孤独の音《8-3》
カタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。
狭い事務所の中で雀は定位置に座り雪の話を元に情報を処理していく。一方の雪と狐は床に倒れたままになっていた少女を抱き起すと、魂を身体に戻そうと、その術を探していた。
「――で、地上では何が分かったんだ?」
「ん~? なんて言うか…」
「言いにくい事?」
「……っていうか、塁たちは?」
「まだ帰ってねぇよ」
「そっか…」
塁がこの場に居ない事に安堵する自分が居る。そのことにまた自己嫌悪を覚えるが、それでもイチの昔話が頭の中から離れなかった。
急に言葉を濁らせた雪に気がついて狐が聞き返す。それに曖昧に頷いて雪は戸惑う――と、不意に話を切り出した。
「なぁ、イチの言った事覚えてる?」
「イチ?」
「――うん。あの時、雀がイチに聞いたこと」
「……」
雀の沈黙に耐えかねるように、狐が“塁の事ね”と言葉を付け足す。雀も“あぁ”と思い出したかの様にワザとらしく相槌を打って見せた。
「多分、今回の件と塁の過去はどこか似てるんだと思う」
「似てる?」
呟くように、けれども真面目に話す雪の横顔に狐が訝し気に問う。その表情を窺うでもなく雪は小さく相槌を返す。本当は今回の依頼を受ける事になった時から、どこか彼の様子がおかしい事に気がついていた。いつもと違う表情、言葉、態度、そうしてまるで血を求めるように紅く染まった彼―塁―の瞳。あの瞳を見た時から胸の奥でざわざわとした何かが燻っていた。その正体を、今ようやく知る。
「塁は自分の過去と彼女を重ね合わせてるんじゃないかって…俺はそう思ったよ。彼女や、イチ達と一緒に居て」
「……」
「……」
「違ったのは、彼女が……福山悠里という少女が“憎しみ”を抱いていない事だけ」
雪の言葉に二人はぽつりと“憎しみ…?”と反芻する。その意味を汲むように何度か呟いて狐はそっと顔を上げた。
「それは逆にいえば“塁”が憎しみを抱いてると言うこと?」
「…」
狐の言葉に、ただ相槌を打つ。
彼女は自分の持つ“塁”のイメージと、雪のいう“憎しみ”と言う言葉が当てはまらずに首を傾げ眉根を寄せる。それほどに普段の“塁”は穏やかで、物腰の柔らかい雰囲気を醸し出していた。それでも、あれは“駆城瑠衣”の一部分にしか過ぎない。そう、雪は思った。
「塁が“瑠衣”だった頃のことを、二人は知らない」
またぽつり雪が呟く。
その声は微かな吐息に紛れ聞かれる事はなかった。
心の奥底にある自分ではないモノの記憶が、彼がまだ“瑠衣”であった頃の事を教えていく。瞼を閉じればそこに浮かび上がるのは、まだ髪の毛の短い幼い顔をした――瑠衣の姿。
ライは言った。
彼に課せられた禁忌は――憎しみ――だと。
瑠衣が“塁”になり、戒人と一つになった。
そして、それを見届けるようにライは眠った。
ライは―――彼には分かっていたはずだ。そして、きっと――瑠衣自身にも。
――この禁忌は、瑠衣にとって余りにも“紙一重”のモノ。
憎しみを持てない彼が、水先案内人である――戒人――の代わりとなり人間の生命を狩る。そこにはどれほどの思いがあるのだろう。優しい彼が、誰かを思いやるが故に誰かを傷つけ、そうしてまた自分自身を傷つける。その顔に優しげな微笑みを張り付けて、彼は自分自身をも騙そうとしたのかもしれない。
決して“憎しみ”に囚われないように。染まらないように。
「…お前は、どうしたかったんだよ。瑠衣」
不意に言葉が漏れる。その刹那――。
―――バンッ
「「「―――っ」」」
事務所の扉が勢いよく――壊されるんじゃないかと思うくらいの力で――開いた。
息を飲んで振り返る。その先には――。
「げっ、相原 心」
「――っ?」
あからさまに嫌な顔をした雀の視線の先を追うように雪も振り返り、瞠目した。
涼しげな鈴の音を纏い靡く髪飾りが特徴的で、顔の輪郭をなぞる様に切り揃えられた明るい茶色の髪がストレートに揺れる。どちらかと言うと勝気な瞳と、そのサバサバとした性格が印象に残る。
“相原 心”――それが雪の知る人物ならば…。
「相原…?」
「久しぶりね、雪くん」
「「―――くんっ??」」
少し荒い息を落ちつけるように、一つ息を飲んで彼女が口を開く。
