孤独の音《1-4》
名前を呼ばれ、その声に振り向く。
振り向いたつもりだった。
そこにあるのが暗闇でなければ、確かにそこには誰かが居てその声の主を知る事が出来たはずなのに…もう前も後も分からない。
ただの闇。
けれども、どこか“絶望”に似ていた。
―力…ヲ望むか…?―
聞こえた声は低く掠れ、そしてとても哀しそうだった。何処かで聞いた事のある声。知る筈はないのに、知らない誰かの声なのに、何故だか“懐かしい”と思う。
「ちから…?」
―望むのか…―
声は耳の奥で反響する。
木霊の様に繰り返しては、その度に哀しさは増して行った。どうして、そんな声で語りかけるのか…胸は締め付けられるように痛み軋む。胸を侵食するように広がって行くこの痛みは何なのだろう。
「僕は…そんなもの…いらない」
―力なんていらない。望まない。
もう、何も望まない。
不意に声は止む。
同時に闇はゆらりと歪み、蜃気楼のようにかき消えた。
―望メ。
望ンデくれ……瑠…イ。
自分の身体が存在するのかさえ分からない空間の中、自分のものとは違う温もりに触れる。微かに香る白檀は優しく、背後から抱きすくめられているような感覚に惑う。そして瑠衣は漸く自分が眼を閉じていた事を知った。
醜いものを見なくて済むように……。
―る…イ。
瑠衣…イキテ……望メ。
終わりのない闇の中で、その声だけがとても静かで優しかった。
瑠衣はそっと目を開ける。
それでも眼の前に広がるのは“暗闇”――いや、違う。限りなく闇に近い濃紺…もしくは紫と言った処だろうか。まるで海の中にでもいるように時折浮かぶ水泡には、鏡のように自分の顔が映り、けれども自分の顔の筈なのに酷く歪んでいた。
「ここは何処…」
小さく呟いた言葉は聞こえない。声にはならずに闇に溶けた。
不意に目の前に現れた水泡に手を伸ばし触れると、映っていた己の顔が酷薄な笑みを浮かべる。その顔は憎悪と血の紅にまみれ恍惚とした笑顔を見せた。
―…ズット死ンデホシカッタ…。
「――っ!?」
唇だけがゆっくりと言葉を紡ぎ、その言葉に瑠衣は息をのむ。直視できずに視線を逸らせば、目の前の自分が更にその笑みを深く刻んだ。面白そうに細められた眼に映るのは罪悪感に苛まれる己の姿。
―オマエガ…殺シタ…。
心に刃物を突き立てられたような衝撃が走る。ズシリと重く、そして冷たい感情が瑠衣の心を侵食すれば、そこに残るモノは“絶望”でしかない。自分が犯した罪の重さと、それ故に起こる感情の昂りの狭間で心は揺れていた。
「僕が…殺した」
今でも残る感触。
冷たく硬い刃物を掴み、それを肉の間から引きぬいた瞬間に噴き出た―自分のものと違わない―血液。顔にかかるその飛沫が気持ち悪くて、その血を拭おうとした。その手が紅く染まっているとも知らずに―。
鮮明に浮かび上がる記憶に腹の底から湧きあがる憎悪を覚え瑠衣は眉を顰める。
本当は、全てが消えてなくなればいいと思った。こんな自分を生み出した世界も、見て見ぬふりを続ける他人も、そして何より自分自身が一番汚く思えた……手も足も出せずに回された歯車がどうしようもなく憎かった。
生きることは、とても哀しかった――。
地下の奥深く、それは存在った。
一際高い天井に空から差し込む光…一面に咲き乱れる花、そして綺麗な水路の先に“祭壇”と呼ばれるに相応しい場所がある。そこはなんとも不思議な場所だった。
長い事過ごしてきたこの場所にも、まだ分からない事は多い。嘆き、哀しみ、憎しみ、哀れみ…色々な感情が交差を繰り返し、また同じ速度で浄化されて行く。
その過程を少年はずっと見つめてきた。
祭壇に寝かせた彼の横で、ライはただ静かに本の続きを読む。パラパラと頁を捲る手は速く、視線は左から右へと流れる。時折苦しそうな声を漏らす彼に視線を落としては溜息を吐いて、また本へと視線を戻した。
―抗え…瑠衣。
例えその先にあるモノが暗く辛い運命だとしても…“生きる”ことを諦めないで欲しかった。どこかに光があるのだと、彼にはそう信じていて欲しい。
―俺に見えない“光”を見つけてくれ…。
俺にはもう世界が“闇”にしか見えないから。
天も地も、神も閻魔も、全てが狂ったこの世界に生きる意味があるのだろうか。守るべきものはあるのだろうか。何の意味もないこの命でさえ利用され、彼らは嘲笑う。
この地に眠る彼らの死を悼むものはいない。その命の尊さを知る者も…。
―全てが…手遅れなのかもしれない。
それでもこの手に掴めるものくらいは守りたいと思った。だから今ココにいる。大人しく言う事を聞いているフリをして、そしていつか“お前”を救うために――。
不意に冷たい手がライの手に触れる。
小さな白い手は躊躇いもなくライの読みかけの本を閉じた。
「…どうした?」
「……」
