孤独の音《5-1》
外の熱気を打ち消すように冷房の効いた店内で彼女はいつものように片膝を立てる。およそその外見にそぐわない態度に、通り過ぎる人々は訝し気に振り返っては眉を顰めた。長い髪に細く華奢な肩、長い睫毛には影が落ちるのにその瞳は偉く勝気でそして攻撃的に見える。中に“存在す”る人物が違うと言うだけで、人はこんなにも変わるものだろうか…。
「雪さん…足…」
「――ん?」
余程喉が渇いていたのか、ジュースのストローを加えたまま上目づかいでこちらを見る彼女は――正直に可愛いと思えた。
普段の表情よりも少し幼い姿に、彼は息を飲む。
――これは反則だろっ。
いくら姿かたちが違うと言えど、中身はやはり彼であり彼女だ。男らしく頼れる部分と、無鉄砲で危なっかしい部分を併せ持つ処は変わらないし、やっぱり守りたいと思ってしまう。いつだって情けない処しか見せていないし、守るより守られることの方が多いとも思う。それでも――。
「――いっ、J?」
「はいっ!?」
突然の呼び掛けに思わず素っ頓狂な声を上げる。
本来ならば消されていたはずの記憶と、懐かしい呼び名にJは瞠目した。その名を平然と呼んでくれた事が嬉しい。
彼女は椅子に上げていた足を戻し、少し絡めて見せる。組んだ腕をテーブルの上に乗せて身を乗り出すと、その瞳は真っ直ぐにJを見つめ細められた。何を訝しがっているのだろうか。
「何でしょう、雪さん」
殊更優しく問いかけて見せる。
だが、その声にも彼女は半信半疑の瞳を向けた。そして――溜息を一つ。
「お前、何で覚えてんだよ」
「えっ?」
「普通、忘れる筈なんだけど」
「…はぁ…」
なんて間抜けな言葉しか返せないのだろうか。
至極真剣な彼女に対し、J自身は聞かれても返せる答えも持ち合わせていないし、何より“記憶”が消されるなんて知らなかった。もっとも“消されていなければならない”記憶を現在まで持ち合わせていられたことは幸か不幸か彼女の元へと導いてくれた訳で、その事実には感謝したいとさえ思う。
――俺、やっぱり…。
自分の奥底にある想いに気がついたのはつい最近。
あの場所から、“記憶管理局”を立ち去ってから心はどこか埋まらず、まるでパズルのピースが二、三個抜け落ちてしまったかのように心に隙間が開いてしまったと感じていた。その本当の意味にも気づかずに…。
――そう、俺は確かに“忘れて”いたんだ。
はっきりとしないもやもやを胸に抱えて、視界に霞がかかったような世界を生きていた。それは別段可もなく不可もなく、当たり前だと言われればそれを否定する理由もないような曖昧な日常。行き交う人々、流れる時間、退屈を紛らわせるために集まり、笑い合う友達。吹く風に渇きを覚えて空を見上げれば、時折聞こえる――懐かしい“声”。
――声が聞こえた…だから。
「気が付いたら、ただ“雪”さんを探していました」
告白にも似たストレートな言葉と共に、Jは真摯な瞳を雪へと向ける。まるでその瞳から逃れるように、彼らしくもなく顔を背けると不意に雪は溜息を一つ零す。
「……俺のせいなのか」
ポツリ、聞こえないように呟いた言葉には後悔と苦渋が滲んでいるように見える。眼の前に対峙していればこそ分かる雪の心の変化に、同じような表情を思い出す。そう、“記憶の海”で見たあの日と同じ表情だ――。
負の感情に取りつかれ、心を、記憶を呼び起されていた――あの時。
――雪さん…どうしてそんな顔…。
いつもサバサバとしている彼からは想像も出来ない暗く思いつめた様な表情にJの胸は締め付けられる。何がそうさせているのかなんて分からなくても、不意に抱きしめてしまいたくなる…。
「雪さ」
「――――しっ」
声をかけようとして、その口元に一本白く細い指が戸のように立てられる。先程まで空を見つめていた瞳は知らずJの背中よりも遠く、窓側に向いたカウンター席を見つめ微かに細められた。まるで獲物を狙うかのように光る瞳には一寸の迷いもない。だから…。
「雪さん…」
「動くなよ。じっとしてろ」
「…はい」
小声でのやり取りを続けながら瞬時に雪の行動を理解する。
振り返る事は出来ないが、どことなく感じる冷やかな視線と嘲笑のような下卑た声が微かに耳に届く。多分、年頃はそう変わらない――“男子高校生”だろうか。
見れない相手を知る為に全神経を総動員してJはその会話に意識を向ける。太く低い声はぼそぼそと小声で何かを話す。内容は――こうだ。
――…二組の…だろ。
――そうそう……確か……してたって。
―――マジ、それ。
席が離れている為か、これ以上の内容は聞き取れない。それでも、これだけは分かる。
雪から教えて貰った今回の依頼主である彼女――福山悠里――は、Jに余り良い印象を与えてはくれないらしい。それどころかその見た目との相反さにうんざりさせられそうな気さえしてきた…。
――どんな子なんだよ。“福山悠里”って。
見ず知らずの彼女に思いを廻らせては見たものの、今現在の雪の福山悠里の印象が強すぎて想像に難くない。軽く頬杖をついてJの身体に隠れるように奥の様子を窺う様は、傍から見れば仲の良い恋人同士にも見えるくらいの距離だった。微かにフローラル系の香りが鼻孔を擽る。
――なんか…妙な気分。
眼の前に居るのは“神谷 雪”じゃないのに“福山悠里”で、一度別れてしまった――もう会えなかったかも知れない――人ともう一度こうして傍にいる。触れあえる距離。名前を呼べば届く距離に彼女はいるんだ。
「おいっ」
「――っ?」
そんな事を一人考えていれば唐突に声をかけられる。眼の前の人物の鋭い視線にJは一瞬で我に返った。
「出るぞ、一旦」
「えっ」
そう言うなり席を立ちあがる雪の後をJは慌てて追いかける。その背にざわめきと、不穏な空気を感じながら…。