孤独の音《9-3》
静まり返った“紫”の室内に、荒い息遣いだけが残る。
床に倒れる彼に覆い被さるように雪は俯いた顔を上げる事が出来ずに、その場に蹲っていた。カランッと小気味よい音を立て手にしていた“武器”が床に転がる。緊張が解けたせいだろうか。今更になってどっと襲い来る疲労と、痛みに眉を顰めた。
――くそっ、手加減なしで切り込みやがって…。
雪のすぐ傍には穏やかに規則正しい呼吸を繰り返す男の姿がある。
閉じられた瞳が、床に散らばる雪よりも少し濃い色の銀色の髪が、首筋に浮かぶ憎しみの痕が、そのどれもが“瑠衣”を映していた。額に架かる前髪をスッと梳いて、未だ幼さの残る風貌を見つめる。こんな風に彼の顔を覗きこむのはいつぶりだろうか…。
――そういえば、いつの間にか直視することをしなくなっていた。
出会った頃は誰に対しても真っ直ぐに向き合ってきた自分が、眼を逸らすようになったのはいつからだろう。自分自身で在る事が後ろめたくて、自分がココに居る事が許せなくて――皆の視線も、想いも怖かった。
――分かってる。
本当に孤独だったのは、臆病だったのは雪も同じ。
雪だけじゃない。きっと、雀だって、狐だって、皆“塁”と同じように“孤独”だった。でも――。
“憎しみ”は“孤独”を埋める代わりにはなれない。
「…雪君……大丈夫?」
不意に足音が近づいて、影が雪の上に被さる。
頭上に降る優しくかけられた声音に、雪は伏せていた顔を上げた。心と眼が合う。
「悪かったな…危ない目に合わせた」
「――っそんな、そんなことないよっ」
「塁がココまで思いつめていたとは思わなかったんだ。こんな…」
「…」
その先を言葉にする事が出来ずに二人は黙り込む。
雪は冷たい床に腰を落ち着けて、一つ溜息を落とす。誰に聞かれる訳でもないソレは雪なりの自責の念の現れだった。
「あの…」
「――?」
「雪さん…私」
聞きなれない声に思わず振り向く。そこには見慣れた少女――福山悠里――の姿がある。
――見慣れたというか…。
まさかつい先刻まで自分が彼女自身だったなんて、誰が思うだろうか…。何処となく居心地が悪くて思わず視線を逸らして頭を乱暴にガシガシ掻く。その意味に気がつく事もなく心は訝し気に小首を傾げると、腕を組んで近くの壁に寄りかかった。徐に口を開く。
「とりあえず今は“塁”の事よりも、彼女たちの方が優先ね」
「…そうだな」
いつもの様子を取り戻した彼女につられ雪も自分の今するべき事を確認する。
塁の“憎しみ”の原因が、依頼人をここに彷徨わせた人物と同じならば、尚の事彼の眠っている間に解決してしまいたかった。同じ苦しみを味あわせない為に。
「心、管理官になって早速で悪いんだが、フォロー頼めるか?」
下から彼女の顔を見上げると、切り揃えられた茶色の髪の向こうに紫の綺麗な瞳が揺らめく。彼女が頭を動かすたびに微かに聞こえる髪飾りの鈴の音が、酷く心に響いた。なんて、哀しくも儚い音なのだろう。
雪の瞳に映る自分に曖昧に笑って、心は寄りかかっていた壁から身体を離す。不意に伸ばされた手が真っ直ぐに雪へと向けられた。
「いいわ。不慣れだけど…貴方に助力は惜しまない」
「…」
「私も“塁”を助けたいの」
その言葉に息を飲む。
同じように誰かを助けたいと、そう思ってくれる誰かが傍にいてくれる事を嬉しいと思う。そこにはきっと大きな意味があるのだろう。だから――小さく「サンクス」と呟いて、雪は心の手を取る。軽い力で床から立ち上がり、ニッと力強く笑って見せた。
「じゃあ、始めるぜ?」
「ええ、大丈夫よ」
「――と、その前に」
「……どうしたの?」
気合を入れた瞬間に、気の抜けてしまう雪の声に肩透かしをくらい心は嘆息する。忙しなく動くのは彼の癖だろうか…。そんな風に思いながら、雪の行動を見守る。
「悪いな」
悪びれる様子もなく軽く笑うと、彼は予想外の名前を口にする――戒人――と。その声に息を飲む。辺りに巣くう闇が濃くなり、ソレは雪の足元の影より生まれ出る。闇よりも尚色濃く、その瞳は燃ゆる紅月にも似て、肌は常任よりも薄く「紫微色」に見えた。初めて間近に見る“死神”の姿に心と、その後ろで未だその手に石を抱く少女は緊張した面持ちで無意識に後ずさる。その姿を見て恐怖を感じないわけがない。
