謎の老人・1
管理事務所の一室。あの色とりどりに彩られていた部屋の「茶色」の扉の部屋。
そこに雪と、Jはいる。目の前に腰掛けるは80を過ぎたであろう立派な白髪と髭の丸メガネの老人。
部屋の空気は張り詰め、誰も口を開こうとしない。何故こうなったのかと言えば、始まりはこうだ。
昨日の昼間。綾瀬 雀が急な仕事の依頼だと塁さんに話を持ちかけた。
その時、別の用事があった塁さんは代役に他の管理官の名を口にするが、手の空いている管理官はなく、その矛先は奥のデスクで考え事をしていた「雪」へと向けられる。ここまでは良かった。
だが、塁さんは何を思ったのか少し考えてからトンデモナイ事を言い出す。
『J、君も一緒に行ってほしい』
これだ。
「はあ?」
「俺ですか??」
勿論、俺と(この人に言われるのは腑に落ちないけど)綾瀬 雀は驚いて、その真意を問おうと塁さんに詰め寄った、が、
『行けば分かるよ』
と悪戯っぽく微笑んだ塁さんにそれ以上何も言えなくなってしまったのだ。
そして、今に至る・・・・。
先刻より黙り続ける二人。事前に雪さんからの指示は特になく、塁さんから「Jも同行するよ」と告げられた時も彼は驚き一つ見せなかった。
(雪さんって男前だよな。肝が据わってるというか・・・)
今も難しい顔をしたまま固まる「ご老人」と対峙し続けている・・・。そんなことを考えているとふと雪が動き出す。頭を二度ほど掻くと、急激に態度を悪くする。足を組み、頬杖をつき、溜息まで吐いてから手元の書類に目を落とす。
「雪さん?」
Jは老人の機嫌を損ねるのではないかと心配になり、キョロキョロと老人へ視線を向けながら小声で雪に問いかける。雪は億劫そうに「あん?」と返事を返してくるが、その態度を変えるつもりはないようだ。
「何してるんですか、そんな態度で」
「心配ないぜ」
「何言って・・・」
Jは雪の言っている事が理解できずに、雪を窘めようとするが次の瞬間「寝てるから」という彼の言葉と共に豪快な鼾が聞こえてきた。目の前のご老人から。
「ぐぉ~・・・んがっ」
Jはその鼾を聞いて落胆する。先程まで緊張していただけに、その分余計にどっと疲れが襲ってきた気がした。
「雪さん?」
「・・・」
今の気持ちを誰かに知って欲しくて、Jは隣で飄々としている雪へと同意を求めてみたが、やはりそこに返事はない。気にも留めないように書類を見つめ、自分のペースで動く。それが彼だ。
「・・はぁ~」
言葉に出るほどの溜息をつくと、ようやく「辛気臭えな~」と雪が反応をくれる。視線を書類からJへと移し「ほらっ」と持っていた書類をJに手渡す。
「これは?」
「情ー報ー」
「情報って・・」
端的な雪の言葉にも随分慣れた気はするが、出来る事ならもう少し説明が欲しいと思う。まあ塁さんのような親切かつ丁寧な説明を彼に期待するのは無理な話だと解っているが。
「いいから、見ろ」
「・・・はい」
渋々といった感じでJは書類へと目を通す。それを見て雪が説明を始める。
「『金子 高久』御歳89歳。男。三日前ご逝去されるも、その身柄・・・魂が中々閻魔庁に上がってこず、水先案内人に保護されることになる」
Jは書類に書かれた情報と照らし合わせながら、真剣に話を聞く。
「ところが・・だ。保護され連れて行かれた閻魔庁で駄々をこねてな。これが一筋縄じゃいかないって事で案内人経由で記憶管理事務所に来たんだと」
「ちょっと待って下さい」
Jは説明が一旦途切れた事を確認すると、疑問に思う事を雪にぶつけた。
「水先案内人に保護・・・って、通常死んだら水先案内人に連れられて閻魔庁に行くんじゃ・・・。それに、どうして来るのが記憶管理事務所なんです?」
Jの質問に彼は億劫そうに眉を顰めるが、諦めたのか、溜息一つ吐いてから「要するに・・・」と話を再開する。
「水先案内人は基本的に川の岸辺で出待ちしてるんだよ。いちいち迎えに行ってたら限がないだろ」
「はあ・・言われればそうですよね」
「っでだ、彼はリストに上がってからも岸辺に来る様子はなく、仕方なく迎えを出したわけ」
「・・・・」
無言になるJに対し雪は「理解したか?」と確認を入れる。その言葉にJは首を大きく縦に二度振った。
「ちなみに彼が記憶管理事務所に来た事にも、理由がある」
「どんな?」
話の腰を折られ、先を急がすJに雪はもう一度多大な溜息を漏らす。
「・・・すいません」
その溜息の意味に気づいてJは謝罪の言葉を述べると、雪は少し曖昧に微笑んで見せる。
「多くの事に疑問を持つのは、良い事だ」
「・・・・」
急に見たこともない表情を見せられて、Jは二の句も告げない。そんなJの呆けた顔に気づいてか、雪はすぐに「さて」と話を元に戻した。
「彼には心残りがある」
またもや端的に言われ、Jはただ相槌を打つ。
「それは彼の過去に関わるもので、本人は忘れてしまって・・・でも、大切だった事は覚えてる」
「はい」
「そういうことって、あるだろ」
「・・・確かに」
今のJには記憶が無いが、人間なら誰しも似たような経験を持つものだと思う。例えば、子供の頃見た景色、本、曲・・・大切な思い出なのに、それが「何だった」のか。肝心なそれは記憶されていなかったり、忘れてしまったり、うろ覚えだったりすることは少なくないだろう。
彼もまたそうなのだろうか。
「それでだ。過去に経験した事なら本人が忘れちまってても、記憶には残る」
「だから記憶管理局に来たんですね」
Jはようやく納得という顔で明るく笑う。雪も頷き、目の前の老人を見つめる。
(何事もなきゃいいけどな)
心の中では、何故か、もやもやした感情が渦巻いていた。これは何かの警告なのだろうかと考える。
書類に変な点は見つからない。勿論本人からも嫌な感じ一つしないのに、胸騒ぎは治まらない。
「J、お前は何もしなくていい」
「えっ!?」
唐突な雪の忠告にJは驚く。何もしなくていいとはどういうことだろうか。
「一緒についてくるだけだ。余計な事はするな」
「どういうことですか?」
「いいから、絶対だ」
「・・・・」
「上司命令だ」
納得のいっていないJに対し、雪は最後の手段に出る。管理官になった以上、上司に当たる彼の命令は絶対なのだ。Jは仕方なく「・・・分かりました」と了承した。
「とにかく、このご老人を起こして話をしてみない事にはどうすりゃいいか分かんねえよなぁ?」
雪の指の骨がバキボキと鳴る。Jは彼が何をするつもりなのか想像が出来る自分が怖くなった。
「雪さん・・・お手柔らかに」
「分かってるよ。あくまで仏さんだしなぁ」
「はは・・」
雪の楽しげな表情とは裏腹に、Jの乾いた笑いが室内にこだましていた。