迷うことなく告げられた“雪くん”という言葉に驚いたのは、雀と狐の二人だった。雪自身には驚きの色が見られない。“塁”とは違い、殆どの中間管理官は記憶管理官との接触を絶ってきた。それは公私混同を嫌う彼ららしい行動で、それを疑問に思うモノもいない。誰もが当たり前だと思っている。でも――。
――例外はいる。
先にも言ったように“塁”がその一人だ。
彼はもとより“記憶管理事務所”に属していた事もあり、今でも気兼ねなく――それこそお茶をするくらいな気持ちで――管理局に顔を出す。それを誰も咎めたりしないし、自然なことだと思っている。彼ほどではないが、雪にとっての彼女も数いる“中間管理官”の中では接しやすく“顔馴染み”くらいの関係だ。
「お前、なんでココにいんの?」
「あらっ、聞いてない? 私、記憶管理官になったの」
「――は?」
「あなたと同じよ。空間移動管理官――」
「――っ??」
心の言葉に思わず絶句する。
受け入れがたい事実に福山悠里を支えていた手を離すと、慌てたように狐が手を添え支え直す。そんな二人の光景を上から見下ろしていた心が後ろ手にドアを閉めるとキョロキョロと辺りを見回してから鍵をかけた。
明らかに何かに怯えている彼女の様子に、二人は訝し気に顔を見合わせる。そして、その掌に何かを隠している事に気が付いた。
「お前…何を持ってる?」
雪の眼の色が変わる。
握っていても分かる物体の気配に、一瞬にして事務所内の空気が張り詰める。一つ溜息が零れた。
ゆっくりと瞼を閉じ、心が手を前に出す。その指を開いた。そこには――。
「―――っ」
「……それは」
淡く光りを放つ球体が呼応する。
まるで鼓動を打つように、弱く小さな音を光に変えて――。
「これが、何か分かる?」
「……それが探し物か?」
「そうよ」
「…多分、彼女の――福山悠里の父親だろう」
心の手を覗きこむように雪が身体を起こす。
そっと彼女の手に自分の手を重ねた。その刹那――。
「――っ」
強烈にフラッシュバックされる記憶の映像に、思わず息を飲む。
浮かび上がるのは悲鳴と、涙と、そして―――。
胸がドクンと一つ鼓動を打って、それから勝手に身体が震えだす。感情の波が雪の心を襲い、黒い狂気にも似た感情と、悲しみと恐怖の感情が入り混じる。これは“二人”が持つ記憶の欠片。
「――雪くんっ?」
「――っ」
「大丈夫? 雪」
目の前に心配そうに覗きこむ狐と、心の顔がある。空いていた方の手を狐がそっと握り、そこで初めて自分の手が震えている事に気がつく。妙に心臓の音が煩くて二人の声がよく聞こえない。繋がれた手から伝わる温もりだけが雪を現実に留まらせていた。
「雪?」
「…悪い。大丈夫」
「…いきなり意識を飛ばすから、どうしたのかと思ったわ」
「ああ、もう平気」
「――この石の記憶が見えたの?」
狐の鋭い質問に、雪は小さく頷いて見せる。
二つの魂と、二つの身体――彷徨ったのはどちらが先か。それとももしかしたら同時に失われたのかも知れない。いや、違う。
――まだ、二つとも完全に失われた訳じゃない。
希望は残されている。
今ならまだやり直す事が出来るだろうから。二つの彷徨える魂は通じ合えているから…。
「相原。お前はどうしてココにこいつを連れてきた?」
「――それが天の思し召しだからよ」
雪の問いに彼女は何処か遠くを見つめる。掻き上げた髪に揺られ花の髪飾りが鈴の音を立て、その音に誘われるように心の掌に載った石が淡く瞬く。救いを求めるかのように。
「では、お前にとっての天とはなんだ?」
「――すべて…」
迷いもなく即答する心の瞳はどこまでも澄んで真っ直ぐだった。だから。
一つ溜息を落として、雪は彼女と未だ眠り続ける“福山 悠里”を交互に見る。
「ならば、お前の成すべきことをしろ」
「雪っ!?」
「大丈夫だろ。こいつも無鉄砲にただ突っ走ってる訳じゃない」
「それは、そうだけど」
「どうして管理局に? とか、聞きたい事は山ほどあるけど今はそれどころじゃないしな」
「…」
未だ納得のいかない様子の狐を後目に雪は勝手に話を終わらすと、もう一度眠ったままの“福山悠里”を見る。どうして彼女は目覚めないのか――色々な可能性を考える。もしかしたら彼女自身の生きる力が残り少ないのかも知れない。