「戒人、塁を安全な処に匿って欲しい」
『――』
「…出来るか?」
『――』
言葉は聞こえない。
正確には“音”としての声は発されていないと言った方が明らかだ。それでも雪は彼と会話らしいやりとりをしている。もっとも傍目には雪の独り言にしか聞こえないが…。
表情は黒い布に覆われて分からないが、頷くでもなく“戒人”と呼ばれる死神はフッと跡形もなく姿を消すと、同時に床に転がっていた塁の身体も霧のように掻き消えていた。
「これ以上塁に影響が及ぶのは困るからな」
「影響?」
「…何かの拍子に覚醒してまた自分を見失えば、今度こそ“塁”は塁じゃいられなくなる」
「……そう」
最後に消えそうな声で「そんな気がするだけだけどな」と付け足した彼の表情はどことなく辛そうで、心はそれ以上何も言えなくなる。俯いた顔に銀色の髪が静かに落ちて、華奢な身体が更に小さく見えた。
「さて、それじゃ始めるか」
「……ええ」
「福山悠里さん。こっちへおいで」
優しく手招く先には普通の女子高生に見える少女の姿がある。あの日、初めてこの部屋で会った時の印象とは酷く異なって見えた。彼女はこんなに普通の少女だったろうか。
――何か、イメージ違うんだよな…。
部屋の中央に彼女を誘導して、両脇に雪と心が立つ。
元よりこの部屋は依頼主を迎え導くための場所の一つ。管理官が二人以上その場に居るならば、他に必要なモノは限られている。
当の本人と鍵、そして…。
「……」
「心、まずは彼女が持つ石から送るぞ」
「――っ!? 持ち主の見当はついてるの?」
「――ああ」
福山悠里の心残りは分かっていた。
イチと地上を探索した結果、その心残りとなる人物の居場所も特定できた。ならばどこに迷う必要がある。この魂もまた迷い子であり、失われてしまった生命ではない。だから、彼を身体へと戻せばいい――。
――本当は躊躇ってる。
福山悠里となり過ごした日々が、彼女の記憶の断片が雪の判断を揺らがせる。本当に何もせずに二人を元の居場所に戻しても良いのか。お互いの本心を出さずに、後悔を、不安を、恐怖を、抱かせたまま現世に送り返して良いのか――。その答えが見つからない。
徐に溜息が一つ零れた。
頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、もう一度諦めにも似た溜息を零す。彼らしくもない行動に心は瞠目し、そして呆れたように呟く。
「雪君は、思う事をしたらいいのよ――」
「……?」
「どうせ考えたって上手くいかないのなら…やりたいように動くべきだわ」
「…相原」
「別に誰にも正解なんて見えていないのだから」
彼女の言葉が自然と胸に入り込む。
後悔をしたくないのは雪だって同じだ。後悔をさせるつもりもない。だから――。
――だったら…したいことをする。
「福山悠里さん。貴方は何を望みますか?」
「――?」
「どうしてここに来たのか、誰を探していたのか、探してどうしたかったのか…」
「…雪さん」
「貴方の言葉で聞かせて下さい」
雪の言葉に少女は立ち尽くし俯く。長い髪が彼女の顔に影を差し、震える身体を抑えるように彼女は自分の腕を強く掴んだ。小刻みに揺れる口唇が、きつく閉じられた瞼が何を語るのか二人はただ黙って見つめる。そして――。
「――始まりは母の死でした」
力なくその場に座り込み少女はどこか哀しそうな虚ろな目で、掌に今も握る淡く光る石を両手の上に乗せて俯く。その瞳に映る色は酷く優しくて、酷く涙の色に似ていた。
「私の母は元気な人だったんです。病気知らずで、いつでもあっけらかんと笑うようなとても温かくて大きな存在。それは父にとっても同じことで、母がいて、父がいて、三人で暮らしてきた十何年間が本当に幸せでした」
「……」
