孤独の音《7‐3》
暗い森を進むと、少しだけ開けた場所に出る。辺りには耳障りな声が響き、まるで小さな羽虫がチカチカと飛び回っているような錯覚が映る。
この場所は“記憶の海”の中でもかなりの危険度を持つ領域。負の感情が集まり、彼らでさえも余り近寄りたくない場所なのだとスギが言っていた。昇華できない思いを無理矢理に抑え込んではいるモノの、近づくだけで背筋に冷たいモノが走り、鳥肌が立つ。横目で彼女の様子を窺えば、それらに取り込まれないように意識を保つだけで精一杯という表情で食い入るように一点を見つめていた。
――不安…だよね
この場所に何があるのか、それは時間屋の二人が教えてくれた。
正直な処、彼らの言葉を信用している訳じゃない。半信半疑なままココに来て、目的のモノ――いや、人間と言った方が良いのかもしれない――を見つける為に眼を凝らす。辺りを見回して、轟く負の波の隙間を二人離れずに進んだ。逸れてしまえばお互いに何が起こるか分からない。少し前を行く彼女が、時折確認するかのように振り向くから、塁も安心させる為に微笑みを返した。そして――。
「…居たわ」
「…本当に?」
「ええ…多分、彼だわ」
「……」
心の視線を追って塁も真っ直ぐに眼を凝らせば、重苦しい空気の中微かに淡く光るモノがある。微動だにしないその光に向かって、彼女は躊躇いもせずに手を伸ばした――。
「来なさい――あなたの還るべき場所に連れていってあげる」
声は戻らない。今にも消えそうな灯が、人としての容を保てずに微かに揺れている。畏怖の感情はない。怒り、悲しみ、そう言うモノよりも“後悔”という感情が強く感じられる存在だった。
「そこにいれば、いずれあなたの“存在”は失われる。それでもいいの?」
一歩踏み出す彼女の背を見つめ、ただ黙って心の言葉を聞いていた。
彼女は臆する事もなく、正体不明のモノに向かって更に手を差し出し、その瞳は真剣そのものだった。意思の強い眼差しが、その言葉が次第に負の塊の存在を容に変えていく。
――言葉が“カタチ”を生み、その真っ直ぐな強さが消えかけたモノに“光”を与える。
自分にはない強さが眩しい。
塁は彼女の小さな背中を直視できずに俯く。こんなにも眩しくて、こんなにも綺麗な存在を汚す事が誰に出来るのだろうか。
光がゆっくりと人間の容になり、心の手に触れる。その瞬間弾けるような音と共に光は風を生み、彼女の髪の花を揺らした。不意に“リィン―”と鈴の音が響く。
――ス……ナ…イ。
微かな声はまるで鈴の音に溶けるように消える。そうして心の手の中に収まり、それは小さな石のようにコロンと丸くなった。
「貴方に逢いたいと願う人の処に連れて行ってあげる…」
「……」
何処か慈愛を含んだ彼女の瞳が、言葉が塁の中に降り積もる。割り切れない感情を持て余して、けれどもそれを気付かれないように飲み込む。嘘を吐く事は簡単で、今更ソレに罪悪感など持ちようもなかった。だから――。
「ご苦労さま、心」
「…塁」
「これで、こちらの準備は整ったね」
「本当にこれでよかったの?」
「……」
思いがけない心からの質問に、ほんの一瞬塁の表情が強張る。少し不安そうな瞳を塁に向け彼女は口を閉ざす。言葉にせずとも塁の返答を待っているのは明白で、それが余計に塁の心をざわつかせていく。
――キミニ、ナニガ、ワカルノ?
