は悠里の心の中にあるとも――。
願いを口にしていいのだと…。
「ねぇ、お父さん。眼を開けて」
今なら分かる。父親の気持ちも、苦悩も、後悔も。きっと少女と同じように暗い闇の中を彷徨っていたと言うことも。
そっと父親の頬に触れ、少し伸びた髪を梳く。遙か昔、まだ悠里が幼い頃にそうしてくれたように。
「私、怖かったんだよ」
あの日の父親が怖かった。それだけじゃない。優しかった父親の記憶さえも消されてしまいそうで、父親の存在も失くしてしまいそうで、本当はそれが一番怖かった。
「怒ってなんかいないよ。許すとか、そんな事じゃなくて…」
また一つ涙が落ちる。
握りしめた掌に爪が食い込んで泣きだしたい気持ちをかろうじて留めた。
口唇が震える。
「一人にしないで……。お願い…」
ぽつり零れる本当の願い――。
せき止めたはずの感情がその一言で溢れだす。眠る父親の胸元に縋りついて少女は泣いた。まるで小さな子供が駄々をこねるように、温かな温もりを求めるように。
「……」
どれくらいそうしていただろう。
いつの間にか泣き疲れて、うとうとと軽いまどろみに誘われていたようだ。ぼんやりと靄のかかったような頭を起こし、視界の先に映る白色を見つめる。酷いモノで握りしめられていたベッドカバーはあちらこちらに皺を刻み線を残して行く。
頭の隅で“ああ、ダメなんだ…”と父親が目覚めていないことを理解すると、また一つ彼女の頬に涙が流れた。その刹那――。
白い布地と同じくらいクシャクシャになった悠里の頬に温かいモノが触れた。
「――っ!?」
「……」
不安と期待で高鳴る自分の鼓動が耳に付く。
煩いくらいのその音を感じながら少女はゆっくりと視線を動かした。そこには――。
「――っ」
優しい瞳が穏やかに笑みを作る。
視線が交われば、お互い言う言葉を見失って悠里の視界はまた滲んだ。頬にある大きな父親の手に気付き、震える手で確かめるように重ねる。何度も何度も願った温かな掌。それがこんなにも近く、こんなにも愛おしい――。
「…っとう…さんっ」
震える声で名前を呼ぶ。
今もまだ夢の中に居るようで、その声が聞きたかった。笑って、名前を呼んで、これが現実だと教えて欲しかった。
「……ごめん」
「――っ」
「ごめんな……悠里」
溢れる感情のままに二人は抱きしめあう。
哀しみと、喜びと、涙が綯い交ぜになって二人の間に零れた。
伝えたかった言葉、伝えられなかった想い、そう言ったモノが自然に溶けだしてわだかまりを消していく。少女の心は次第に満たされて行った――。
*
室内の空気が動いた事を悟って、Jは落ち着けていた身体を離す。
大丈夫。これで終わったのだ――と、どこからか声が聞こえた様な気がしてJは少しだけ表情を緩めた。差し込む日差しにキラキラと光る世界。多分空気中に舞った埃のせいだろうとは理解しながらも、その光景に心が温かくなる。
“管理官”としてやり遂げたことに喜びと充足感でいっぱいだった。
――幸せになってね…悠里さん。
青い空を見上げれば雲ひとつない。きっと今なら不慮の事故で空に昇った彼女の母親も微笑んでくれている事だろう。
そんなことを思いながら晴れた空の下、Jは病院を後に歩きだした―――。