相槌を打つでもなく、二人は真っ直ぐに少女を見つめ話に耳を傾ける。心は先程と同じように壁を背に凭れかかり、雪は床に胡坐をかいて座っていたが、少女は気にする風でもなくぽつりぽつり思い出すかのように話しを続けた。
「母が亡くなったのは半年前――。交通事故でした。」
突然の訃報に悠里は成す術もなく泣き崩れ、父親はその亡骸を見るまでは信じようとしなかったという。事故の原因はトラック運転手による飲酒運転。平日の静かな朝の出来事だった。
「母は子供が好きで、私が小学校を卒業してからも地域の交通安全の誘導とかを続けていた人なんです。だから…あの日も…」
言葉が涙で滲む。
抑えてきた感情が堰を切って流れ出ては、悠里の頬を止めどなく濡らして行く。その言葉の続きを想像する事は容易で、雪は小さく息を漏らしてからまるで昔話でも語るかのような口調で彼女の言葉の続きを並べた。
「突然飛び込んできたトラックから幼い児童を守ろうとした――か」
「……」
「彼女は即死だっただろう?」
「――っ。 はい」
覚えが無い訳じゃない。
半年前かどうかは定かじゃないが、確かにそんな亡くなり方をして導かれた人間の魂が居た事は耳に入っていた。もっとも彼女は迷った訳ではない。あくまで不慮の事故として片づけられてしまう――そんな対象だった。
――彼女が何処に召されたかなんて、俺は知らない。
迷い子ならば「管理事務所」に送られ、当然ながら管理官である自分たちが、その行く末を見定め導く。福山悠里はまさにその通りだし、管理事務所を訪れる事のなかった悠里の母親は”迷い子”ではなかった。だから逢うことなどない。
それでも、彼女の人柄や生き方は決して悪いモノではないし、死に方を見れば最悪の事態には陥っていない事が分かる。彼女は、痛みや不安のない世界へと召されたであろう。
「それで?」
「――雪さんには、もうお分かりなんですよね?」
「なんとなく――な」
「それでも私に話せと言うんですね」
「――ああ」
酷なことは自分でも分かっている。
それでも彼女がどうしたかったのか、どうしたいのかを知りたかった。彼女として動いた数日間では分からなかった”福山悠里”の本当の望みを知りたかった。
悠里の口から溜息が一つ零れる。
「父は…福山 渉は、娘である私を穢しました」
「――っ」
予想外の言葉に息を飲んだのは心。
突然の告白に戸惑うように雪へと視線を彷徨わせ、そして微塵も動じていない雪を見つけると何事もなかったように自身も息を吐く。驚かない訳がない。初めて聞かされる衝撃の事実に対し、心の様子は普通だと言えよう。雪自身も“福山悠里”にならなければ解らなかった事だ。
「あの日、母の死が哀しくて、寂しくて、父の眠る寝室を尋ねた私がいけなかったんです」
「……」
一人で眠ることはおろか、一人で居る事が耐えられなくて悠里は父親の部屋を尋ねた。薄暗い部屋の中、同じように他人の温もりを求めていた者同士が自然に寄り添い安らぎを求める事の何処に“罪”があるのか…。大切な者を失くした者同士だからこそ、その行為は誰にも責められるものではないし、とても純粋なモノに思える。だが、しかし…。
「温もりを求めて触れた筈の父は……」
それ以上を告げる事が躊躇われて、少女は肩を小さく震わす。
許されるはずもない禁忌に抵抗すれば、痛いほどに抑えつけられ身体を貪られる。優しかったはずの父が、その瞬間知らない男性に見えた。全てが怖かった。
「ただ一度…一度きりの行為でした」
彼女が嘘を言っているようには思えない。
勿論、雪にはそれが真実である事は分かっていたし、それ以上を追及する気も毛頭ない。だからこそ、一つ気になる事があった。
「どうして学校に秘密が漏れた?」
「――っ」
「お前のクラスメートらしき男たちが、揶揄してきた。お前が話したのか?」
慌てて首を横に振る少女を、雪は真剣な眼差しで見つめる。
どうしても腑に落ちなかった。父親が自らの過ちを他に告げるとは思えないし、彼女にしてもそうだ。そんな軽はずみな事をするようなタイプには思えなかった。
「噂が…勝手に広がって行ったんです」
「…噂?」
「あの日からどこか私たち親子はよそよそしくなって」