それは雪を自身の身体に引き入れた代償。今更後悔したところで、どうすることも出来ない。後戻りはできない。
――だとしたら…。
彼女の命の代りになる力を与えれば良い。減少した力に新たな力を注いで補えば、彼女はきっと目覚めるはずだ。
――そういえば…。
不意に何かの違和感を覚える。事務所に入って来た時の心の様子が気にかかった。
ただ慌てていたと言う訳ではない。彼女には慌てるだけの理由がないし、何より“何か”に怯えているような――畏怖の眼をしていた。あの眼が気にかかる。
「相原――お前」
「何?」
「何かから逃げてきたのか…?」
「――っ」
その言葉に心の背筋が一瞬で凍りつく。思い出したくないモノの存在がリアルに浮かび上がって、その恐怖に身体が震えた。
アレは本当に“塁”だったのだろうか…。
「どうして――?」
「お前の慌てようと、入って来た時の一瞬の眼だよ」
「……そう」
何かを考える仕草をして、心が一つ溜息を吐く。自分に折り合いをつけるように閉じていた瞳を開けると、青ざめた顔で俯いた。また一つ言葉の代りに溜息を漏らして、そうしてようやく口唇を開く。
「――塁は…戻っていないわよね?」
「塁?」
「戻っていないわ……一緒だった筈じゃないの?」
思わぬ狐の発言に雪は瞠目する。
――誰と誰が一緒に行動していたって??
予想外の人選に思考が停止する。
“塁”という言葉に「そういえば姿を見ないな…」とか、他人事のように思っていた自分が腹立たしい。眼を離してはいけなかったのに――。
「塁が、何だって…?」
「……」
まるで風の様に音もなく立ち上がると、一瞬の後に距離を詰めて俯く彼女の腕を乱暴に掴む。突然の雪の行動に驚いて顔を上げれば、真っ直ぐな彼の瞳が目の前にあった。息もかかるくらい近くに…。
「相原、何があった?」
「――雪くん」
不安と動揺に揺れる瞳を覗きこんで、言葉を促すように頷いて見せる。大丈夫。そう思わせる何かが彼の瞳の中に映り、心も同じように頷いた。動揺している場合じゃない。自分がしっかりとしなければ、ここで“管理官”として生きれない。あの人にも、顔向けが出来ない――。
――しっかりしろ、私。
「塁は……いえ、中間人・塁は“記憶の海”内で手掛かりの捜索中に、負の感情に呑まれ自分を見失いました」
「――っ」
「暴走する彼と時間屋と呼ばれる二人組が交戦し、私は時間屋によって一人この場所へと直接送り届けられたの」
一人逃げてきた。
その事実が重く心の小さな両の肩に積もる。どんな状況にあったにせよ、ソレは管理官として褒められる行為ではなく、また“時間屋”に助けられたという事が悔しかった。こんな事も自力で乗り切れないのかと――自分自身に腹が立つ。
求めていたのは誰にも侵されない“強さ”なのに――。
「じゃあ、塁は未だに記憶の海に?」
「いえ。多分、もういないわ」
「……だろうな。塁が何かを標的にして自分自身を見失ったのなら」
「何かって?」
「おそらく、相原の持つその魂だろ」
雪の思いがけない言葉に、二人は驚いて彼を振り返る。
思案顔で考えを廻らせる彼の瞳は真剣で、それ以上に緊迫した色を宿す。そこに何があると言うのだろうか…。
「――おいっ」
「うわっ」
不意にさっきまで誰もいなかった背後から肩を叩かれ、その声にギョッとする。聞きなれた声に振り向けば、そこには離れた場所でコンピュータ―と向き合っていた筈の雀の姿があった。
「――雀っ!」
「塁の居場所が特定できた。すぐに行かなきゃ逃げられるかも知れないが、今なら間に合う」
「――っ」
「――ん?」
言外に“どうする?”と言う表情を含ませて、どこかしたり顔で笑う雀が憎たらしい。興味も無さそうにコンピューターを弄っているかと思いきや、どうやらこちらの話をしっかりと聞いていたようだ。その上、この刹那の時間に塁を探しだすとは“情報探索管理官”の名は伊達じゃないらしい。
「サンクス―――――行くぞっ、相原」
「――っ」
「逃げたくないんだろ?」
強い眼差しが、その声が、心の中に巣くっていた不安や恐怖や、そして逃げて来たことへの“罪悪感”を溶かして行く。差し伸べられた雪の手を取ると心はしっかりと頷いた――。