孤独の音《7-4》
薄暗い空間をただ歩いていた。
前も後ろも、今来たのがどの方向からだったのかも分からなくなるような――存在を感じられない場所。音も光も風も熱も、肌に感じるものは何一つとしてない。ここには“虚無”だけがある。
――ココは、どこだ…?
出口も目的の場所もなく、雪はただ成す術もなく歩みを進める。何の存在も、違和も感じないこの場所では埒もあかなくて、少しの苛立ちを覚え不意に髪を掻き上げた。その時。掻きあげた髪の軽さに覚えがある。まさかと思い自分の頭に手を伸ばせば、そこには見慣れた――銀色の――髪の毛が無造作に跳ねていた。どうやら“神谷 雪”に戻ったらしい…。
薄暗くて気がつかなかったが、見れば格好までもあの日のままだ。鍵もこの胸に在る。
――さて、どうしたもんか。
ここは管理局ではない。
多分、記憶の海の中でもない。閻魔庁には数度しか足を踏み入れたことはないが、こんな場所が在るなどとは聞いた事もない。勿論、現代でもないだろう…。
ならば、ココはどこなのか。
その答えは――きっと、彼女が知っている。そう思った。
「いるんだろ!? ――福山 悠里」
壁など在る筈もないのに、何処かで声が反射してあたりに響く。その声に答える人はいなくて、残るのは静寂と、雪自身の声。もう一度、どちらとも知れぬ方向を向いたまま彼は叫んだ。
「出てこい!!!」
空間がぐにゃりと音を立てるようにねじ曲がり、微かに影が揺らめく。その隙を彼が見逃すはずもない――。
低く唸るような声で、もう一度闇の中に問いかけた。
「お前は何だ?」
その声は曇りなく真っ直ぐに一条の光のように暗闇に射す。
「初めは消えそうな程に儚く見えた。でも、違う。お前はこんなにも強くて、俺の中にいても決して溶けだす事もせずに痛みを、悲しみを訴え続けていた。お前の記憶は消えていない。それどころか、今もその心にある傷口は癒える事も知らずに、血を流し続けている。どうして――」
不意に息を飲む。
俯けていた視線の先に、白く浮かび上がる人影。闇に浮かび上がる細き少女の身体は、黒い手により守られている。少女に抵抗の意思はない。それどころか身を任せ、どこか哀しそうに微笑んでいた。言葉は、声は聞こえない――。
―――彼女を、お返しします…―――
闇が、そう告げる。
ふわり、そう、風なんてここに在る筈もないのに、それでも彼女の長い髪をふわりと揺らし影はまた闇へと溶けだす。後には淡く光る少女の姿だけが残った。
「ようやく……見つけた」
「……」
「これで、“君たち”を救える――」
「――っ」
そっと差し出された雪の手に、少女が息を飲むのが気配で分かった。それでも雪は躊躇うことなく少女に微笑み、その手を差し出す。まるで当たり前のことのように…。
「行こう―――」
「…でも」
「大丈夫」
いまだ決心がつかず彷徨う少女の右手を、ぶっきらぼうに掴む。戸惑う彼女を抱きしめて優しく二度背中を叩いた。
「君の“大切な人”を助けに行こう」
「――っ」
「福山 悠里さん」
「――はい」
言葉に力が宿る。
名前が、彼女を作りだす。
闇が緩やかに溶けだし、辺りがまるで朝やけのように薄紫色へと変わる。あの日見た部屋の景色と、二人が重なる。その指と指を絡ませ福山悠里は一つの球体へと姿を変えた。綺麗な紫色の霊魂だった。
「大丈夫―――その傷を癒す事が出来る人が、キミを待っているよ。キミは一人じゃない。キミが心を閉ざさなければ――その存在は、いつだってキミを見守っている」
もう聞こえるはずの無い言葉をポツリ、ポツリと零す。
彼女の悲しみを知っている。辛さも、孤独も、望む事も――。
それは雪が福山悠里だったから、知り得たこと。あの短い時間でも、彼女は言葉よりも雄弁に物語っていた。傷付いた心と同時に、それでも尚心配して止まない“大切な人”-―。彼を信じたい。助けて欲しい。もう、これ以上――。
痛いほどに伝わる気持ちに雪は眉を顰めた。
思い浮かぶのは、一人の人物―――いつだって笑顔で、嘘が上手くて、誰よりも自分自身を憎んでいた――塁のこと。
イチから聞きだした彼の過去。
その痛みに想いを馳せる。分かっている。
塁はきっと、過去を知られる事を良しとはしない。それでも、あの日彼が浮かべた曖昧な表情の意味を、ようやく理解できた。あの首にある痕の事も――。
きっとイチにだって真実なんて分からない。全ては、彼が“駆城瑠衣”であった時分の出来事で、真実を知るのは塁自身だけだ。そこにあるのは憶測と、そして後に残された言葉と、証のみ…。
―――塁、お前を救けたいよ。
今、切実にそう望む自分がいる。
せめてこの手に掴めるものだけは―――。
空いた手をギュッと強く握る。その時は近づいていた。