「でも、そんなので勘繰れるとは思えないわ?」
「……それだけじゃないんです」
「…?」
「翌日、私の身体には複数の痕が残っていました」
「痕?……所有痕のことか?」
悪びれる様子もない雪の言葉に、心は半ば呆れて「雪君」と咎めるように名前を呼ぶ。それに気付き顔を上げれば、困ったように笑う少女と目が合った。
「知らなかったんです。初めてで、私、何も知らなかった」
十代の好奇心旺盛な少年少女の間には、すぐに憶測と噂が広がった。
“福山悠里はオヤジと出来ていて、それどころか他にも相手がいる”
“大人しそうな顔をして、実は援助交際をしているらしい…”
真実がどこに在るかなんて誰も気に留めずに、噂だけが面白可笑しく先走りして二人の関係を変えていく。耐えられなかった。
「ある朝目覚めるとソコに父の姿が無かったんです。会社に行ったのかとも思いましたが、胸騒ぎがして」
「……」
家中に父の姿を探し、父親の書斎に置かれた見慣れぬ封筒を見つけた時、胸が締め付けられるようだった。宛て名には――ごめん、悠里――と、書かれ中の手紙には謝罪の言葉と、そして悠里の幸せを願うとだけ記されていた。
こんな自分勝手な手紙はない――正直にそう思った。
「気が付いたら手紙を握りしめて泣いていました。父の言葉が哀しかったんじゃない。腹も立ちましたし…多分、何より置いて行かれた事が哀しかったんだと思います」
悠里の目は石を見つめ、自嘲するように笑って見せる。また、置いて行かれた――その事実が哀しかった。一人になってしまった恐怖と、不安と、父を許す事が出来なかった自分を悔いた。そして。
「泣き疲れて、気が付いたら知らない場所に居たんです」
自分がどうしてココにいるのか、何もない闇の中を、見渡す限り何もない世界を歩いていた。無意識に“父を探さなきゃ”と思う一方で、探してどうするのかという疑問も浮かぶ。怖かった。父親である前に、自分とは違う“男”という生き物が怖くて仕方なかった。
何も考えたくなくて、悠里は闇に身を委ねる。このまま消えてしまいたいとも願った。でも、生きたいとも願った。
「矛盾した願いが、空間を捻じ曲げ異形の存在と、閻魔庁を引きよせた…?」
「普通に考えて生身でこの場所に来るのは容易な事じゃないわ。危険すぎる」
雪のポツリ呟く言葉に、異を唱えるように心が口を挟む。
同意するように雪も頷いてそれから考え込む仕草をして黙りこんだ。霊体と違い、生身に及ぼされる影響は少なくない。そんなこと閻魔庁に属しているモノなら痛いほどよく分かっている。だから禁忌を侵す者も居ない。
だからこそ、あの異形の存在が閻魔庁のモノではないと断言できる。
――初めは“戒人”と同じような存在だと思っていた。でも、違う。
あれは“時間屋”と同じような、管理局とは相容れない存在。否、時間屋の方がその性質が分かっている分いくらかマシに思える。それほどまでに得体の知れない不気味な存在だった。
「……それで」
「??」
「キミはこれからどうしたい? 何を望む?」
「私……私は」
揺れる瞳に手の中の石を映しだし、少女は何かを決意したように真っ直ぐに前を見据える。雪と心。見守る二人から目を逸らす事もなく、少女はきゅっと引き結ばれた口唇を開いた。
「私は――父に逢いたい。 逢って、謝りたいんです」
「謝る――か」
「はい」
「どうして謝るんだ?」
真剣な口調に悠里は一つ呼吸を落としてから、もう一度手の中の石を見つめる。いつだって優しかった。その父の面影を消してしまうことは出来ない。怖かったのも、傷付いたのも本当で、過去は、罪は消せないのだとしても――それでも、もう一度。貴方と。
「私は父を許せませんでした。ううん。多分、許すとか、許されるじゃないんです。私にとって、今も父は大切な人で傍に居て欲しい人なんです」
その言葉に二人の胸は僅かに痛む。
揺るぎのないその意思は潔くもあり、同時に諸刃の剣にも思えた。それでも守りたいモノがある。だから――。
「分かった。その願い叶えよう――」
雪は僅かに口元を歪め、彼女へと手を伸ばした。