孤独の音《5-3》
うんざりする暑さに思わず眉を顰めたくなる。
太陽の一番高くなる時間。地面からの照り返しも決して生易しいものじゃない。
黙々と前を行く小さな背中を追いかけJは少し足早に人混みをかき分けて行く。彼女の歩く速度が速いなんてあの頃にしてみればいつものことで、別段それに対して焦ったりすることもなかった。それなのに今は、そんな筈はないのに――見失えば、もう二度と逢えない気がして――無性に怖かった。
――ここに“雪”はいるのに。
目的地がどこなのこかも聞けず、ただ只管彼女の足取りを追う。時折ぶつかる人の群れに口先だけの謝罪を述べて――けれども眼を逸らすことは出来なかった。
「せっ――」
呼び止めようとしたその刹那、今更ながらに呼び名に困る。
依頼人である福山悠里の事を知る人物がこの地上にいる以上、彼女を呼ぶ名は一つしか存在しないのだろうか…それとも。
――“管理官”の規則には明るくないしな…。
きちんとした理を立てた方が良いのかも知れない。
少なくともただの人間である自分が、何の関わりもない普通の高校生が関与していい物なのかも分からない。ただ一つ言えることは“雪”の傍に居たい。それだけだった。
「あの――」
「――っ」
駆け足で追い付いて彼女の腕を掴む。
予想以上に細い腕に驚いて、けれどもその手を離したくはなくてJは不意にその手を引く。そして――。
「俺っ、あのっ、えと…」
「……」
「?」
「……」
「…雪…さん?」
ふわりと腕の中に転がる温もりに少し上気した頬、いつもの憎まれ口の一つでも返ってくると思っていた唇からは何も言葉はなくて代わりに気だるげな溜息が零れる。明らかに様子が変だ。身体は熱いのに、額には汗すら浮かんでいない。力のない身体はぐったりとしていて大人しくJの腕の中に収まっている。
「雪さん?!」
「……」
「ちょっ、大丈夫ですかっ?」
「……うるさい…」
閉じたままの瞳で彼女は呟くように吐息に似た声を漏らす。僅かに眉根が寄せられたかと思うと、今度は緩慢な動作で髪を掻き上げ身体を起こした。また溜息が零れる。
覚束ない足取りで日陰になりそうな路地に入りこむと、人目も気にせずにずるずるとその場に座り込んでしまう。その表情は見えない。
「雪さん?」
「……」
「…あの」
「うるさい…」
心配で心配で仕方がないのにそんなJの気持ちを彼女は簡単に跳ね除けてしまう。こんな時、同じ管理官のメンバーならばもっと上手く彼女を助ける事が出来るのだろうか…。
――そんなこと考えたって仕方ないのに…。
もしも…なんてそんなくだらない考えに耽っていた処で答えは出ない。
自分が“管理官”ならなんて、そんな夢物語のようなことを思っていたって前には進めないから…。
――今、傍にいる。それで充分じゃないか。
先の事を考えて立ち止まった処で何にもならないのなら、今傍に居られるこの瞬間を大事にしたい。そう心から思った。その時。
不意に足音と気配が近づく…それも一人では無い。連れだって歩く人なんて人通りのあるこの場所では珍しいことではないが首の辺りにチクリとした鈍い痛みが刺したような気がした。多分これは気のせいじゃない。
砂混じりの地面に延びる二つの影。
まるで自分たちと対峙するように立つその影を訝し気にJは振り返った。そして――。
「あんた、福山悠里だろ?」
「……?」
不躾にも程があるような上から目線の男が二人。体格的には自分とそう変わりない様に見えるが、今時珍しい黒い髪に決してチャラチャラとはしてない服装。どちらかというとあまり目立たないようなタイプの人間に見えた。一体何の用があるというのだろうか…。
蹲ったままの福山悠里は顔を上げる事もなく反応さえしない。それが余計に彼らのプライドを刺激したのか、隣に立つJのことなんて気にも留めずに徐にその手を彼女へと伸ばした。
「――っ」
「お高く止まってんなよ」
「誰でも良いんだろ?」
下卑た笑いの男たちは有無を言わさずに彼女を立ち上がらせる。それを制止しようと思わず手を伸ばすがその手は一瞬早く何者かに留められた――雪だ。
「いいから」
「でもっ」
「黙って見てろ」
「――っ」
長い髪の間から僅かに向けられた視線が、怪しい色を宿して光る。それだけでもう動く事さえできない。どうしてこの人はこんなにも強い眼差しをしているのだろう。
「学校に来なくなったかと思えば――もう違う男かよ」
「ホント、あんたも懲りないね」
「……」
雪――福山悠里――よりも頭一つ分以上は高いだろう男たちは彼女を囲って何やらにやにやとお互いに視線を交じ合わせる。まるで値踏みでもするかのような男たちの視線は不意に彼女の胸元へと落とされた。そんな男たちの様子を知ってか知らずか、それでも彼女は一向に動こうとしない。それどころか胸に架かる髪の毛を男の手で掻き上げられても不満の声一つ漏らさずに大人しくしている。絶対に変だ。
――普段の雪さんなら、こんな奴ら殴り飛ばしてる。
いくら身体が違うと言えども、中身は“雪”だ。それならば高い確率で彼女の拳か足が飛んできても良い筈なのに…。
「福山さ~ん?」
「何黙ってんの? オヤジとは寝れる癖に、俺らの相手は出来ないってか」
イライラするような男たちの笑い声にJは拳を強く握る。分かっている。
黙っている事に何か彼女なりの意図があることなんて分かり切っているのに、それでも“男”として――そして“彼女”を好きな一人の人間として我慢の限界を迎えようとしていた。
――何で…こんな奴ら。
「聞いてますか~?」
「――っ!?」
男の手がその二つの膨らみへと延びる。その刹那――。
「何をしている」
「――っ!?」
「なっ、何だよ…お前」
スッと後ろから延びた手に男の手首は阻まれ、むしろ痛いほどに締めあげられる。突然の出来事に驚いて顔を上げれば、そこには別行動をとっていた彼――イチ――の姿があった。男たちよりも頭半分ほど高い背に冷たい瞳を嘲るかのように細めた彼は年齢に関係なく“怖い”と思わせるには十分な迫力がある。なんて言うか…彼らの様な目立たない男たちには到底敵わないと思わせられるだけの何かが、イチにはあるのだ…。
「邪魔だ。どけ」
「――なっ」
一言。
本当に何の感情も宿っていないような言葉で男たちを一蹴すると、彼は徐に雪の腕を掴み上を向かせる。そして彼女の表情を見た瞬間、持っていたキャップ帽を言葉もなく被せた。
「熱中症だ――馬鹿」
「熱中…症?」
「慣れないか? 言っておくが、いつもと同じだと思って行動していると痛い目を見るぞ」
「……でも」
「“でも”じゃない。 自分の身体くらい例え仮初の身体だとしても責任を持て」
「……」
ふらふらと覚束ない足をイチに支えられながら歩く。Jはただ見ていることしか出来なかった。