孤独の音《10-1》
ゆらゆらと水面を漂っていたように思う。眼を開いても、閉じていても、見えるものはただ深い闇だけで、そこには何もない。
どこからか香る白檀の匂いが鼻先を掠めていく。怖いとは思わなかった。
それは彼の纏う香りと同じだから――。
「戒人…」
最初の出会いはいつだったろうか。
もう思い出せない程の長い時間を、キミと二人歩いてきた気がする。どちらが強いとか、弱いじゃなくて。キミと僕は、一つだった。
――泣いているのか…?
月読の民として、古くから“死”を司らなければいけない運命を背負ったキミ。そして、運命と憎しみに逆らえなかった――ボク。
感情を持つ月読の民は、もっとも稀でもっとも畏怖すべき存在とされ、生まれながらに自分の生を呪い、また“生”で在る事を認められない。それがキミだった。
――お前は死ぬのか?
それでも、僕はキミに感情が生まれた事に感謝している。
キミの声が、想いが、あの日失いかけた僕の光を、音を、熱を蘇らせた。
キミの声と、僕の頬に落ちた一粒の温もりが“瑠衣”を思い出させた。
「僕を――知っているの?」
どこから声が聞こえるのかなんて分からない。音としてではなく、それは直接心に響く声。気がつけば、失くした筈の僕の言葉もそこにあって、死ぬ間際の人の心はこんなにも穏やかなモノなのだと知った。
苦しくはない。痛みも、憎しみも、全ての感情を封じるようにライは記憶のパズルを抜き取った。その憎しみがいつか薄れるまで、記憶の海で眠らせる為に…。
だけど―――。
――憎しみは尽きる事を知らず、徐々に塁の心を蝕んで行った。
関わってきた多くの依頼主の抱える苦悩と、痛み、憎しみ。瑠衣の抱える感情全てを取り除いた処で、それよりも大きな負荷が塁の心には降り積もって行く。それをどうして消化することが出来ようか。
――キミを守りたかったのに、キミを傷つけ続けている…。
その事実が何よりも二人の心を蝕んでいた。
戒人の優しい心を傷つけたくないから塁は自らを犠牲にし、塁が傷付くのを見たくないから戒人は塁を闇に隠そうとする。お互いにお互いの想いを理解しているから、それ以上踏み込む事が出来ない。
塁の心の闇が広がっている事に気がついていたのに、戒人にはそれを埋める事は出来なかった。
『瑠衣―――すまない』
「何を謝るの?」
暗闇の中に自分の声だけが虚しく響く。
いつものように、その顔には偽りの笑顔を張り付けて緩やかに流れる銀糸の様な髪が黒檀の闇に広がる。自分がどうしてココにいるのか――その意味も理解している。
誰がココへと導いたのかも見当はつく。雪だ。
――僕の事なんか放っておけばいいのに。
彼のお人好し加減に些か腹が立つ。
いつだって自分自身のことは後回しにして、誰かの為に、誰かを助けようとする彼。その姿はいつも眩しくて、そして危なっかしかった。見守る方の身にもなって欲しい――何度、そう思った事か。
――キミは僕がそう言ったところで、曖昧に笑うんだろうけど。
あの頃の雪とは違う。
彼の傍らにいつも居て、従順で人形のようだった彼女はもうどこにも居ないのだ。それを望んだのは|彼であり、僕も同じように願った。だから――。
――雪は自ら歩きだした。
「いいよ――僕を止めたいのなら、来ればいい」
――きっと、僕の事を止められるのは、止められるとしたらキミだけだから…。
*
一方、地上――。
一瞬だけ吹き抜けた風がJの頬を掠めた。
何故だろう。何も変わっていないはずの景色なのに、何処となく違う表情を浮かべているように思う。ほんの些細な空間の歪みがJの目に映る景色の彩を変えていく――。
「――っ」
不意に寄りかかられていた肩の重みが失われ、そこに居なかったはずのイチの魂が身体へと戻る。何事もなかったかのように身体を起こして少し重たそうな頭を左右に振ると、イチはふと空を見上げた。
――戻った…か。
驚きを隠せないJの口唇はぽかんと開いたまま塞がらない。それに気がついてようやく隣へと視線を送ると、イチは一つだけ溜息を零した。その溜息の深さにJは更に目を瞠り、次なる言葉を探そうと思考を巡らす――が、気の利いた言葉は浮かんでこなかった。
「――あっ、あの」
「……?」
「お疲れ様でしたっ」
「…」
「……イチさん?」
聞こえているのか、いないのか。
彼は文字通り上の空で髪を掻き上げる。少しの空白の後、何を言うでもなく彼は立ちあがった。
「――っ!? イチさんっ??」
振り返る事もなくスタスタと何処かを目指して一心に歩く彼の後姿に、Jは戸惑いながらもついて行く。その足取りは決して軽いモノではなく、時折前を行く姿が大きく揺らぐ。その身体をJは支えた。
「何処ですか?」
「――っ」
「一緒に行きます。もう殆ど“霊力”が残っていないんでしょう?」
「……」
訝し気に目を瞠るイチにJは“違いますか?”と視線だけで問いかける。
他人を頼る事を良しとしない彼ら管理官の姿勢は正しいのかも知れない。それでも、目の前にいる辛そうな人を放っておけるほどJの心は強くない。今だけでいい。今、この一瞬だけでも彼らの助けになれるのならば、この身体を力を遣って欲しいと思った。
「…悪い」
「いえ」
Jの気持ちを覚り、イチがぽつり呟く。
逸らした視線の先に自分の足元の影を見つめ、それでも差し伸べられたJの手を振り払うことはなかった。口数は少ないがお互いにお互いの気持ちを理解し、尊重して動いている。そう思える何かが二人の間にあった。