黒い感情が首の辺りを這いずる。
忘れたはずの感情を呼び起こす空気が、塁の存在を黒く変えていく。そこにあるのは怒り、悲しみ、憎しみ――そして自分への嫌悪。
「――っ」
「塁?」
「――来るなっ」
チリっとした痛みが首を刺し、全身を駆け回る。
その痛みに顔を顰め草の上に膝をつくと、駆け寄ろうとする彼女を手で制した。
目の前が紅く染まる。あの日見た光景が、決して眼に焼き付いて離れないあの日の自分の姿が浮かぶ――。
――そうか…僕は…もう。
口元を覆っていた掌の下、彼らしくもない嘲笑が刻まれる。その眼が、綺麗な紫紺の色をした塁の瞳が、半分だけ“紅”に染まる。周囲の負の感情を逆なでしていくような黒い色の感情が、紛れもなく“塁”から発されていく。心の背に冷たいモノが走った――。
「塁…あなた」
手の中に握った丸い石を決して離さぬように、その小さな両の手で包むと、危険から逃れるように距離をとる。こんな彼は見た事が無い。いつも笑顔で、丁寧で、そしてどこか頼りの無い“塁”という人物しか彼女は知らない。だから、直感的に感じた目の前の存在を畏怖と思うことに躊躇いもない。
出来るだけ音を立てずに木の影に滑り込むと、細い手首に巻かれた――自分には不釣り合いな――ごつごつとした腕時計に眼が行く。
――コレ……確か。
案内人から管理官に移る時に、最高責任者である要から手渡された――管理官が持つべきモノの一つ。
辺りがより一層暗くなり、風が強く木々を揺らす。離れていても感じる肌を刺す冷たさに、思わず鳥肌が立った。指が震える。外装の透明なカバーを取り除き、中にある電子版に触れる。操作の方法なんて教えて貰わなかった。正確には教えて貰うつもりがなかったのだ。自分は“一人”でもやっていけるのだと――。そう信じていた。
――何これっ…起動しない…。
横目で塁の様子を探りながら、早くなる鼓動を息を飲んで抑えた。一向に動こうとしない時計の電子版と同じくして、塁――だったはずの人物――も辺りを見回すだけで微動だにしない。それでも、その手には大振りの――闇夜の月を思わす――白刃をつけた鎌が握られていた。頭が警鐘を鳴らす。
彼の目的のモノが―――この石ころなのだと。
――どうすればいいっ。落ち着け、私。大丈夫…でも。
辺りを見回せば、右も左も、前も後ろも、ただそこには暗く不気味な木々が聳えるばかり…。初めて来た場所では目印を探す事も叶わなくて心はただキョロキョロと辺りに視線を巡らす。
――一つ、二つ、三つ…。
焦る鼓動を戻すように、数を数えては何か手掛かりがないかと石ころを見る。その刹那――。
リィン…――消え入るように微かに響く鈴の音。咄嗟に自分の髪飾りを抑えるが、どうやら音の正体は現実ではなく心の“頭”の中に直接響いているようだ…。それがどういうことか考える前に身体が動く。
「――っ」
微かに物音を立てて立ち上がると、塁に背を向けて一目散に暗闇の中に駆けだす。背の高い草木に時折足を取られそうになりながらも、心は振り向くことなく走って行く。ガサガサと大きな葉が擦れる音と、自分の荒くなる呼吸の音だけが耳についた。
――ダメ……追いつかれる。
言い寄らぬ不安と恐怖が背に迫り、それが形となって心に襲いかかる。暗闇の中、微かに濃くなった自分の影が、長く弓なりの容をした鎌の影が伸びて重なる。一瞬のうちに、心は自分が失われることを覚悟した――。その時。
「伏せろ!!!」
「――っ」
大きな声と共に、咄嗟に地面に倒れ込んだ心の頭上に風が空を切る音が無気味に奔る。それと同時に訪れるはずの痛みはなく、不意に自分の身体が地面から数十センチの処で浮いている事に気がつく。風がクッションとなり、少女を衝撃から守った。
「大丈夫か?」
「――貴方達っ」
「下がれっ、馬鹿女!」
「――なっ」
「いいから――おいで」
不意に手を引かれ心は伏せていた地面から立ち上がると、男に導かれるままその場を離れ木陰へと身を顰める。見覚えのある二人――凌と、失礼な男・スギ――の存在に安堵して、心は不意に地面に座り込む。そうしている間にも見えない木の向こうでスギが塁と応戦している事が音で伝わる。びりびりとした肌を刺す感覚が立ち込める中、凌が辺りの様子を窺いながら心に向き直った。
「ここは食い止める」
「でも」
「いいから」
「……」
「君は、キミのするべきことをして」
「…」
「大丈夫。こういう事態には慣れてる」
「そう」
頭一つ以上も高い凌の顔を真っ直ぐに見つめる。
その瞳の中に恐れや揺らぎはない。ただ深い蒼の奥底には信念と、決意だけが見えた。心は一つ深呼吸をして「わかったわ」と微笑んで見せる。この場に不慣れな自分が居た処で、乗り切れるとは思えないし、何よりもこの石ころこそが“解決”の糸口であることは明白だった。だから――。
「悪いけど、私は行くわ」
「――それでいい」
初めてみる男の微かな微笑みに心は眼を瞠る。
ほんの一瞬、それも見逃してしまいそうなほど僅かに口角を上げた凌が、その手を伸ばす――そっと指先が心の頭に触れた。
「――なに?」
「葉だ――逃げ回る時についたんだろう」
「そう…ありがと」
「いや」
どちらもその行為を気に留める事もなく、凌の手から零れた葉は地面へと再び戻った。そして。
「お前を“管理局”へと直接届ける。ソレをもって、在るべき処へ――必要とするモノ達の処へ、往け」
「――っ」
眩しさに眼を開けている事が出来ない。
あれほど耳障りだった音たちは止み、そこに人やそれ以外のモノの気配を感じられなくなる。自分の存在が薄れていく。最後に聞いたのは―――“心”と自分の名を呼ぶ誰かの声だった――。