孤独の音《6-1》
彼は椅子に深く腰掛け、ただ何もない空を見つめていた。
その瞳に映るのは“闇”。何もない世界。音も光もない、温度さえ感じられない…そんな世界。そっと自分の手を見つめれば、そこには見慣れぬ小さな子供の手がある。片目を覆うのに精一杯という程の小さな掌は自分のモノではない。そんなこと分かっている。この身体は今もただあの時の約束を忘れずに、懸命に守ってくれている。だからこそ相反する二人の意識を混合させないように力加減を測って、優しい彼の魂を傷つけてしまわないように守り続ける。残された時間はそう長くない。その間何もせず大人しく終わりを待てるほど聞き分けの良い子供じゃなかった。
――お前が望む事を…。
今更、恐れるモノなど何もない。
従順なふりを続けるのにも飽いてきた処だ。だから…。
「行動を――」
静かに行動を起こさなければいけない。
それが自分の時間を削る事になるのだとしても。
後悔などするはずもない…。
彼はゆっくりと眼を閉じる。
眼を閉じてしまえば見えない事を知っているから。
望んでも手に入らない翼を、飛ぶことの叶わない空を見つめなくてすむから。
そうして、また彼は“闇”に落ちた――。
*
一方、森を抜けた二人は“中央制御室”へとやってきた。
全面ガラス張りのドームのような形をした不思議な建物。中にある装置を起動させることのできる人物は多くはない。限られた極僅かな人々にしか扱えない――それどころか、中央制御室に辿りつくことさえ難しい。
ここには“資格”を持つものしか辿りつけない。
「…ここ?」
「うん。ここが“中央制御室”だよ」
彼女は初めて来たのだろうか。
物珍しそうに建物の表面に触れて、そこに映る自分の顔の更にその向こうを覗きこむように眼を凝らす。そうして中が見えない事を悟ると、今度は外周をゆっくりと歩きだした。
まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のようにキラキラと瞳を輝かせて、彼女は何とも楽しそうに微笑む。久しぶりに彼女の明るい表情を見れて塁も自然と口元を綻ばせた。
――興味津々…か。
一通り彼女の気が済むのを待つ為に塁は木陰に入り、腕を組むとそっと眼を閉じる。静かな風と微かに混じる負の感情が叫ぶ声。ここは“記憶の海”だから耳障りな声はいくつも風に混じる。それを否定するつもりはない。けれど肯定したり同意したりもしない。すれば引きずられることが分かっている。
――静かに朽ちていけばいいのに…。
音もなく、苦痛もなく、誰に知られるわけもなく朽ちればいい。
そうしてこの心には“痛み”さえ残さずに、誰の記憶にも残らずに、忘れられてしまえばいい。
――そんなこと、無理なのに。
闇を宿した銀色の髪を指先で弄ぶ。
その刹那――風が走り、彼女の悲鳴が聞こえた。
「心?」
「――」
「心? 心、どこっ!?」
姿は見えない。
慌てて周囲を見回すが鏡のように反射するガラス張りの建物には自分の顔だけが映る。その表面に触れながらいつになく焦った表情で外周を走った。そこには――。
「離しなさいよ」
「――」
「心っ!!」
小気味よく頬を叩く音が辺りに響く。
明るい茶色の髪と、髪飾りを揺らして“心”が誰かを拒絶する。それは塁にとって見慣れた二人組――薄青く無造作に跳ねた髪を持つ小柄な男と、物静かでどこか暗い雰囲気を持つ男――間違えるはずもない“時間屋”の凹凸コンビ。
「時間屋っ!?」
「塁!! なんなのよっ、この二人!?」
心の叫び声とは裏腹に、彼は表情を一つも変えずに冷たい眼差しを少女に向ける。その瞳は嫌悪と憎悪に満ちていた。掴んだままの右手を離す事なく視線を心から塁へと向ける。
その眼がギラリと怪しく光り、彼らしくもなく静かに語りかけてきた。
「おい…どういうことだ」
「―っ」
「どうしてここに“中間管理人”がいる?」
「…スギ」
怒りを含んだ声音に思わず立ち竦む。
いつもなら間に入る相方の凌も、眼を閉じたまま動こうとはしない。沈黙が恐ろしかった。
「僕たちはきちんと手順を踏んでここに来ている。スギ、その手を離してくれないか…」
「…手順?」
「要から任を受けている。それに“こころ”はもう中間人じゃない、管理局に属する人間だ」
「……管理局…属する」
自分に言い聞かせるように反芻して、それから彼は眼を見開いて茫然と塁を見つめた。掴んでいた手の力は緩み心の腕は自由になる。腕を解かれた彼女はすぐに男の傍を離れると間合いを取って塁の後ろへと駆け込んだ。
「塁…こいつら…何?」
「心…」
「いきなり現れて、急に私の手を掴んだのよ」
「そう」
興奮冷めやらぬ心をよそに塁は困ったように眼を細め助けを求めるように傍観者・凌へと向ける。その視線に気づいてか凌は不意に閉じていた眼を開けると徐に切れ長の眼を二人に向けた。
「俺たちはこの辺が騒がしいから、見回りに来た」
「そしたらこいつが居たんだ」
「…騒がしい?」
「俄にだが、海が騒がしい」
「原因は分かってないの?」
「分からないから、中央に来たんだろ」
スギのぶっきらぼうなモノ言いはよく知る人物と重なる。
塁は眉を顰め、心は訳が分からないとでも言いたそうな表情で腕を組み立つ。臨戦態勢のスギをなんとか宥めると、話の分かるであろう凌に向き直す。これは”管理官”としてではなく”中間人”としてのお願い。
「出来れば僕らを中に入れて貰えないだろうか」
「…中に?」
「これは”管理官”としてではなく、僕個人の”中間人”としてのお願いだよ」
「中間人として…ね」
塁の言葉の意図する処を読んでスギが可笑しそうに皮肉な笑みを刻む。モノ言いたげなその瞳は、より一層きつく光った。ごくりと唾を飲み込んで風が舞い上がるのを感じる。下から這い上がるように風が落ち葉を巻き上げふわり、ひらりとその葉がもう一度地面へと戻って行く…。
「とりあえず何が起こってるのか、聞かせて貰おうか…」
不敵に笑う彼の眼に、微かな灯が点っていた――。