優しく眼を細めそこにいる同じ顔の頬を撫でる。言葉はない。
瓜二つの顔の中で唯一違う瞳が、慈しみの色を濃く宿しライを真っ直ぐ見つめた。揺れる瞳を閉じ、小さく頭を振るとそっと自分の額をライの額に擦り合わせる。ライも咎めるでもなく同じように瞳を閉じた。
――…。
触れた額から伝わる感情。交わされる意思はライの為のもの。
電子画面の信号のように浮かび上がり切り替わる言葉をライは見つめる。その言葉の羅列を素早く追い、意思を理解する。言葉はないが、それでも心は感情は伝わる。
「そう…やはり」
頷いてライは眼を開く。
同じ顔も、眼を開いて頷いた。そして二人の視線はどちらからともなく未だ真価を問われ続けている彼の元へと向けられる。
ライはそのまま未だ死んだように眠る彼を見つめると、言葉もなくその手を伸ばした。
「彼に――洗礼を」
その言葉には苦渋の決意が滲み、けれども心の中は穏やかだった。
祭壇の水辺に手を浸す。冷たく清らかな水はそれだけで波紋を作り広がっていく。浸す手は左―右手はもう殆ど自由には動かせなかった。
誓約に使う霊力はまだある…少なくともここに眠る同胞は彼を“管理官”と認めるであろう事は分かっている。だから…。
―残酷な運命に巻き込む俺を恨め…。
彼の両手、そして額に祭壇の水で証を刻む。
これは儀式であり、新たな楔を打つためのもの。そして自由に動かせる“手駒”を手に入れる為に必要不可欠な行い。
「彼を――“駆城 瑠衣”を“管理官”に指名する――」
名を名乗る必要はない。
元より彼の意識は“記憶の海”に同じ。それを違えるモノはない。
そして”運命の歯車”は彼の声により回された―――。
気が付くと、眼の前にはあの時と同じような光景が広がっていた。
固い石造りの寝台の上に横たわり青い空を見つめる。雲は流れ行き、それが時を教える唯一のモノのように思えた。
ただ一つ違うのは空の高さ―手が届くと思えたあの空が、今は一際高い位置にある。
茫然と見つめる視界の中にふわふわと浮かぶ銀糸を見つけ、彼は眼を大きく見開いた。
「――っ?」
「気が付いたか」
横たわる自分のすぐ傍で同じ顔が二つ、何やら戯れている。瑠衣の顔を覗き込む人物のふわふわと風に揺れる銀髪を“ライ”がどこか満足そうに弄り、その視線は真っ直ぐに瑠衣を捉えた。そしてその声は告げる。
「お前は“塁”だ――」
「??」
「意味は“とりで”。それ以上でも、それ以下でもない」
唐突に交わされた言葉に瑠衣の思考はついてこれず、ただ言われるがままに頷く。揺れる意識の淵で瑠衣は自分の何かが変わった事を、変わってしまった事を理解する。それが何なのか言葉に表すことは出来ないが、それでもこの心はそれが何かを知っていた。
「僕は…死んだの?」
何処か人ごとのように自分の生死を問う事になるなんて、あの頃は思いもしなかった。頬に当たる風を感じながら瑠衣の心はとても穏やかに凪いでいる。渦巻いていた憎しみや悲しみはいつの間にか心の中からかき消えていた。まるで生まれ変わったように…。
眼の前の少年に視線を向け瑠衣は微笑みかけた。
その笑顔にライは不意に視線を逸らし短く肯定の意を伝えると、頷いて見せる。その瞳がどこか哀しみに煌めくのを瑠衣は見た。
「そう…」
ライの瞳の先にあるモノが何なのか、彼の中に潜む本当の闇を理解する術はない。それでも、今自分の為に哀しんでくれている彼がいることが瑠衣にとって唯一の光だった。
不意に瑠衣の手に触れる冷たく小さな掌が、もう一人の存在を伝える。ライと同じ顔をした人物。名を―雪―と言った。
「お前は一度その生を終えた」
「…うん」
「…そして、ここで新たな生命を吹き込まれた。“管理官”としての」
「“管理官”…?」
理解できない瑠衣に対しライは微笑む。
その笑顔は彼に出会ってから今までの中で、一番優しい色を纏っていた。その事が瑠衣に更なる安心感を与える。
不思議と“怖い”という感情はない。それどころか違うモノになることに何の違和感も感じられなかった。
「お前はここで“人”を学べ。“人”を学び、その生を知り、そして“記憶”を受け入れろ」
「受け入れる…?」
「それが、お前に出来る事だ」
ライの言葉は難しい。
でも彼は決して理解しろとは言わずに、ただ瑠衣に手を差し伸べた。不思議な二人に見守られ瑠衣は、新しい命を受け入れる。
この瞬間、“管理官・塁”が誕生した――。
塁の回想シーンは一旦ここまでです!!
とりあえず管理官になった”経緯”を書きました…が、まだまだその前の部分が開設されていないので謎多きお方です^^;
次回からは、現実世界の”管理局”に戻りますので会話のテンポも元通りになると思われます☆
何となく…我ながらホッとしてるのは何故だろう…(笑)
そんな感じで進みます^^