「依頼人の少女が、現世に戻ってきている」
「――っ。福山悠里さんが?」
Jの言葉にイチは頷く。
額に汗を浮かべて常よりも蒼く染まった彼の表情が曇る。本当は立っているのも辛いんじゃないかと思う。言われるままに彼の目指す場所へと足を踏み入れる。
「――っ」
パチッと静電気のような小さな電流が走り、Jは辺りを見渡す。何がある訳でもない変哲のない木漏れ日の差す草むら。温かな日差しの中、その人は居た――。
「悠里さんっ!?」
「――しっ」
「……」
「悪いが彼女の傍まで連れて行ってくれるか?」
「――はいっ」
ゆっくりと歩く。踏みしめる足の下には草の感触があるはずなのに、その音は驚くほど静かで――眠る彼女は、さながら悪い魔法にかけられたお姫様のように見えた。
イチがまた一つ溜息をついて彼女の傍らに座る。
「お前は離れてた方がいい」
「――?」
「良いと言うまで近づくな」
「……」
突き放すように向けられた視線がチクッと胸を刺す。
仕方なく後ずさる様に木の影に身を顰めると、遠い視界の隅に二人の姿を捕えることが出来た。今は、これが精一杯の距離なんだと痛感する。
――まだ“管理官”じゃない。だけど、いつか…。
必ず“管理官”になって見せる。
決意は揺らぐことなく強い意志になり、想いは力へと変わる。
それを証明してくれたのは雪であり、管理局にいるみんなだ。忘れる事も、諦める事も出来ない。
――この願いだけは譲れないんだ。
盗み見るように二人の姿を視界に捉えてJはハッと息を飲む。
先程まで立っているのも辛そうだったイチの真剣な表情と、宙に浮かぶ文字。声までは届かないが、何かを呟く口唇は迷いも見えずに定められた――在るべき――言葉を模って行く。額から滴る汗の量は尋常じゃないのに、その瞳は光を失っていなかった。
「凄い…」
息を飲む光景に、耳をつく甲高い音が響く――。
他の人には聞こえないであろう周波数の音にJは耳を手で覆う。あの時と同じだ。あの記憶の海に居た時と同じ感覚が襲い、世界がぐらぐらと揺れる。襲い来る眩暈と吐気。上も下も分からない世界の中でJは意識を手放した――。
━お前が“望む”モノは何だ…━
何処からか声が聞こえる。
これが現実なのか、夢なのかさえ分からない世界の中、頷く事も出来ない。
また頭上に回るモノクロのフィルムが望みもしないのに忙しく移り変わっては誰かの声を伝える。
━望むモノは、いつだって手に入らないもの━
聞き覚えのある声に、声のした方を振り向く。
その声の主が誰なのか分かる前に映像は掻き消え、まるで泡沫のようだった。
━スベテを壊す為に、必要な駒を揃えるのさ――いつか来るべき、その日のために…━
不気味な笑みを刻んだ口元が、緩やかに何かを告げる。
その言葉の続きを知りたくて目を凝らすのに、まるでノイズでもかかっているのかと言うくらいに映像は乱れ、声はかき消されて行く。
この先を知らなければいけないと本能が告げるのに、それは叶うことが無かった。そして――。
「――Jっ」
「――っ!?」
突然現実に引き戻す声に驚いて息を飲む。
目を開けばそこには少し呆れた様なイチの顔があり、ため息交じりに額をパシッと軽く叩かれた。寝ていた訳ではないが、なんとなく面目なくてJは額を掌で摩ると身体を起こす。その時、ようやくあることに気がついた。
「…福山 悠里…さん?」
イチの少し後ろ、控えめに笑う女性の存在に思わず開いた口が塞がらない。
もう一度イチの溜息を聞きながら、それでも瞳は目の前の彼女に釘付けだった。雪ではなく、今目の前にいるのは本物の福山 悠里なのだ。この違和感をどう表現したらいいのだろうか。
「あの…」
「私を、父の処に連れて行って下さいますか?」
「――っ」
「大丈夫。もう、逃げたりはしません」
「……」
どうして自分なのか、真っ直ぐに向けられる彼女からの視線に迷いはなくてJの心が震える。彼女の言葉に思わずイチの様子を窺うが、彼は太い木の幹に寄りかかり疲れた様子でJを見つめていた。その口が端的に用件だけを伝える。
「病院の入り口を入って左、二つ目の角を右に行った先に“福山 渉”という表札のかかった部屋がある。父親の方も時期に目覚めるだろうから、彼女をその部屋まで送って上げて欲しい」
「――っ!?」
「…悪いが、今頼めるのはお前しかいない」
今にも眠りについてしまいそうな気だるそうな表情に、増える溜息。本当はもうとっくに限界を迎えていて、動くことすら億劫なのだろう。それは分かる。だが。
「でも」
「大丈夫。お前なら出来る」
未だ躊躇うJの言葉を遮り、イチは強い眼差しで頷く。
その瞳は有無を言わせずJからそれ以上の反論を奪った。掌をぎゅっと握りしめ、Jは前を向く。今彼は他ならぬJのことを頼ろうとしてくれているのだ。ならば何故躊躇う必要がある…。
「わかりました」
Jの言葉にイチが安心したように頷く。そして真っ直ぐに手を伸ばすと、二人の後ろにある病院に向かって指を差した。
「行け――もう、答えは出てる」
「はいっ」
彼女の手を取るとJは歩きだす。
もう後ろを振り返る事はしない。
木漏れ日が揺れる中、二人は手を繋いで進む。どちらのものか分からない緊張の汗が掌を伝うが、言葉を重ねることはしなかった。
見守る日差しは暖かく、吹く風は優しい。
その時は、すぐそこまで近づいていた――。